自分に殺される夢②
「…………」
女子生徒が一人、不機嫌そうな目つきで優丸を見下ろしている。
学校指定のブレザーではない紺色のパーカーを着込んでいるのと、癖毛なのか寝癖なのか分からないショートヘアーが特徴的だ。恐らく女子の平均よりも低い身長。しかし小動物らしさなんかは皆無で、そのジトリとした眼差しを始め、全体的にマイナスのオーラを感じる。
話したことは一度もないが、存在感はあるので知っていた。
「ええと……夢ヶ丘? だよな」
夢ヶ丘夜子。同じクラスに所属する女子生徒だ。
優丸の知る限り、親しいクラスメイトは特にいない。常に一人で席に着き、誰かと話しているところすら見たことがない。周りも彼女の放つ雰囲気を察し、深く関わろうとしない。言っては悪いが、完全に孤立した存在だ。
そんな人物が今に限って、自分になんの用があるのか。
「なにか?」
「…………」
手短に質問をぶつけたが、夜子は結んだ口を開こうとしない。ただそこに突っ立って、ジト目で優丸を睨み続ける。
「……おーい」
「…………」
もう一度呼びかけても無反応。眉一つ動かさない。直立不動で優丸の隣に居座り続ける。なんなら瞬きもしていなかった。
「……あー…………」
なんだこれ。どういう状況だ。こいつだけ時間が止まってるのか。なんで自分の隣でそんな奇跡が起こった?
眠気も合わさり思考がまとまらず、まさか自分が時をとめたのかとすら思い始める優丸。当然そんなことはない。
それを証明するように、夜子が遂に言葉を発した。
「……ハリセン」
ハリセン。漫才やコントで使われる小道具。張り倒す扇子、略してハリセン。
「え、ハリセン?」
唐突にぼそぼそ呟かれた単語を、優丸はそのままオウム返しにした。やっと喋ったかと思えば、ハリセン。なんだそれ。最高に意味が分からず、早く帰りたいという思いすら忘れて固まり続ける。
夜子が右手を高く上げた。つられて優丸の視線も高くなる。
一瞬も目を離さなかった。なにも考えずぼーっと見上げてはいたが、変化があれば見逃すはずがない。見逃す余地がない。
だから、夜子の右手にいつの間にかハリセンが握られているのを見て、本気で困惑した。
「は?」
優丸が目を見開いたと同時に、躊躇なく頭を張り倒された。お手本のようないい音が教室を揺らす。
「……は?」
困惑が解消されないうちに追い困惑を喰らい、優丸の思考がフリーズした。
今なにされた?
……どつかれた。話したことない女子に。どこから取り出したかも分からないハリセンで。思いっきり。
張り倒された衝撃で下を向いた顔を、もう一度上げる。夜子はなにか腑に落ちない様子で、大きなハリセンと優丸を見比べていた。
「…………」
やがて優丸に焦点を戻し。
右手を高く掲げ。
「え、ちょっと待……」
もう一度優丸の頭を張り倒した。
「なんで!?」
優丸の悲鳴と衝撃音がシンクロする。
まさかの二回目に、いよいよ優丸は恐怖を覚えた。恐ろしい夢と奇行に走る女子……。二つ同時進行で怪現象に襲われるだなんて思ってなかった。
恐る恐る夜子を見上げる。なぜか明らかに不機嫌度合いが倍増していた。眉間に皺を寄せ、口をへの字にし、射殺すような目で優丸を見下ろしている。というか、最早見下している。
「チッ」
「えええ……?」
しかも舌打ちまでされた。理不尽すぎて怒り方が分からない。
そして二回もハリセンの音が響けば、嫌でも教室の視線は集まる。各人が思い思いの会話を中断させてまで、優丸と夜子を怪訝に見つめ始めていた。既に寝起きの絶叫で悪目立ちしているので、これ以上は勘弁願いたい。
どうしようと一瞬考え、思いつく。
そうだ、帰ろう。
「えーと……うん。それじゃあ」
