267
「澪さんって、いつもあんな感じなの?」
静かに問いかけて、隣を見る。
澪さんは帰ったけれど、仙台さんはぐったりしている。彼女がどうしてこんなに疲れているのかわからないが、早く休ませた方が良さそうだと思う。
「いつもより元気だった」
「そうなんだ」
もうこの部屋に居続ける意味はない。
お互い疲れているし、自分の部屋へ戻った方がいいとわかっているけれど、体が動こうとしない。
「……スマホ出して」
いる理由のない部屋に居座り続けようとしている私は、ここにいる正当な理由を自分自身に与えるためにぼそりと告げた。
「スマホ? なんで?」
「仙台さんが澪さんに見せた写真。私、まだ見せてもらってない」
聞きたかったことを聞く、という理由があればここにいてもおかしくない。いくら彼女が疲れていても会話くらいならそれほど負担にはならないはずだ。
「いつもの宮城だよ」
仙台さんが柔らかな声で言って、にこりと笑う。
「なんで見せてくれないの?」
「宮城に今までに見せた写真の中のどれかだから。わざわざ見せる必要ないでしょ。それに、見せて消されても困るし」
「……じゃあ、もういい」
変な写真は消してしまいたいけれど、今さら消しても仕方がないこともわかっている。消去すべきは澪さんの記憶で、それは消すことができないから、諦めるしかない。
「宮城、もしかして具合悪い?」
隣から本気で心配するような声が聞こえてくる。
「なんで?」
「素直に引き下がったから」
心外だ。
確かに私は素直ではないかもしれないが、「もういい」の一言で体調を心配されるほどひねくれてはいないと思う。
「どんな写真かわかんないけど、澪さんもう見ちゃってるし、こだわっても仕方ないもん」
「だったら、この話もう一度しなくても良かったじゃん。なんでまた見せてなんて言ったの?」
なんで、なんて聞かれても困る。
ここにいる理由がほしかったから、なんて答えられない。
「……なんでかは忘れた」
小さく答えて、仙台さんの指を見る。
澪さんがトイレに行っている間につけた歯形は消えている。
当たり前だ。
あんなものはすぐに消える。
私は、見えない噛み跡を辿るように人差し指を撫でる。
触っても、私の痕跡は探せない。
でも、印はまだついているはずだ。
それほど簡単に消えるものじゃないとわかっているけれど、ブラウスのボタンを外して確かめたい。そして、印を撫でて、服も下着も脱がせて、新しい印をたくさんつけたい。
誰にも見せられない体にしてしまいたいと思う。
けれど、澪さんはもういないのだから、そんなことに意味はない。
「部屋に戻る」
仙台さんの人差し指をぎゅっと握ってから離すと、その手を掴まれた。
「今日は泊まっていけば?」
私が立ち上がる前に、仙台さんがなんでもないことのように言う。
「ここ私の家だし、泊まるとかない。……前にも似たようなこと話さなかったっけ?」
「細かいことはいいじゃん。この部屋で寝なよ」
「やだ」
「……続きは?」
「なんの?」
「澪が来る前にしてたことの続き」
仙台さんが静かに言い、私の手に指を絡めてくる。手は“掴まれている”というよりは“繋いでいる”という状態になり、仙台さんに催促するように引っ張られる。
ルームメイトと言うには親密な繋ぎ方の手は、この会話に深い意味を与えるような気がして、私は手を解こうとした。でも、繋がった手は離れようとしてくれない。仙台さんがしっかりと繋いで、私の肩に肩をぶつけてくる。
「しようよ、続き」
耳元で囁かれ、「しない」と告げる。繋がれていない手で仙台さんの肩を押すと、また囁かれた。
「志緒理」
心地の良い声が耳をくすぐる。
ブラウスのボタンに手を伸ばしたくなって、唇を噛む。
今、そういうことはしない方がいい。
このまま彼女の体温に引きずられてしまったら、ルームメイトとそうじゃないものの境目が曖昧になってしまいそうだ。
いや、もう曖昧になっていて、自分がどこに立っているのかわからない。自分がどこに辿り着きたいのかもわからない。振り返れば道しるべのように私が付けた印だけが見えるけれど、辿っても元いた場所には戻れないだろうことはわかる。
「名前呼んでいいって言ってない」
繋がれた手を無理矢理離す。
「いつもそういう風に言うけど、いいって言ってくれる日あるの?」
「……わかんないけど、今じゃない」
「じゃあ、葉月って呼んでよ」
「それも今じゃない」
私が葉月と呼べば、舞香も葉月と呼ぶ。
そういう約束になっていると、仙台さんから聞いた。
私は、そうなることをまだ受け入れられない。仙台さんが舞香のことを「宇都宮」ではなく「舞香」と呼ぶようになるという話も受け入れられない。いつか受け入れなければならないとわかっているけれど、それは今ではないことは確かだ。
「私のいうこと拒否してもいいけどさ、全部拒否されたら我慢できなくなりそうなんだけど。……なにか一つくらい許しなよ」
「なにを許したら満足するの?」
問いかけると、仙台さんが私の青いスカートを掴んだ。そして、少し考えてから、はっきりと言った。
「――宮城の全部」
「仙台さん、ほんと馬鹿だよね。一つじゃないじゃん」
私はスカートを掴む手をぺしんと叩いて、立ち上がろうとする。けれど、仙台さんが私の腕を掴み、顔を寄せてくる。当然のようにキスをしようとしていて、私は彼女の肩を押した。
「やだ」
「宮城って、私がなんでもいうこときくって思ってるでしょ。私のこと犬かなんかだと思ってない?」
少し低い、不満そうな声が聞こえてくる。
「仙台さんは“犬”じゃなくて、私の“もの”だから」
「ものって、犬よりランクが下じゃない?」
「犬より扱いがいいと思うけど」
「じゃあ、扱いがいいってところ見せてよ」
仙台さんが難しいことを言う。
私は、犬を自分のものにしたいとは思わない。
自分のものにしておきたいのは仙台さんだけだ。
でも、それは犬よりも扱いがいいことにはならない。
じゃあ、どうすれば?
