第六章:メアリ・オーモンドと喪服の女 その1
『残った方々は大丈夫でしょうか……?』
満天の星空を映す暗い水面。
その上を走る若い男女の集団の一人、幽霊の少女が不安げに口を開いた。
彼ら彼女らの移動速度は速い。
これは魔法にて脚力が強化されたことによるものであり、それをもって集団は素早く戦場を離れることに成功していた。
細田隆夫と、その護衛であるシオン・クロップを残して。
「大丈夫だよ、タカオも少尉さんも強いから」
そう答えたメアリの顔に浮かんでいるのは笑顔でこそあったが、その表情の端にはどうしても不安の色が滲んでいる。
彼女が隆夫に殿を託して逃げることになったのはこれで二度目。
一度目……共に拉致された時と違い今は「きっと大丈夫」と他人にも自身にも言い聞かせられる程度には信頼があるとはいえ、やはり不安を完全に消し去ることはできない。
そしてこれが二度目であるが故に、自身への無力感と「自分にも戦う力があれば」という意識がどうしても湧いて出てくる。
とはいえ今はそんなことを考える時ではないと、沼に陥りかけた思考を振り払うように後ろを振り返る。
周囲には既に先程まで数多く存在した怪物たちの姿はなく、遠くからでもよく目立つ隆夫の”ワンド”……”オルフェーヴル”が放つ黄金の輝きも見えない。
そして彼と”デーモン”の戦闘により発生していた爆発音も既に聞こえなくなっている。
聞こえない程遠くまで来たのか、それとも既に戦いが決着してしまったのかはメアリには判断がつかない。
いずれにしても彼女は応援の言葉と無事を祈る言葉、似ているようで違う二つを心中に浮かべながら再会を祈った。
そして再び前を向いたときだった。
「え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
共に暗い水面を走っていたはずの面々の姿がどこにもない。
慌てて周囲を見渡すも、そこにあるのは星空と暗い水面のみ。
メアリの周囲には誰一人として、何一つとして存在しなくなっていた。
《Bonne soirée》
そして皆の名を呼ぼうと息を吸い込んだ瞬間、彼女はそんな得体の知れない言葉を聞いた。
その時の気持ちを言葉にするとしたら「心臓が止まるかと思った」とか、そういったものになるだろう。
聞こえた方向が何も、誰もいないはずの背後からだったのだから当然だ。
弾かれたように後ろを振り向けば、そこにいたのは一人の女性。
先程までは影も形もなかったはずの美しい女性が、静かに佇んでいた。
服装はベールのついたトーク帽、ロングのドレス、さらには手袋に踵の高い靴、そして傘。
それら全てが夜の闇の中ですら際立つ黒で統一されたその服装が、メアリにはまるで親しき誰かを亡くした喪服の女性のように映る。
《Ravi de vous rencontrer……Oh pardon これで通じるカナ?》
その女性はメアリに対し、笑みを浮かべながら再び言葉を紡ぐ。
今度は意味の通じる、理解のできる言葉を。
この世界は、おおよそ一つの言語で回っている。
もはや古代の文献に存在が記されているだけとなった”竜語”と呼ばれるドラゴン独自の言語や、特異な成り立ちを持つ少数の種族や部族が用いる言語など例外も確認されているがそれらは圧倒的少数。
大多数の人間はそれらに触れる機会どころか知る機会すらもなく、共通言語のみを聞き共通言語のみを話して生きる。
そんな中でその喪服の女が発した最初の言葉は、メアリにとって意味を理解することもまともに聞き取ることもままならないもの。
未知の言語、間違いなくそう言い切れるものであった。
それが服装と相まって、不気味さを煽る。
《こんバンハ、初めましてお嬢サン》
ところどころおかしなアクセントで発される言葉はよく通り、それどころか頭に直接響いているような感覚すらもある。
───突如として現れたあまりにも得体の知れない人物が、自分に対し親しげに話しかけてくる。
たとえ柔らかな言葉を紡ごうと、穏やかな笑みを浮かべていようと、そんな状況で警戒を解く者がどれだけいるだろう。
そもそもここは”狭間”と呼ばれる、気味の悪い怪物たちが棲む得体の知れない空間。
こんな場所で出会う者がマトモな人間であるはずがないと、そんな確信めいた予感もある。
心臓の音が耳に響く。
周囲には頼れる者など存在しない中、メアリは不可思議との対峙を強いられる。