第八話.新たな夜の子
巣の周辺に設置した罠を巡回していたリースは、ふっと周囲が暗くなったことを不審に思い空を見上げた。
そこに広がっていたのは星々煌めく夜空だった。
「え……?」
さっきまで、青々とした晴空があったはずだ。こんなふうに急に夜になるなんて有り得ない。
「もしかして、ネムが……?」
人智を超えた妖の力が原因ならば、有り得ないことも有り得るのではないか。そんな神秘の夜空を銀色の星が流れている。リースは卵の入った籠を抱え直して「綺麗だ」と呟いた。
「すごいな、あのひとは」
美しい夜の中を、ひときわ大きな星が降りてくるのが見える。きらきらと散らす銀光と、夜色を裂く様な白い軌跡。
あの夜空のどこかにネムサクナリアがいる。艶やかな双翼を広げて、鉄の竜を静かに見下ろしているのだ。
その姿を想像してリースは微笑んだ。
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全ての妖の母である、深く麗しい夜が招かれた。白い月がぽっかりと青みがかった黒の中に浮かんでいる。星々は囁く様に煌めいて、この状況に戸惑う鉄の竜を笑っていた。
「我が愛し子に祝福を、新たな夜の子に幸いを。そして……愚かな獣には星を一つやろうね」
お前には勿体ないほどだろう、とネムサクナリアは微笑んだ。余裕たっぷりに構えているが、その実かつてない緊張感に黒い双翼の端を震わせている。
(やはり、夜を招くのは力を使いすぎる。これで片が付かなければおしまいだ)
だが間違いなくやり遂げなければならない。何故なら自分は、愛しい人の子と約束を結んだから。
今も巣を中心に動き回って罠を張り巡らせているリースの気配を感じている。本当に聡い子だ。この状況で、鉄の獣による奇襲を考慮してすぐに動いたのだから。
「わたしを待つ子らのために、わたしはお前に勝つよ」
ネムサクナリアは歌うようにそう言って右手を夜空へ向けた。それを見た鉄の竜が咆哮する。金属の軋る音を立てて翼を動かし、黒鴉の妖が降らそうとしている脅威を阻もうと突進してきた。
ようやくこの状況に思考が追いついたのか。だがもう遅い。ふうわりと回避して目を細めたネムサクナリアは一言呼んだ。
「鮮やかなる星よ」
それに応え、夜空で一つの星が一等目映く煌めいた。白銀色の光の中に、今は失われた太古のものたちの輝かしい色を数多宿して。
そして星は降る。
恐慌状態に陥り、口角から泡を飛ばしながら必死に逃れようとネムサクナリアに背を向けた鉄の竜目掛けて。
「原初の火へとお還り、哀れな獣よ」
目映い白銀の星が、この世の始まりから燃え続けてきた火が、鉄の竜の巨躯を貫いた。ネムサクナリアの祈るような声の余韻の中を、鮮やかな火に焼かれ、鉄の竜は還っていく。
「これで、約束は、果た、せる……ね……」
鉄の竜が完全に還ったのを見届けたところでネムサクナリアの体が限界を迎えた。あるはずのない夜があるべき時間へと帰っていき、また明るい青空が戻ってきたその真ん中で、力を使い果たした黒鴉の妖は墜落した。
真っ直ぐに落ちてくるネムサクナリアの体を、伸びてきた蔓草たちが網の様になって柔らかく受け止めた。ふわふわと浮き上がった清流が傷を洗い清める。
それは小さな小さな妖たちであった。この森に、ネムサクナリアの庇護を求めて集まった、弱く儚い小さな夜の子たち。
彼らはずっと逃げずに見ていた。ネムサクナリアが鉄の竜と戦うところを。
彼らはずっと逃げずに待っていた。ネムサクナリアが鉄の竜に勝つ瞬間を。
そうして力を使い果たしたネムサクナリアを助け、人には聞こえない囁き声でその偉業を讃えた。
百合の妖が動物たちを呼び戻しに駆け出し、綿花の妖はネムサクナリアに寄り添い温める。
草木の妖たちは戦いの余波で傷ついた森の回復に力を注ぎ、岩石の妖たちはネムサクナリアを狙う鉄の獣を必死に追い払った。
若く健康な熊を連れて百合の妖が戻る頃、小さな妖たちはネムサクナリアを熊の背に預け、愛しい人の子が待つ巣へぞろぞろと向かった。
目を覚ましたネムサクナリアは、微笑みながら泣いているリースを見上げて「ただいま」とその頬を撫でた。
「おかえりなさい、ネム」
こうして鉄の竜とネムサクナリアとの戦いは、ネムサクナリアの勝利によって幕を閉じた。
抱擁を交わす師弟の横で、何も知らない銀色の卵だけが変わらずのんびりと籠の中でくつろいでいた。
――――――――
ネムサクナリアが鉄の竜を倒してから数日後、傷だらけで白銀の毛皮がぼさぼさになったフィスセリウスが帰ってきた。
怪我もしていたし、ぼさぼさで酷い見てくれになっていたがその表情は晴れやかであった。
