39墨香
週末が来て、セリさんが再び迎えに来た。殿下曰く、みずぼらしい例の格好で、セリさんと一緒に行政書庫へと向かう。出入り口の管理官も、いい加減に私とセリさんの組み合わせに驚くこともなく、さらりと中へと入れてくれた。
書庫に入ると、墨や紙の匂いが漂ってくる。家も書記部もこの匂いに満ちているので、馴染みのある匂いで何だか落ち着く。
「ウンジュ、おはよう。」
「……殿下、お早いですね。」
「あぁ。」
いつも作業している書庫の奥へと行くと、すでに殿下が座って待っていた。近づく足音に気が付いたように顔を上げて、私に挨拶をした。
殿下の座っていた席の斜め向かいの席につき、言うべきことを頭に浮かべながら話し出す。
「殿下、申し上げたいことがあるのですが。」
「なんだい?」
「私、学習会へでるために週に二日も書記部をお休みしているのですが、日曜日まで休んでしまうのが心苦しくて。日曜日は仕事の日にしたいと思ったのですが。」
「……僕の手伝いは?」
「……次期に兄上もお手伝い出来ますし。」
「……ウンジュ。」
殿下は、急に立ち上がり、私の椅子に跪いた。そして、私の両手をとって握り、語り出した。
「僕がお前と会えるのを、どれだけ楽しみにしているか。」
「……さ、さようで、ございますか?」
「僕のことは嫌いではないよね。」
「……は、はい。」
「僕はお前といると何だかほっとするんだ。日曜日くらい側に置いておきたかったんだが。」
「申し訳ないことでございます。」
「……そうだな、半日は僕と一緒に過ごす時間にしよう。午後は仕方がないから、仕事に行くといい。それでいいかい?」
「……はい、それで結構です。」
殿下の勢いに完全に飲まれてしまったが、午後はゲットできたからいいか。話し終わっても、しばらくぎゅっと手を握りしめられていた。
その日も殿下と書庫で色々と調べ、そして、お茶とおやつ休憩を挟む。
「このお菓子、可愛いですね。」
「だろう?」
そして、再び、お食べパターン登場。カン女官の注意を思い出す。
「ほら。」
「いえ、自分で食べますから。」
「ほら。」
「……え?」
「ほら、あーん。」
結局、口を開く。お菓子が投入され、甘味を感じる。
「美味しいだろう?」
「はい。」
殿下は満足そうにしている。
「殿下に餌付けされている気がします。」
「もちろん、餌付けしているんだよ。」
「……?」
「なんちゃってね。」
殿下の微笑みにドキリとした。二つ目のお菓子を口に入れられたときに、殿下の指がくちびるに触れた。殿下は砂糖の付いた手をペロリとなめる。
「どうしたの?」
「……いえ、何でも、ありません。」
「そう?」
額に殿下は手を当ててきた。
「熱はなさそうだけど。」
「……大丈夫です。」
「本当に?」
顔を近づけてきて、目を見つめられた。なんだか恥ずかしくて、視線を合わせないようにと目が泳ぐ。
「じゃ、おやつはこの辺にして、作業に戻ろうか。」
「……はい。」
お茶を飲み干し茶器を渡すと、殿下と手が触れた。慌てて手を引っ込めると、手が殿下の茶器にあたって、殿下の残していた茶がこぼれてしまった。
「あ、申し訳ございません。」
布巾を差し出して、茶を拭き取ろうとすると、同時に手を出してきた殿下の手が重ねられた。
「落ち着いて。」
「……。」
「手にけがはないね。」
「はい。」
手を取り上げて、そっと撫でられる。それがなんだか恥ずかしい。おかしい。
「ウンジュ、可愛い手だね。」
「……。」
その後、作業を再開させて、お昼前に終了すると、セリに部屋まで送り届けられた。
撫でられた手の感触をまざまざと思いだしてしまう。
「ク女官様、お昼をお持ちしましょうか。」
「……えぇ、お願い。」
「……どうかされましたか?」
「別に……何でもないわ。」
「……そうですか?」
部屋で文机の前に座って、明日の試験のためにノートを見直す。なんだか、落ち着かない……。
「可愛い手だね」
先ほどの声が、頭の中で繰り返し聞こえてくる。
「女官様、お食事になさいませ。」
「はい。」
「……本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。」
「何かあったら、遠慮しないで言って下さいね?」
「……ありがとう。」
殿下がきれいな顔で微笑んだ。殿下に見つめられた。手を優しく撫でられた。
「殿下は如何でしたか?」
「え、で、殿下?殿下は、いつも通りでした。」
「今日もおやつをお召し上がりになったのですか?」
「……え、えぇ。美味しかったわ。」
「また、あーんってされたんですね?」
「……。」
「そうですか。」
「はい。」
「殿下はどうしてそんなことされるのでしょうね。」
「……。」
昼食をとり、若干、気持ちが落ち着かないけど、仕事に行くことにする。書記部へ行くと、書記部は日曜日なのに、てんてこ舞いになっていた。
「ク女官様、本当に来て下さったんですね、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。毎週、午後はこられるようになりましたので、よろしく。」
「では、早速ですが。」
書記部での作業を開始して、サクサクと書類を書き進めていく。とりあえず、目の前のことをとりあえずこなそう。
やはり、墨の匂いは心を落ち着かせる。一文字ずつ、書き連ねていく作業も、筆にじっと墨を含ませる作業も好きだ。最近は墨をする作業は他の者がやることになっていて、適当なタイミングで硯が取り替えられる仕組みになっているが、墨をする作業も好きだ。
あまり思い煩うのはやめた方がいい。墨の匂いを鼻孔に感じながら、ふとそう思った。




