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これから起こること。
彼女はそれをわかっていて、茶色い塊を私の口に運ぶ。マニュアルに書かれた手順を守るようにチョコレートが唇に触れ、私も決められていたことを守るように仙台さんの指ごとトリュフを囓る。
「宮城、痛い」
そういう台詞を口にするという台本でもあるかのごとく、彼女が声を上げた。けれど、ただ声として出しているだけで、痛いという言葉には気持ちがこもっていない。
それも当然だ。
まだそれほど強くは噛んでいない。
私は、犬歯に触れた指に跡を付けるように力を入れる。
ぎりぎりと少しずつ。
仙台さんの指先に歯を立てると、舌先でチョコレートが溶けていき、まるで彼女の指が甘くて美味しいような気がしてくる。トリュフごと食べてしまいたくなって犬歯を強く突き立てると、額をぐっと押された。
「痛いってばっ」
今度の言葉に嘘はないようで、聞こえてきた声には感情がこもっている。私のおでこを押す手にも力が入っていた。
「離して」
仙台さんには命令する権利はない。
だから、私は言うことをきかない。
わざと強く噛む。
すると余程痛かったのか、命令するような口調でもう一度「離して」と言ってから指を引き抜いた。口の中にはチョコレートだけが残り、私はそれを溶かして飲み込む。
友だちじゃなくても、彼女が作った友チョコは美味しい。彼女が想定した友チョコの活用法とは違うだろうけれど、私の役には立っている。ついでに作られたチョコレートなんだから、その末路がどうなろうとたいした問題じゃない。
でも、作った本人の顔を見ると笑顔が消えていた。
「ティッシュ取って」
いつもよりも少し低い声で仙台さんが言う。
ワニのカバーが付いたティッシュの箱は、私の斜め前にある。近いか遠いかで言えば、仙台さんよりも私の方に近い。
彼女の指を見ると、ココアパウダーらしきものやチョコレートがついていた。
別に、それを拭うのはティッシュじゃなくてもいい。
私は仙台さんの言葉を無視して、彼女の人差し指に舌を這わせる。とても馬鹿馬鹿しい工程だけれど、仙台さんを汚した私自身が彼女をもとの綺麗な仙台さんに戻していく。
「宮城」
聞こえてくる声はなかったことにして、指先に唇を押しつけて歯形を舐める。第二関節の上に舌を這わせて指の根元を吸うと、ちゅ、と小さな音が聞こえて、仙台さんが一瞬ぴくりと震えた。
「ちょっと、それ気持ち悪い」
彼女の声は平坦だった。
けれど、きっと、仙台さんは過去の私と同じ気持ちになっている。
気持ちが悪いけれど、それだけじゃない感情。
平坦な言葉の中にそういう気持ちが見えたような気がして、私は指に舌を押しつける。けれど、チョコレートが連れてくる甘さはすでに消えていた。
人の皮膚は、今まで口にしたどんなものにも似ていないと思う。特別に熱かったり、冷たかったりもしなくて、人間の指なんて美味しいものじゃない。
それでも、今が今日一番楽しい時間だ。
私は親指に舌を這わせる。
人差し指にしたように、彼女の指を舐める。チョコレートを溶かすようにゆっくりと舌を這わせていると、仙台さんが小さく息を吐いた。
「宮城、ふざけすぎ」
言葉とともに肩を強く押され、私は彼女の指から口を離す。そして、背中からティッシュを生やしているワニを仙台さんに放り投げた。
「こんなことして楽しい?」
指を拭いながら、仙台さんが私を見る。
「もちろん」
にっこり笑って答えると、ぐいっと押しつけるようにワニが返される。
「どういう趣味なの、これ」
「人間食べる趣味はないけど」
「じゃあ、噛まないでよ」
呆れたように言って、仙台さんがサイダーを一口飲んだ。
「さっきのマジで痛かった。これ、契約違反じゃないの?」
「暴力じゃないし。それに私に同じことしたんだから、少しくらい我慢しなよ」
「こんなに強く噛んでない。指、噛み切られるかと思った」
