56科挙*
父から手紙が届いた。
『山が動いた。』
暗号のようだった。母や祖母が生活の心配や日常生活の様子を伝える手紙をしたため、その端に、父の筆跡で一つ書き込まれていた。
でも、これだけで十分だった。王様が父に向けて直接的に動かれたのだろう。一応、事実として受け止めたが、僕がやることは何も変わらない。科挙にきっちりと通ることだ。そして、ウンジュと殿下が困らないように、王宮内での立ち位置を築く。
「何だか……何だかなぁ。」
僕は部屋で勉強していて、急につぶやいて、床に転がった。
「……何だよ、いきなり。」
ジョンミンが僕を上から眺めている。
「いや……何だかなぁと思って。」
「だから何が。」
「……何を目指して勉強しているんだろう。」
「……今更かよ?」
しばらくの沈黙の後、ジョンミンは口を開いた。
「……登ってみないと見えない景色もあるんじゃないか?」
「……ここにも山か。」
「?」
「……心の迷いだな。もう少し頑張るか。」
「そうだよ、その調子だ。お前らしくない。」
週末にウンジュを訪ねる。最近のウンジュはえらく忙しそうだ。カン女官から来訪日時の伺いが届くようになった。向こうの指定した日時に伺えない場合は、こちらの都合を連絡することになっている。
寂しがっていると思うと、かわいそうだが、殿下や女官達にだいぶ懐いてきているなと言う印象もある。でも、やはり、親族に会えるというのが支えになっていると思うし、僕もウンジュに支えられていると思う。
ウンジュに会いに行くと、今年に入ってから、閑散としていたはずのウンジュの部屋周辺での女官の出入りが激しい。カン女官にいわせると、後宮の各部署の女官たちが、ウンジュに上級女官教育ということで色々と教えに来てくれているらしい。部屋にはいつの間にか棚が増え、冊子が積み重ねられ、また紙の束がいくつも積まれている。
「兄上、昨日、先の王妃様の病気快癒の祈願で王宮の外に行ったの。」
カン女官が茶を出してくれ、気をきかせて退出するととたんにウンジュも僕も姿勢を崩した。
「……それは、また因果な。」
ウンジュは自分の座布団を丸めて抱え顎をのせている。家でよくしていて、お祖母様に見つかると叱られたダメな姿勢だ。
「断れないし。ご危篤っていうし。祝詞を捧げる位はね。」
「まぁ、感情的になる理由はあまりないか。」
「お祖母様は嫌がるよね?」
「まぁ、そうだろうね。」
「じゃ、内緒ね?」
「……了解。」
「祝詞の甲斐があったのか、先の王妃様の容態は小康を得ている、とか聞いたよ。」
「お前は祝詞をあげただけだろう?小康なのは、本人の気力だろう。」
「もう、あんなに頑張ったのに。」
ウンジュは不機嫌を装い、お菓子に手を伸ばした。今日の菓子は干し柿みたいだ。ほんの最近まで、まともに食べることが出来なかった自分たちが、こんな豪華な邸で菓子などに手を伸ばす。
「それと、兄上。科挙の表彰式の日、私、行けそう!」
「……大丈夫なのか?」
ウンジュはあご座布団のまま、座り歩きして目の前まで来て、そのままの勢いで、僕の膝の中に頭からつっこんできた。
「うわぁ。」
「こういうの久しぶり~。」
「お前なぁ。」
科挙の合否発表後、席次順に表彰される表彰式の場面があり、家族が一緒に参列するのが習わしらしい。誰も来ないのは若干寂しいと思っていたが、ウンジュが来てくれるのか。
「あのね、カン女官と相談したのだけど、会場が王宮内だから、大丈夫だって。後宮からは出るから、カン女官と護衛の女官を連れて行かなきゃだけど、まぁ、行けなくはないみたい。」
「……お前も偉くなったものだよ。」
「発表とかは大学だから行けないかなぁって思っていたけど、よかった。」
ウンジュは、僕の膝の上に頭をおいたまま、座布団も抱え込みながらゴロゴロする。
「そうそう、前に兄上からあずかった衣装、手直し済んだよ。カン女官にもかなり手伝ってもらったの。」
「……お前、カン女官を十分に優遇するんだぞ。」
「もちろん。彼女がいないと私ダメだもん。」
「それも、そうか。逃げられないようにするんだぞ。」
「うん。」
「失礼してよろしいでしょうか。」
噂話をしたせいか、急に外から、カン女官から声がかかり、ウンジュは姿勢を正した。服装の乱れを直す。
「どうぞ。」