「フィス! ネム、フィスが戻ってきましたよ!!」
森の中で罠を張りつつ蓬を摘んで歩いていたリースが一番に再会し、大喜びでネムサクナリアの元へ走った。
若鹿の様に軽やかに駆けるリースのあとを追って巣へやって来たフィスセリウスは、鉄焼けの痕は見られるものの元気そうな己の番と、ころりとした銀の卵を見て心底安堵したというふうに微笑んだ。
リースの弾む声を聞き、そして実際にフィスセリウスの姿を目に映したネムサクナリアはふと泣きそうに微笑む。
「フィス、あぁ、良かった……」
「私も戻ってこられて嬉しい。安堵している」
両腕を広げて迎えるネムサクナリアを抱きしめて、鼻先を優しく触れ合わせた二人はしばし微かな夜風の様な声で言葉を交わしていたがやがてそっと体を離した。
「唐突にお前の気配に満ちた夜がやって来た時には胸が締め付けられるようだった」
「やっぱりあの時、フィスも戦っていたんだね」
「ああ……実は危ないところだったのだ。お前の招いた夜が竜の気を引いてくれたお陰で倒すことができた」
ネムサクナリアと違って、フィスセリウスは何日もかけて鉄の竜の体力を削っていったらしい。なるほどぼさぼさのぼろぼろにもなるか、とリースは一人頷いた。
白狼の妖は魔法戦よりも肉弾戦に長ける妖であり、一族のもの総出となり数日かけて一頭の獲物を倒すことも珍しくない。
「ふふ、それは良かった」
そう微笑むネムサクナリアとしばらく穏やかに見つめ合っていたフィスセリウスであったが、ふとリースへ視線を向けて眉尻をへにゃりと下げた。
「リース、手当てを頼めるだろうか」
ふらりと揺れた長身に、真っ青になったリースは「今すぐに!!」と叫んで道具を取りに走った。
どうやら手当てもせずにこの森へすっ飛んで戻ってきたらしい。
フィスらしいね、とネムサクナリアは苦笑して弱った番に肩を貸したのだった。
こうして平穏な日常が戻り、それに少し遅れるようにして夏がやって来た。森の緑はますます深くなり、水面を煌めかす陽光が眩しくなる季節だ。
熱さにバテた鹿を介抱していたリースはネムサクナリアに呼ばれ、はて何の用事だろうと首を傾げながら巣へと戻った。
「リース。お前に大切な話がある。聞いてくれるね?」
「……はい」
柔らかな芝の上に座って向き合う。
白皙の美貌に凪いだ風の様な雰囲気を宿して、赤みを帯びた黄金の双眸でリースを見つめるネムサクナリア。緊張して唾を飲む彼に「……ずっと、考えていたのだけれどね」とネムサクナリアは口を開いた。
「回りくどいのはやめて訊くよ。リース、お前はわたしの眷族になりたいかい?」
リースは目を見開いた。薄く開いた唇が震える。まさかこんな、何の変哲もない普通の日にこれほどに重要な話をされるとは思わなかった。答えなんてずっと昔に出ているのに、突然すぎて上手く言葉にならない。
ネムサクナリアは黙して彼の答えを待っている。
「ぼ、僕は……」
情けないほど声が震えた。
「イルベッタに会った日に、眷族という存在を知りました。それで……ずっと、どうして僕は、眷族にしてもらえないんだろうって、悩んで、ました」
答えを聞く怖さと少しの恥ずかしさ、それでもリースは目をそらさずにネムサクナリアを見つめていた。
「っ、あなたが、そう訊くってことは、僕はあなたの永遠に、寄り添うことを許されたと言うことですか……?」
視界がじんわりと滲んでぼやけた。泣かないで、とネムサクナリアが静かな声で言ってリースの頬を撫でる。嬉し涙です、と濁る声で言い返し、リースは涙を乱暴に拭った。
「そうだよ、リース。あの日、お前に“おかえりなさい”と言われて、とても安心したんだ。わたしもお前も生きていて、これから先も共にいられるんだって」
優しく髪を撫でる冷たくて温かい手。
「同時に気づいた。お前を永遠で縛ることを恐れるわたしの裏に、お前と共に永遠を過ごしたいと思うわたしがいることに」
「ネム……」
「眷族は、主人となる妖に命を縛られる。人の理を外れ、人が過ごすはずのない永遠を歩まされるんだ。死を望んでも叶わず、逆に生を望んでも主人が死ぬときはもろとも死ぬ」
そんな惨いことをお前に強いたくなかった、とネムサクナリアは絞り出すように言って俯いた。
「それでもわたしは、お前と一緒にいたいよリース……」
肩を震わせるネムサクナリアを、リースは目を見開いて見つめていた。この、夜の化身の様な美しいひとが、こんなに不安そうに震えているのを初めて見たからだ。
しかし同時に、あまりの嬉しさにリースもまた震えていた。このひとにこれほどまでに求められている。その事実が彼の心をどこまでも温かく満たしていた。
