自分に殺される夢⑤
外界の光一切が断たれたのに、自身の輪郭はハッキリ感じる。一面が黒に支配されていて、遠近感が完全に機能を失う。
見間違えるわけがない、あの悪夢での光景そのままだ。
「嘘だろ嘘だろ嘘だろ!?」
忙しなく目を動かしながら、空間の果てを求めてがむしゃらに走る。走る。走る。
少し息が上がってきた。なのに、球形の壁にぶつかる気配はない。
「なんでだ!? あの球体こんなに広いのか!?」
『あいつらは現実を超えてくる』……ついさっきの夜子の言葉を思い出した。これもその一環ということか。正夢になるためなら、四次元めいた空間すらも作ってしまえるのか。
足をとめて膝に手をつき、乱れに乱れた呼吸と思考を必死に取り繕う。
どうにか助かる方法……。逃げ切る? 無理だ。ゴールがないし体力も続かない。返り討ちにする? 望みが薄い。向こうからは干渉できても、それは果たして可逆だろうか。というか勝てる気がしない。外にいる夜子の助けを待つ? それこそ望みが薄い。閉じ込められる直前のあの顔。まさかあそこまで歪んでいるとは。
妙案が浮かばない。詰んでいる。どうしようも、ない。
全身が震える。涙腺が熱を帯び始める。
「え…………オレ、本当に死ぬの……?」
こつ。こつ。
背後から足音が聞こえた。
「っ!?」
こつ。こつ。
近づいてくる。音の感覚からして、まだ走っていない。
理性は最早働いていなかった。直接見なくてももう分かっていたのに、優丸はゆっくりと振り返る。
「ひ……」
悲鳴が漏れた。自分と同じ制服。同じ髪型。同じ顔つき。唯一違う、化物のような目つき。
「……ヒャハ!」
そして、本能が嫌悪を訴える笑い声。
優丸の中で恐怖が振りきれた。
「ああああああああああああああああああああああ!」
すぐさま反対方向へ駆け出した。正しくは、駆け出そうとした。
しかし恐慌状態での足は、指示通りには動いてくれず……。
「あ……!?」
出だしの時点で盛大にもつれ、優丸は一歩も動けないまま転倒した。
夢の中で何度も経験した絶望感がのしかかる。今回のは特別大きい。なぜならこれは現実なのだ。夢じゃないのだ。ここから目が覚めることは、ないのだ。
地に伏す寸前に身をよじり、優丸は仰向けに倒れた。尻餅をついた痛みを意に介する余裕もない。
自分そっくりのナニカは狂喜に顔を歪め、こちらに手を伸ばし飛びかかってきていた。
「……!」
たまらず目を閉じ、たまっていた涙があふれてこぼれる。無駄なことだと確信しつつも、庇うように顔の前を両腕で覆う。
「…………」
せめて一瞬で終わってほしいと願うが、それすらきっと叶わない。夢の中ですら、あんなに苦しくて痛いのだ。爪が皮膚を裂き、指が肉を抉るおぞましい感覚が呼び起こされる。今からあれを現実に味わう。死ぬ前に気が狂うかもしれない。最悪だ。最悪すぎる。
「……?」
しかし、その最悪が中々訪れない。夢の中なら、転んですぐ首を鷲掴みにされていた。どういうことだ。まさかすぐに終わるのは勿体ないからと、焦らせるだけ焦らして殺すつもりなのか。
恐る恐る目を開ける優丸。目と鼻の先に、その光景が。
両手で口と目を思いきり歪め変顔をする、自分そっくりのナニカの顔が映った。
「へ?」
たまらず間抜けな声を漏らすと共に、辺りを包む黒がガラスのようにひび割れて砕けた。変顔をするナニカも消え失せる。
代わりに優丸の周囲に広がったのは、さっきまでいた喫茶・夢心地の景色そのものだった。
「ガチ泣きしてる。だっさ」
「っ! う、うるひゃい……!」
席から立った夜子に見下される。食ってかかりたかったが、嗚咽でまともに発音できない。
「大丈夫だったかい? ほら、これを使いなさい」
厨房から出てきていたマスターにハンカチを差し出された。素直に受け取り涙を拭う。更に手を貸されかけたが、流石に恥ずかしすぎるので自力で立ち上がる。
「なんで……? どうなったんだ?」
幾分か落ち着きを取り戻し、優丸は疑問を口にした。あの悪夢が正夢になったのなら、自分はあのまま殺されていたはずだ。なのに、変顔だけ見させられて終わってしまった。まるで意味が分からない。
「確かに貰った」