ウンジュが答えると、静かにカン女官が部屋に入ってきた。入るやいなや、音もなく踏み込んでいって、ウンジュに近づくと、簪や乱れた髪を直し、襟を整えた。
「これでよろしいでしょう。」
カン女官はウンジュの仕上がりに満足そうにほほえんだ。
「……ウンジュをよろしくお願いします。」
僕はその場で座ったまま、頭を床まで下げたた。
「兄上、そのへんで。」
顔を上げると平伏したカン女官がいた。
「兄上、身分身分。」
「……わかった。そろそろ、失礼しよう。」
ウンジュの部屋を辞して、大学へと戻る。図書室へと寄ると、サム先輩が本を読んでいた。
「先輩、こんばんは。」
「あぁ、出かけていたのか?」
「はい。妹のところへ。」
「女官をしていたのだっけ?」
「はい。」
「ご息災か?」
「おかげさまで。科挙に及第したら、表彰式には参列したいと言われました。」
「……うちの母も参列したいと言っていたよ。」
「では当日、妹をご挨拶させますね。」
「側室より上位の女官殿に……失礼にあたらないか?」
「序列から言えば、今の王様の妹君様ですから、ご挨拶させていただくのは当然だと思いますよ。妹も女官と護衛を連れていきますが、保護者に代わるような方が側に居てくださると安心です。」
「……そうかい?」
サム先輩のご両親が側にいてくれれば、間違いない気がする。同じ、側室がらみだしな。
「しかし、あっという間だな。」
「先輩には負けませんからね。」
「君に勝てる気はしない。」
「そんな弱気なんですか?」
「僕は自信がないよ。」
「……僕の自信も、根拠なんてないんですよ。」
「……君は楽天的だなぁ。」
「そう、かもれませんね。」
二人でひとしきり笑いあう。科挙はもうすぐである。
大学生は毎年全員が科挙を受けるので、寮内はいつもとは違う雰囲気となっている。ピリピリとした人や、気を紛らわそうとそわそわした人が、部屋から出てきてはうろうろと道を行き交う。
ここまでくると、あとは焦燥感との戦いなのかもしれない。正直、やるべきことはやった。読むべきだと言われてきた本を読み、覚えるべきだと言われたことを覚え、作文の練習をしてきた。これ以上、何をせよというのだろう。
何ら変わらない日常をのようでいて、どこか張りつめた日々が過ぎて、僕らは科挙の日をついに迎えた。
会場の外の準備などは学生が手伝ったりもするが、講義室から何から試験会場として使用する部屋は、不正が行われないように徹底的に確認されるらしい。大学構内に槍を持った武官が配置されて、試験会場へは立ち入り出来なくなった。
「物々しいな。」
知恵の力で武装する大学に、実際の武器を携えた武官が滞在しているというのが、なんともちぐはぐな気がして、思わずつぶやいた。
「恒例行事だと先輩達が言っていたよ。うれしいものじゃないよね。」
隣を歩いていたテスクが、僕のつぶやきを拾ってくれる。
先生達も、科挙の時だけは、兵士が学内に入ることを了承しているようだった。
科挙の日の当日、暦は立春だが、冷え込みは一段と厳しかった。天候は極めて良く、軽く走り込みをして、着替えて食事をとると、仁八の4人組で受験へと向かう。3人は記念受験だとはっきりと宣言していたが、僕だけは受かるつもりでいる。心構えがだいぶ違うが、やることは一緒だ。
会場へ到着すると、試験官の指示のもと、名前、受付番号と座席が指示されていった。受付順ではなく、身分階層順のようだった。僕たちは同じ部屋に分類された。
試験は、父と繰り返し話し合ったことなどについて、記述することを求められるものだった。大学へ来てからの様々な試験でそうだったように、求められる言葉を散りばめつつ、王権への忠誠心や道徳的な規範意識を示しつつ、美しい筆致で要求文字数を埋めていく。
ウンジュなら、何を書くだろうか。筆を動かしつつふと思う。去年の今頃、ウンジュは身売り覚悟で写本していたっけ。僕がここで及第しないと、ウンジュはまたしばらく母上達に会えないかもしれない。
全力は出している。これでダメなら、今後何度受けたってダメな気がする。すべきことはやってきたはずだ。自分を、父を信じよう。
時間が経ち、提出して良いという許可が出た。パラパラと立ち上がり、提出する人がいる。僕もさっさと提出して部屋へと帰ることにした。
結果は明後日だ。