言いたいことは色々あった。しかし当初の目的を思い出して、優丸は鞄を担ぎ席を立つ。まだしかめっ面を向けてくる夜子に背を向け、そそくさと教室を去ろうとする。
そして扉に手をかけたとき。
「……ハンマー」
ぼそりと一言、衝撃的な単語が聞こえてきた。中途半端な姿勢で固まる優丸。
ハンマー……。主に釘を打つための道具。ハリセンと違って、人を殴るものじゃない。まさかと思い、恐る恐る振り返る。
「いや……え?」
果たしてそこには、変わらず不機嫌そうにしている夜子がいた。
右手からはハリセンが消え、代わりに金属製のハンマーが握られている。
「…………」
「さ、流石に違うよな? 殴るものとしての格が違うもんな? なあ?」
そう言う優丸の声は震えていた。さっきの一連の流れから、とてつもなく嫌な予感がする。半ばパニックになりながら、不安を拭うように言葉を連ねた。
「い、いやー。夢ヶ丘ってそんな手品ができた上、激しめのジョークとか好きだったんだな! でもオレ今日は体調悪くて、そういうのはまた今度つき合うから……」
「黙れ」
右手を振り上げた夜子が一歩進んだ瞬間、優丸は扉を勢いよく開き飛び出した。
駄目だあれは。目がマジだ。
一心不乱に廊下をダッシュする。同じく走っている足音が背後から聞こえてきた。追いかけられている。
「ああああああああああああああああああああ!?」
校内を全力疾走しながら、優丸は本日二度目の絶叫を轟かせた。すれ違う生徒や教師が、一瞬訝しんでから後方を見てギョッとする。恐らくハンマーを振り上げながら走る夜子に驚いているのだろう。
一年の教室のある三階から、奇跡的な足裁きで一階へ下りきる。人生で一番速く、かつ的確に階段を下った。
その勢いのまま下駄箱へ直行。ぶつかりそうになった生徒を、流れるように華麗な動作で躱す。そして上履きから履き替えるのも忘れて校舎を駆け出し、校門を抜ける。
疑う余地もなく、優丸は生涯最高のパフォーマンスで下校した。今ならスポーツテストで校内一位を取れるかもしれない。
相手は女子だ、もう大丈夫だろう。そう思ってスピードを緩め、背後を見やる。
五メートルくらい後ろに、両手でハンマーを振り上げる夜子がいた。
「うっそだああああああああああああああああ!」
落ち着きかけていたエンジンをふかし直す。優丸は泣きそうになりながら逃げた。
とてつもない不条理。恐怖からの逃走。
ふと状況に既視感を覚える。
「なん、これ……夢の続き!?」
やけくそ気味に叫び散らした。追ってくる存在は別物だし、場所も真っ黒じゃなくて約一ヶ月歩いた通学路。
しかしシチュエーション事態は、ここ三日間優丸を悩ませる悪夢と一致していた。嫌な予感がする。まさかこの後転んだりしないだろうか……。
「あがっ!?」
思い至ると同時に、現実になった。住宅街に差しかかる手前で、優丸は盛大に転倒する。
「……マジか」
転ぶと同時に地についた手で上体を起こし、後方を見る。
息一つ切らしていない夜子が、無言で優丸を見下ろしていた。ハンマーを高く掲げたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「逃げるな」
「いや、逃げるだろ、誰でも……! ゼエ……」
「チッ」
這いつくばったまま逃げようとするが、進行方向に回り込まれた。
「待って、死ぬ! 洒落にならないって! 本当なに考えて……」
「うっさい」
夜子の両手に力がこもり、ハンマーが振り下ろされた。
「うわあああああああ躊躇ねえええええええええ!」
終わった。わけが分からないが、とにかく終わった。