さて何と答えよう。そう考えたリースの視線の先で、傍らに置かれた籠の中に鎮座していた銀の卵がカタカタ震えていた。
「……ネム、フィスを呼んでください」
「え……?」
「僕もこの先ずっとこの子の世話をしたいので、三人揃って誕生に立ち会いたいんですよ」
「それって……あっ、卵が……フィス!!」
リースの言葉の真意を悟ったネムサクナリアは嬉しそうに顔を輝かせた後、動き続ける卵に気づいて大慌てでフィスセリウスを呼びに行った。
カタカタ動き続ける卵と一緒にその場に残されたリースは、つやつやと陽光を反射する卵を見つめて「ふふっ」と堪らなくなったように笑った。
「どうしたの急に。まあ、君のお陰でしんみりせずに答えられたけれど、もっと雰囲気のあるやり取りになると想像していたんだけどな」
銀の卵はますます大きく動く。
何か物言いたげだ。
そこでフィスセリウスを伴ったネムサクナリアが戻ってきた。二人とも喜色満面である。
卵の前に三人で座り込む。ネムサクナリアが隣に座ったリースへ「ねえ、リース」と囁いた。
「わたしと永い生を歩んでいく覚悟をありがとう。次の満月に、お前をわたしの眷族に迎えよう」
「っはい……!!」
リースが感極まって涙目で答えた直後銀の卵にビシッとひびが入った。ハッとして三人とも一時口を閉ざし、そして大きく息を吐く。不意にネムサクナリアが小さく笑い始めた。
「どうしたんですか、ネム」
「いや……この子があんまりにも必死だからね、つい」
「そうだな」
ネムサクナリアとフィスセリウスばかりが納得のいった様子で笑い合っている。果たして何のことなのか分からないリースだけが首を傾げて卵に視線を戻した。
ネムサクナリアが「この子」と呼ぶのは勿論この卵の中の新たな夜の子のことだろうけれど、孵化にそこまで必死さは感じられない。ただ、どこか物言いたげな様子は感じる。
「おやおや、抗議のつもりかな」
パリッと割れた小さな殻がネムサクナリアに向けて飛ぶ。ついに中が見える、と好奇心が湧いたリースはそのまま卵を覗き込んだ。
銀色にぽっかりとできあがった穴の中には夜が満ちていた。
「えっ」
「驚いたか、リース。妖の卵というのはこういうものでな。完全に孵化するまでは誰もその中を窺い知ることはできないのだ」
「へぇ……」
フィスセリウスの話に頷きながら、親指の第一間節ほどの大きさの穴から、その中に満ちた青く黒く美しい夜をじっと眺めていた。
「……何だか、ネムの夜とも少し違った、別の綺麗さがありますね」
卵がガタッと浮き上がりそうなほどに動いて穴が広がった。割れた殻は先程と同じくネムサクナリアへ向けて飛んでいく。それをパッパと払い、ネムサクナリアは「リース、褒め上手だねお前は」と肩を震わせて笑い続けた。
銀の卵が孵化を始めて、鳥たちが巣へ帰るほどの時間が経った。空の高いところにあった太陽は空を穏やかに茜に染めながら西へと沈み、入れ替わるように白い月が浮かぶ。そうして夜がやって来た。
いつの間にか、淡い燐光を漂わせながら小さな妖たちが周囲の木々の枝から新たな夜の子の誕生を見守っている。
リースは二人の妖と共にずっとその場で卵を見守っていた。定期的に声をかけると良く動くので、きっとこちらの声は届いていると思う。しかしリースが声をかけて卵が動く度にネムサクナリアとフィスセリウスが楽しそうに笑うので、少々釈然としない気分であった。
卵の表面に空いた穴はかなり大きくなってきている。多分そろそろ、今宵の美しい夜にお似合いの子が生まれてくるはずだ。
「ふふ、そろそろ出てきたらどうだい?」
ネムサクナリアが悪戯っぽく笑って細い指先で卵を突く。文句を言いたげに卵は揺れてその指先を押し返した。そしてパキッと更に穴を広げていく。
「うむ、そろそろだろうな」
「うわぁ……今更緊張してきました」
新たな夜の子の誕生という、この上ない神秘に立ち会うのだと思うとそわそわして仕方がない。忙しなく肩を揺らしたリースにネムサクナリアは穏やかに微笑む。
「わたしの眷族になったら、きっとこれ以上の珍しい出来事に遭遇することもあると思うよ」
そうでしょうか、と答えようとした直後、辺りを目映い銀色の光が満たした。
その眩しさに目を細めながら、ついに生まれるのだと気づいて唾を飲んだリースの耳に、少し呆れを含んだ優しい苦笑と共にネムサクナリアがこぼした「やっとかい」という声が届いた。
星を降らした時の様な目映さが引き、何度か瞬きを繰り返して目を慣らそうと試みるリースの手を誰かが小さな手で掴んだ。
(えっ、もしかして……!)