「チョコを食べた結果、そうなっただけだから」
「まだ食べるつもり?」
「どうして欲しい?」
「……好きにすれば」
仙台さんがゴミを投げ捨てるように言う。
私は、彼女と友だちになりたいわけじゃない。
お金でしか繋がっていないし、お金でだけ繋がっていればいい。
だから、仙台さんが何を考えていても関係がないし、私には彼女を好きにしていい権利がある。
そのはずだ。
でも、だけど、口から出たのは思っていなかった言葉だった。
「夕飯、食べてく?」
「食べてく」
仙台さんが即答する。
一人よりは二人。
美味しさは変わらなくても、誰かと食べたら食事というものに近づくような気がする。
私は立ち上がり、キッチンへ向かう。言わなくても、仙台さんが後をついてくる。電気をつけて、対面キッチンのリビング側に仙台さんを座らせる。
私は冷凍庫からフライドポテトを取り出して、袋ごと電子レンジに突っ込む。お皿を二つ並べて、冷蔵庫から引っ張り出したレトルトのハンバーグをのせる。電子レンジが鳴ったら、フライドポテトとハンバーグを入れ替える。
私がやったことと言えばそれくらいで、すぐに夕飯ができあがった。それでも、三分でできあがるカップラーメンに比べれば時間がかかっている。
「できた」
ハンバーグとフライドポテトをのせたお皿とご飯を仙台さんの前に置くと、彼女が嬉しそうな声を出した。
「二人分あるんだ」
まるで私が仙台さんの分までハンバーグを買っておいたみたいに言う。
「お父さんの分」
今日はそういう日だった。
お父さんの分までハンバーグが買ってあった。
ただそれだけで、仙台さんのために用意したわけじゃない。
「私が食べたらお父さんはどうするの?」
仙台さんが母親のことは聞かずに、父親のことだけを聞く。
「他にもあるから」
私が口にした言葉は間違っている。
冷蔵庫は、もう空っぽも同然だ。
でも、お父さんが家でご飯を食べることはほとんどないから、中身があってもなくても変わらない。
「だから、それ食べて」
素っ気なく言って、仙台さんの隣に座る。いただきますと小さく言うと、重なるように隣からも同じ言葉が聞こえてきた。だからといって気が合うわけでもないから、後は黙々と食べることになる。
会話がないことは、それほど苦にならない。
無理に話を合わせるよりは楽で、私は仙台さんの指よりも遥に柔らかいハンバーグを咀嚼する。
二人の間には、箸と食器が立てる音だけしかない。
ハンバーグとフライドポテトが少しずつ減っていき、お皿の上があらかた片付いた頃に仙台さんが口を開いた。
「今度、夕飯作ってあげようか?」
「急になに?」
「いらない?」
トリュフは美味しかったから、仙台さんが作る料理は美味しいのだと思う。けれど、仙台さんに夕飯を作ってもらうような理由がないし、命令していないことをして欲しくはない。
私たちの関係を作っているのは、“命令”だけなはずだ。
「作らなくていいから」
「そっか」
仙台さんが落胆もせずに言って、ハンバーグを口に運ぶ
静かに食べれば、食事はすぐに終わる。
冬休み前に、カップラーメンを食べたときと変わらない。
食器は後から洗うことにして、私たちは部屋に戻る。
「まだ命令したいことある?」
「ない」
「じゃあ、帰る」
仙台さんがブレザーとコートを着て、玄関へ向かう。
「送るね」
二人で玄関を出て、エレベーターに乗り込む。
「トリュフ、美味しかった。ありがと」
五、四と減っていく数字を眺めながら、私はもらったものの感想とお礼を伝える。それくらいの常識は持ち合わせている。
「どういたしまして」
仙台さんの声が聞こえて、エレベーターが止まる。エントランスまで歩いて、「またね」と仙台さんが手を振った。
「バイバイ」
いつものように彼女の背中に声をかけると、仙台さんが振り向く。今まで一度だって振り向いたことがないのに振り向いて、「バイバイ」と言ってもう一度手を振った。