第5話:アイドル 綾波水瀬
「おはようございまーす」
眠そうな声で、パーテイションからヌッと顔を覗かせたのは小柄な少女だった。彼女は二郎の顔を探しあてると、すました微笑で仕切りの中に入ってきた。
ふわふわにゆるくカールした淡い栗色のショートボブ。一点のシミもない瑞々しい両頬は、薄すく桃色がかって血色の良さがありありとしている。
背は小学生と間違えそうになるくらい低く顔も幼めだが、相反するかのように不釣り合いな巨乳が、白いブラウスのボタンを今にも引きちぎらんとしていた。
「おう、水瀬[か。おはよう」
「水瀬ちゃんおはようございます。今日はいつもより早いね」
由沙に顔を向けることなくズズズと二郎に歩み寄ってきた水瀬は、誰もが納得するであろう、まごうことなき美少女だった。世のヲタクどもが愛してやまないロリ巨乳というやつである。
「二郎の気配がした」
そうのたまって彼女はおもむろに両腕で自分の胸を挟み、その豊満さを強調するように彼に向かって突きだした。両腕の隙間を変えてムニムニと挟まった膨らみを動かし、誘うかのようにしている。
「ほーれ、ほーれ」
「棒読みでなにやってんだお前は」
「こうすると男は喜ぶって聞いた」
誰にだとは問わなかった。そうやってツッコませ、話を膨らませていくのがいつものパターンだ。彼女は彼と会うたびに、なんらかの方法で誘惑しようとしてくる。
じつに研究熱心で、その努力は認めるところであるが、彼にはロリ巨乳属性への思い入れなどなに一つなかった。『女の醜美には気をつけろ。特に美しい女ほど要注意だ』とは、彼の師匠でもある平安の世を生きた陰陽師の口癖だった。
その師匠からの薫陶と、なんども騙されつづけた美しくも醜い悪霊たちのえげつない精神攻撃が、彼の醜美感に多大なる影響を与えていた。
ただ美しいだけの女や、可愛いだけの美少女では、女として彼の男心をくすぐるには至らないのだ。その程度で彼の心は小動もしない。
「デカい乳だがエロさが足りない。いや、皆無だ。それに女としての魅力、フェロモンがまるで出ていない。水瀬はタダとびきり可愛いだけだ。仔猫みたいにな。父性本能しかくすぐられん」
「うぅ~、それは褒められてるのか、けなされてるのか……じゃぁなでて」
毎度毎度、世の男たちから見れば涙ぐましい努力を続ける彼女に免じ、最近の彼は彼女に甘くなってきている。
「おうおう、水瀬は可愛いなぁ」
「ふにゅぅ。でへへ」
二人の寸劇を気に留めるでもなくパソコンに向かい、なにやらテキストをカタカタと入力し続けていた由沙が振り向いた。
「ハイハイ、水瀬ちゃんはレッスンでしょ。いつも遅いって怒られてるんだから、今日くらいは早く行った行った。あ、ちゃんと顔は整えていくのよ」
「了解。由沙姉」
由沙の指示を聞いて素顔に戻った水瀬は、いつもの理知的な低めのトーンで返すと、くるりと背を向けてスペースを出ていった。
ロリロリした容姿と、この冷静な語り口のギャップが受けているらしい。彼女の顔を、二郎はちょくちょくテレビで目にするようになっていた。
「二郎さんのセクハラ発言って、ちっとも嫌らしく聞こえないんですよね。どうしてだなんろう?」
たしかに彼は、無遠慮にセクハラ発言をすることがある。しかしそれでも、いちおうTPOと場の空気はわきまえているし、下心など一切ない。
「俺がなにも感じてないからじゃねぇのか? 水瀬の乳もただデカいとしか思わんしな」
「でも、セクハラ発言は控えてくださいね。タレントはイメージが命なんですから。発言ひとつでタレント生命終わったらシャレになりません」
キリリと引き締まった顔つきで、由沙はそう忠告した。
「でもよ、ディレクターとかプロデューサーには演技すんなって、素のままで通せって言われてんぜ」
「それとこれとは話が別です。いいですか、ありのままの二郎さんの魅力を維持しつつ、問題になりそうな発言だけ控えるんです」
彼女の指摘と撮影現場からの注文。この相反する命題を彼なりに咀嚼し、守るべきラインを定めて彼は振舞っている。
彼女と初めて出会ったころ、幽世に十年もいた影響か、彼の言動はガサツそのものだった。度重なる指摘に反目しあったこともあったが、結果今の良好な関係につながっているのだ。
だから彼が、彼女の言葉をないがしろにすることはない。
「魅力っていわれてもなぁ……」
ないがしろにはしないが、面倒なことにはかわりないのだ。その気持ちが、馬鹿正直に顔に出てしまうのが彼の欠点だろう。
「もう! あからさまに怖い顔しない。面倒なのは分かりますけど、なんとか頑張ってください」
しかしそんな顔を向けられても、彼女がひるむことはなかった。彼は幽世で、命を懸けたやり取りを幾度も潜り抜けてきた。そんな修羅場で磨きがかかった彼の強面に、委縮せずにすむ者は少ないだろう。
内心では、逃げ出したいくらい怖いと思っているかもしれない。現に彼女は、すこし引きつり気味の顔色で彼に相対しているのだから。
そんな彼女の頑張りに応えられないようでは、男が廃る。今から彼女はある種の戦場に出向くのだ。その敵はあまりにも強大過ぎる。
だからせめてもの手向けを送ろう。
「由沙にそこまで言われちゃ仕方ねぇか」
ニカッと気持ちいい笑顔で、二郎は由沙に返していた。彼女の顔にも笑みが戻る。
「そろそろ出るぞ。飯は途中で食うからそれでいいな」
しかしその笑顔は一瞬で崩れた。彼女はキリリと顔を引き締める。
「ダメです、今はできるだけ人目につかないようにしないと。お昼ご飯はわたしが途中で買いますから、二郎さんはこれを着けてください」
それは子供に説教するような口調だった。彼女にとって、彼は手のかかる子供のような存在なのかもしれない。
しかしそんな扱いを受けても、彼は嬉しそうな顔をするのだ。ましてや逆ギレするようなことは、今まで一度たりとてなかった。仮に反目したにしても、軽いにらみ合い程度だ。
そもそも彼に説教するような存在は彼女しかいない。十年ぶりに会った両親には、砂糖を吐きたくなるほどの甘々な扱いしか受けなかった。
両親の態度も分からないではない。けれども、もうそんな年でもないし、逆に居心地が悪くなって、ひと月もせずに彼は家を出ている。
それはさておき、説教してくれる彼女を、彼は貴重な存在だと認識していることは間違いない。
「さぁ、気合入れていきますよ」
「おう」
渡されたマスクとサングラスを彼は装着し、二人は事務所を出たのだった。