勢い良く目を開ける。
星の色をした双眸と目が合った。
溢れ出る様々な感情に言葉を失うリースをじっと真っ直ぐ見上げたまま、銀色の髪と小さな黒い翼を持つ小さな夜の子はリースの手を握る力を強めて口を開いた。
「りーす!!」
舌足らずな声色で、小さな妖は「りーす!!」と繰り返す。
何か答えよう、と口を開いたり閉じたりしていたリースの体がふっと持ち上げられた。驚いて振り返ると自分を持ち上げたのは目を細めて妖しく微笑むネムサクナリアだと分かった。
小さな妖の方へ向き直ると、大きく目を見開いて唇をつんと尖らせているではないか。
「あげない!!」
「それはこちらの台詞だよ、小さな我が子」
「う゛ーーっ!!」
「リースはわたしのものだ。慌てて出てきたところ悪いけれど、これは譲らない」
「ネ、ネム? 何の話ですか??」
子猫の様に持ち上げられているリースを挟んで二人の妖が何やら言い合いをしている。困ったリースが上げた疑問の声にネムサクナリアが小さく「はっ」と笑って彼を己の傍らに着地させた。
「この子は卵の頃から随分とお前を気に入っていたようでね。今日、眷族の話が出て焦ったようなんだよ」
「けんぞく!」
「お前はお黙り。それでね、焦ったところでリースはわたしのものだと教えてやっているところだよ」
「そ、そんな……だから笑っていたんですね二人とも!」
「ああ……あまりにも必死でな、堪らなかった」
「りーす! りーす!!」
小さく、まだ羽毛がほわほわしている黒い翼をできる限りに広げて威嚇をしているらしい小さな妖。
涼しげな顔でその威嚇を受け流したネムサクナリアがフィスセリウスに「名前をつけてしまおうね」と囁く。番の頷きを得たネムサクナリアはふんふん怒っている我が子に向き直った。
「お前に名をやろう。それで上下関係がはっきりする。リースのことは諦めるんだね」
「やーーっ!!」
「大人しくおし」
「そうだぞ。お前の気持ちも分かるがこればかりは諦めろ」
ばたばた抵抗する小さな妖をフィスセリウスが抱き上げる。小さくも形のいいつるりとした額にネムサクナリアが指先をそっと当てた。
「……うん、よし」
「うむ、良い名だ」
触れ合う妖だけに伝わる音にならない言葉だろうか。ネムサクナリアとフィスセリウスは穏やかな顔で頷き合い、相談を終えたようだった。
「お前の名はナルテリシオ。見たところ黒鴉の子のようだから、わたしの一族にその名を連ねることになるだろう」
「おめでとう、ナルテリシオ。生まれてきたお前に祝福を、お前の歩み行く道に幸の多くあらんことを」
両親から祝福を受けながら「やられた」とでも言いたげな顔でリースを見上げた小さな妖……ナルテリシオに、リースは小さく微笑んで「おめでとう」と伝えた。
「ごめんね、僕は、ネムと共に歩んでいくから。でも君を蔑ろにはしないよ。君も勿論僕の大切なひとの一人だから」
「りーす……」
悲しげに俯いたナルテリシオは、しかしリース自身に言われたことで納得がいったようだった。不満げにしつつも「あきらめた」と呟く。
「これからよろしくね、ナルテリシオ」
そう言ってリースはナルテリシオを抱き上げた。小さくとも、立派な夜の子だ。その身にはすでに艶めく夜の気配が色濃く滲んでいる。
「さ、駄々っ子も大人しくなったことだし夕食にしようよ、リース」
「はいっ、そうですね!」
双翼を広げて巣に転がったネムサクナリアの声に答えて動き始めながら、リースは機嫌良く鼻唄を歌った。
いつか夜を統べる黒鴉の子をその腕に抱いて。
これにて完結。ここまで読んでくださりありがとうございました。
作者自身終わらせるのが惜しいほど好きな世界観ですが、今回はこれにておしまい。なろうではあまりない本格派ファンタジーでしたが、沢山の方に読んでいただけたようで嬉しかったです。
最後に、よろしければ感想、レビュー等いただけましたら幸いです!