泣き叫ぶ優丸の頭部に、鋼の鈍器が直撃。人体から鳴ってはいけない音が全身に伝播する。
「……あれ?」
しかし、痛みがなかった。震える手で頭部に触れて確認するも、殴られた痕跡が見つからない。離した手を視認してみても、血や頭の中身は付着していない。
つまりハンマーで殴られたのに、優丸は完全なる無傷だった。
「どうなって……ていうかそのハンマーどういう仕組みで」
不可解が渋滞している。理解しようとするのが、もう馬鹿らしく思えてきた。
助けを求めるように、優丸は夜子を見上げた。どんな理由でこんな凶行に及んだのか。ハリセンといいハンマーといい、どういう仕組みなのか。彼女はなにか知っているのではないか。
期待を込めて目を合わせたが。
「……チッ!」
あからさまに不機嫌そうな舌打ちで一刀両断された。
「…………」
優丸の表情から困惑が引っ込み、真顔になる。
いきなり隣に立たれたかと思えば。ハリセンで二回も張り倒すわ。そのあと舌打ちするわ。ハンマー持って追い回されるわ。そのハンマーで殴られるわ。更に舌打ちされるわ……。
ここにきて段々腹が立ってきた。さっきからなんなんだこの女は。理解できることは一つもないが、とりあえずこう思った。
こいつ嫌い。
「ねえ」
「なに」
「立てば」
指摘されて、優丸は苛々しながら立ち上がった。
「言われなくても立とうとしてましたが?」
「は? うっざ」
「貴様……」
こいつ嫌い。
優丸は額に青筋を浮かべ、夜子を睨み返した。急激に怒りが振りきれて、逆に口元がにやけてくる。この女どうしてくれようか。
「一つ聞かせて」
「なんだよ!? 聞きたいことあるのはオレの方なんだけど!?」
「お前最近、変な夢よく見てる?」
優丸は目を見開く。感情のままに吐き出そうとした叫びが喉に詰まり、気管で変な音が鳴った。あまりのことに一時は忘れていた大問題が、予想外の人物によって呼び戻される。
「なんっ、なんで知ってるんだよ?」
「…………」
「おい?」
「説明めんどい」
「おい!」
本当に面倒くさそうにため息をつき、夜子は頭を掻く。
自分から話を振っておいてその言い草。しかもその内容は確実に、優丸にとっては無視できないもの。降って湧いた希望と言ってもいい。めんどいの一言で済まされていいはずがない。
「お前なにか知ってるのか!? だったら教えてくれ! こちとらもう三日も悩まされてるんだよ!」
「……三日?」
夜子が顔をしかめる。また理不尽に苛立たれたのかと思ったが、どうやら違うらしい。目線を少し下げ小さくうなりながら、なにやら考え込んでいる。
そして数秒後。優丸の脇を通り抜け、どこかに歩き去ろうとした。慌ててその肩を掴んで引きとめる。
「いや待て待て! 今の流れから一人でどっか行くなんてことある!?」
「チッ……」
乱暴に手を振り払われる。舌打ちのおまけつきで。
希望が怒りで上塗りされた。
「……もう言わせてもらうわ。オレこの短時間で、お前のことメチャクチャ嫌いになった!」
「あっそ。じゃあついて来なくていい」
「……え?」
自分も踵を返してしまおうかという直前で聞こえたのは、思ってもみない言葉だった。
「どっかに案内しようとしてたのか?」
「早く帰れば」
「ま、待って! 行く、行くから!」
足をとめない夜子の隣に、優丸は小走りで追いついた。
結局よく分からないが、なんだかんだで力になってくれる……らしい。そう思うと、さっき吐き捨てた言葉が途端に申し訳なくなってきた。悪いのは確実に相手の方だが、謝らないのは目覚めが悪い。
「さっきは言いすぎて悪かっ……」
「うっさい会話がだるい黙れ」
「…………」
やめた。色々と考えることを。ただ一つ……。
こいつ嫌い。