夜子が手のひらを広げ、ガラス玉のようなものを見せてきた。しかしそれ以上はなにも言わず、元々座っていた席へと戻ってしまう。やっぱり意味が分からないので、優丸はマスターに視線で訴えた。
「ええとね。正夢直前にまでになった夢は、確かに簡単に引き剥がせない。ただし、別の夢を介入させるのは案外簡単らしいんだ」
「夢を介入?」
「そう。『自分そっくりのナニカに殺される夢』に別の夢を……」
「別の夢を介入させて、『殺される』の部分を改竄した?」
その結果、優丸の見ていた夢は『自分そっくりのナニカが変顔をする夢』に変わった……。
足の力が抜けて、優丸は再びへたり込みそうになる。カウンターに手をつきこらえつつ、涙目のまま夜子の方を睨んだ。そんな方法があったなら、さっきのやり取りはなんだったのか。
「意地悪……!」
「うぃ」
「どういう感情の返事それ?」
優丸と目を合わさず、夜子はビー玉を眺め続ける。あれが取り出した夢なのだろうか。よく見ると、中でマーブル模様が蠢いていた。
「急に混ぜられて不完全燃焼……? ごめん。私がちゃんとつき合うから」
なにやら嬉しげに、ビー玉に向かって語りかけ始める。夢のことしか眼中にない様子だ。
「ごほん。ところで夜子」
文句を言いかけた優丸を遮るように、マスターがわざとらしい咳払いをした。二人の頭に疑問符が浮かぶ。
「夢が不機嫌になるからと、強引に『混ぜる』のはあまり好きじゃなかったな」
「…………」
「彼を救いつつ夢を満足させるのなら、『つけ足し』でもよかったんじゃないか? それなら夢自体の結末は変わらないから、機嫌も悪くならないだろう」
「…………」
少し浮かれ気味だった夜子の表情が、一瞬で凪いだ。一転して不機嫌を隠そうともせずマスターを睨み、ビー玉を握り込んで席を立つ。
「混ぜる? つけ足し?」
優丸はなんとなく想像する。混ぜるとつけ足し、なにが違うのか……。
優丸の見た正夢は、完全に結末が変わっていた。殺されずに済んだ。これは混ぜるの方らしい。
それに対して、つけ足しは結末が変わらないという。呼び方から素直に想像するなら、完結した夢に別の夢をリレーさせるといったところか。死んだ直後に、なんらかの夢を即座に見せて助け出す……。
確かにそれでもなんとかなりそうだ。例えば、生き返る夢をつけ足す。夢の中で死んで生き返るなんてこと、多分よくある。優丸も人生で一回は見た気がする。
なぜ夜子はそうしなかったのか。マスターの口振りから察するに、混ぜると夢自体が変質する分、機嫌が悪くなる。夢の管理人が、あえてその方法を選んだ理由は? 優丸からすれば、夢で尚かつ生き返るにしても、死なずに済んでよかったが。
……夜子のとった方法のお陰で、死なずに済んだ。
「え」
見開いた目で、歩き去ろうとする夜子を追う。推理の結果導き出された仮説は、彼女の態度からは想像もできないものだった。
「まさか、オレのため?」
すれ違う瞬間、夜子は軽く優丸の肩をたたいた。あまり痛くない。そのままカウンターまで歩き、スイングドアを足で蹴り開け、奥にある階段へと向かおうとする。
「口も足癖も悪いぞ。もっと素直になりなさい」
「チッ……うっさい」
軽口を飛ばしたマスターに対しても、同様に肩を軽くたたく。やはり大したダメージはなさそうだった。
「…………」
優丸は夜子の背中を見つめる。
口も態度も悪い。間違っても好きになれないタイプの相手。その上夢の管理人という、得体の知れない肩書き。こんな事件がなければ、関わることすらなかった存在。
それでも。
「夢ヶ丘!」
「…………」
「ありがとう」
どうせ生き返るのだからと、夢の機嫌を優先せずに。最後の最後は、自分のために動いてくれた。だから、これくらい伝えるのが礼儀だと思った。いや、伝えたくなった。
「…………」
一段目に足をかけたまま、夜子が止まる。
「…………ふん」
数秒後。結局優丸に振り返ることなく、その姿は階段の奥へと消えていった。なんとなく、さっきまでほど腹は立たなかった。
「すまなかったね、本当に。色々と」
「いいえ」
「……それで。もう少し時間いいかな」
「? まあ、両親共働きで遅いんで、特に問題は」
優丸は席に座り直す。さっきまでと打って変わり、神妙な面持ちでマスターは切り出した。
「話と、お願いがあるんだ」