第五章:ヘンリー・ウォルコットとベルガーン
三人称視点です。
───気配が変わった。
自身の”ワンド”を召喚後、改めて”金色のワンド”と対峙した際にまずヘンリーが抱いた感想はそれ。
”金色のワンド”の外観には何の変化もない。
しかしその佇まいや纏っている空気は明確に違う。
間違いなく別人と、そう断言できる程に。
『言葉を交わすのは初めてだな、若き剣士よ。魔王ベルガーンである』
聞き覚えのない声。
低く、それでいてよく通り、威厳に満ちた声だった。
周囲をざわめきが支配する。
気でも触れたかと話す者、何か異常があったのかと不安がる者、そしていかなる理由か狂喜乱舞を始める者。
”金色のワンド”が放つ声が突然別人のものに変わり、しかも魔王などと名乗ったことに対する反応は様々だ。
そしてそんな中、ヘンリーは不思議と落ち着いた心持ちで”金色のワンド”を見つめる。
それが脳裏に浮かんだ人物であるのならむしろ納得がいくと、そう感じながら。
『先に言っておくが、出し惜しみはするな』
言いながら”金色のワンド”が大きく両の腕を横に広げ───そしてその手の中に宿った淡い光が、何かを形作っていく。
ヘンリーは最初、形作られているものを剣だと思った。
しかし即座にそれは否定される。
”金色のワンド”が握りしめていたのは、二本の大きな”鉈”。
無骨極まる、美しさとは無縁の武器がそこにあった。
『貴様に、全力で仕合う機会をくれてやろう』
その言葉が開始の合図となった。
”金色のワンド”が、魔王が前に出る。
その踏み込みを言葉にするならば「速い」でも「鋭い」でもなく、「悠然と」となるだろうか。
その刹那、ヘンリーが感じたのは猛烈な圧力。
決して魔王は何か魔法を行使したわけではない、彼はただ前に歩を進めたのみ。
ただそれだけで、相手を呑み込む程の威圧感を───まるで巨大な獣と対峙した時に感じるような、尋常ではない圧迫感を放てる者などこの世界にどれだけいるだろう。
怖れ、恐れ、畏れ。
それらの感情が全身を粟立たせ、足を竦ませる。
だがヘンリーは下がらない。
圧力に負け、後ろに下がれば押し切られるという確信があった。
かといって圧力を振り払うためにと、闇雲に突っ込めば叩き潰されるだけだろう。
故に彼は静かに前を、迫りくる魔王を見据えることを選んだ。
詰まりかけた息を吸う。
鳴りかけた歯を食いしばる。
震えかけた手で剣を強く握り込む。
何が来ても対応してみせると、剣を構える。
その選択は最善であると、強く信じる。
『まずは、良く耐えた』
魔王が放った初撃は、右の振り下ろし。
それを冷静に受け止めようとした瞬間、ヘンリーは猛烈な悪寒を感じた。
心の奥底で何かが「それでは足りぬ」と訴えかけてくる。
───出し惜しみはするな。
そしてひどく鮮明に蘇る、先程自身に投げかけられた言葉。
熟考の末にと言うべきか反射的にと言うべきか、いずれにしてもヘンリーは魔法障壁を展開した。
防御を厚くするという、普段の彼ならば選ばないであろう選択肢を選んだ。
その瞬間響いたのは、轟音。
それは、多くの者が初めて聞く音。
それは、多くの者が初めて見る光景。
無造作に振るわれた、何の変哲もないように見えた鉈による一撃。
それが魔法障壁を破砕し、ヘンリーの剣に届いた。
「魔法障壁の破壊」という現象自体はそう珍しいものではない。
魔法障壁が「許容量を越えれば壊れる」というシンプルなものである以上、戦場等ではありふれたものとすら言える。
だが今回そこにあったのは、そういった”ありがち”とは程遠い光景。
魔力の残滓が、まるでガラスの破片のように舞い散る。
通常は不可視であり、壊れれば青白い煙となってあっさりと消えるはずの魔法障壁。
それが破壊された際、僅かな時間とはいえこうも形を残すのは強固な構造……高い技術と強い魔力でもって作り上げられたものであることを意味する。
そしてそんな強固であるはずの代物は僅か一撃で砕け散った。
それも純然たる力、ただの鉈の一振りで、だ。
それは見る者たちにある事実を理解させるには十分なものだった。
先程までの戦いは遊戯の類といっても差し支えのないものだった───と。
そして彼らの視線の先には、ヘンリーの”ワンド”が後方に飛ぶ光景。
それは重い一撃を受け止めきれずに弾き飛ばされたような有様に映るが、事実は僅かに違う。
彼は受け止めきれなかったのではない。
無理に耐えることはせず、むしろ勢いを利用し後ろへと跳ぶことを選んだのだ。
再び、両者の距離が開く。
『戦意の有無を問おう』
並の者ならば、魔王と対峙した段階で”圧”に呑まれて終わっていたことだろう。
それを乗り越えた者でも大半は鉈の一振りに耐えきれず、僅かに耐えた者たちもそこで心が折れたことだろう。
それほどの力……圧倒的暴力とでも呼ぶべきものを、この僅かな動きで魔王は示して見せた。
「満々ッス」
だがヘンリーはそれで倒れもしなければ折れもしない。
それだけの力と意思が、彼にはあった。
磨き、練り上げ、必死に積み上げてきた技と力。
「いつの日か」と夢に見るだけだった、それの全てを使う機会。
そんないつかが、やってきたのだ。
彼は確かに笑っていた。
生身でないが故に見えこそしないが、歯を剥いて。
もう彼の手に震えはない。
”おそれ”の感情が消え去ったわけでは無いが、邪魔になるほど残っているわけでもない。
彼の眼前に在るのは巨大な山脈のように高く、険しい障害。
その踏破など今の自分には叶うまいという自覚はある。
───それでも。
そこに挑戦することを許されたのならば、頂上を目指したいと強く思う。
故にヘンリーは断崖に手を伸ばす。
未踏の山脈。
魔王を名乗る存在が鎮座する、未だ全容すら見えぬ頂きを目指して。