私は、ご褒美をほしがっている犬のようにこっちを見ている仙台さんに手を伸ばす。視線をそらさずに私を見ている目を覆い、唇を寄せる。こんなことで誤魔化されてくれないことくらいわかっているけれど、さっき仙台さんがしようとして私が拒んだキスをして「これでいい?」と尋ねる。
「今ので足りると思う?」
仙台さんの目を覆った手が彼女によって剥がされ、指先が私の手の甲を撫でて、人差し指の第一関節を強く押してくる。私が彼女の人差し指を噛んだときみたいに、強く、強く押された。私のように噛んだりはしないけれど、今のキスだけじゃ足りないと言っていることはわかる。だから、もう一度キスをする。
軽く唇に触れ、離す。
指を引っ張られて、舌先で唇を舐める。
薄く唇が開いて、彼女の中に入り込む。生暖かくて、ぬるりとした舌が絡まり、強く混じり合う。掴まれていた指先が離され、舌先に意識が集まる。はっきりと感じる熱に苦しくなる。ブラウスを掴んで唇を離すと、仙台さんの声が聞こえた。
「ボタン、外していいよ。印つけたいんでしょ」
私は自分の手に視線を落とす。
ブラウスを掴んでいる手は、印があるであろう場所にあった。ボタンを外せば、私以外誰にもつけることができない印を彼女につけることができる。
でも、その跡も歯形のようにいつか消える。
ずっとは残り続けてくれない。だから、また印をつけることになって、それがまた消えて、また印をつけることになる。何度つけても満足できない。
「宮城」
耳元で柔らかく呼ばれて、首筋に唇をくっつける。仙台さんは私を拒まない。軽く吸うと、彼女の腕が背中に回される。ぎゅっと抱きしめられて、薄く跡を残す。
「今日は部屋に戻る」
見える場所につけた印に口づけてから、立ち上がる。
たぶん、このまま仙台さんと一緒にいると、彼女がこの家からずっと出られないようなことをしてしまう。
仙台さんは私のものだから、そういうことをしてもいい。今は春休みだから、見えるような場所に印をつけてもそれほど困らない。
けれど、今日はそれだけじゃ足りない。
「どうしても?」
仙台さんの声に小さく息を吐く。
今日の私は、私にしかできないことを仙台さんにして、私にしか見られない仙台さんが見たいと思っている。
仙台さんは私のものだから、そういうことをしてもいい。今は春休みだから、ここでそういうことをしてもそれほど困らない。
ただ、彼女は命令すればなんでもいうことをきく犬じゃない。
彼女の意思も尊重する必要がある。
私がしたいことは、彼女の同意なくするべきことではない。そして、同意を得るためには言葉がいる。
「……どうしても」
初めて仙台さんに私から触れたときのようにはいかない。今は言葉に迷う。どういうわけか、あのときほど身勝手に仙台さんにしたいことを告げることも、触れることもできなくなっている。
「じゃあ、これ持ってって一緒に寝てあげて」
そう言うと、仙台さんがベッドの上に転がっているペンギンを渡してくる。
「持ってくだけじゃ駄目なの?」
「駄目。一緒に寝て。それでペンちゃんの代わり貸して」
仙台さんに腕を掴まれ、私は彼女の部屋から出ることになる。そして、「ここで待ってるから」と私の部屋の前で微笑む仙台さんのために、自分の部屋からティッシュ箱抜きのワニを持ってくることになった。
「はい」
ドアの前、仙台さんにくたくたになったワニを手渡す。
「ろろちゃんじゃないんだ」
「ワニがやなら貸さない」
黒猫のぬいぐるみには私の睡眠を守るという役目があるから、仙台さんに渡すわけにはいかない。
「ワニでもいいよ」
「それ、どうするの?」
「一緒に寝る」
迷うことなくそう言うと、仙台さんがワニの頭を撫でた。