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三人でご飯を食べに行って、二人で家に帰ってきて。
私は今、宮城に詰め寄られている。
二時間ほど前にこの部屋にいた宇都宮はもういないから、宮城の顔が険しい。
「ほんとは、舞香となに話してたの?」
宇都宮の前ではほとんど出さないであろう低い声で問いかけてくる。
「なに話してたってどういうこと?」
「私がトイレに行ってる間に、二人でなにか話してたでしょ」
宮城が、気になる、とおでこに書いてありそうな顔をして私を見てくる。
機嫌は見るからに悪い。
さっきは斜め前に座っていたけれど、今は隣に座っているからよくわかる。身に纏っている空気がトゲトゲしているし、側にいるとチクチクする。隣に宮城がいるという当たり前が戻ってきたことは嬉しいことだけれど、不機嫌な宮城は嬉しくない。
「たいした話じゃないって。宇都宮も言ってたじゃん」
実際、ありふれた話しかしていない。
下の名前で呼んで、なんていう話は友だちになりかけている人間の間にはよくある話で、隠すようなものではない。宇都宮が吐露した本音は伝えない方がいいだろうけれど、それ以外はごく普通の話だ。宮城には話さないという約束もしていない。
でも、宮城に話したら、さらに機嫌が悪くなりそうな気がする。
「絶対嘘でしょ。なんか違う話してた」
「宇都宮のこと疑ってるの?」
「仙台さんのこと疑ってるの」
宮城がきっぱりと言う。
私だけが疑われるなんて理不尽だと思う。
宇都宮と信用度で競って勝てるわけがないとわかっているけれど、扱いが悪すぎる。
「宮城がこのカモノハシを選んだとか、お金貸してもらったお礼に勉強教えてたとか、そんな話しかしてないって。変なことは言わないって約束したし、宮城が嫌がるような話はしてないから」
誤魔化せるなら誤魔化してしまいたい。
宮城は、私が宇都宮と親しくすることを良く思っていないようだから、二人で話していたことをすべて話したら宇都宮に近づきすぎていると思われるだろうし、下手をすると友だちを取ろうとしたと思われそうだ。話さなくてもいいことをわざわざ話して誤解されるようなことは避けたい。
「ほんとに?」
「ほんとに。宮城は私がなにを話したと思ってるわけ?」
「私が話してほしくないこと」
「それってどんなこと?」
「わかってて言ってるでしょ」
高校時代に私たちがしていたことのほとんどは、宮城が宇都宮に隠しておきたいことだと思う。でも、それは宮城に限った話ではなく、私にも当てはまる。
「心配しなくても普通の話しかしてないから。そんなに気になるなら宇都宮に聞いたら」
私の言葉に宮城が目を伏せる。
なにを考えているのか、私を見ようとしない。
疑われるようなことはなにも話していないけれど、宮城からしたら私と宇都宮が親しくしすぎているように見えて気にしているのかもしれないとは思う。宮城から宇都宮を取り上げるつもりはないが、宇都宮が感じたように“仲間はずれにされたみたいな気持ち”になったとしてもおかしくはない。
「――仙台さん。こっち向いて」
黙り込んでいた宮城が私の方に体を向けて、腕を引っ張ってくる。
「向いてるけど」
私はさっきからずっと宮城を見ている。
でも、彼女は気に入らないようで眉間に皺を寄せた。
「もっとちゃんと」
もう一度腕を引っ張られて、私は顔だけではなく体も宮城の方へ向けて「これでいい?」と尋ねる。けれど、返事はないし、腕から手が離れることもない。
「宮城?」
名前を呼ぶと、腕にくっついたままだった手に力が入った。そして、宮城が顔を近づけてくる。
たぶん、キスされる。
これからなにをされるのかすぐに予想がついて目を閉じると、唇に柔らかなものが触れた。体温を感じる間もないようなキスだと思っていたら、湿ったものが唇に押し当てられる。
珍しい。
宮城からキスをしてくることも、舌を入れようとしてくることも。
部屋の温度は変わらないのに体が熱い。
どうして、とか、なんで、とか頭に浮かぶけれど、体が勝手に宮城を感じることを選ぶ。唇を薄く開くと一瞬躊躇うような間があってから、ゆっくりと宮城の体温が私の中に入り込んでくる。
舌先と舌先が触れて混じり合う。
遠慮がちに動く柔らかでしっとりとしたそれは、私のために作られたもののように私に馴染んでいて気持ちがいい。重なった唇から、口内を探る舌から、重なっている部分すべてから伝わってくる熱が私の中に溶けていく。
もっと宮城がほしくて、私の方から舌を動かすと腕を掴んでいた手に力が入った。そして、舌も唇も私から逃げていく。それでももう一度キスがしたくて顔を寄せようとすると、不機嫌な声が聞こえてくる。
「二人でなに話してたのか教えてよ」
ああ、そっか。
忘れていた。
宮城の方から意味もなくキスをしてくることなんて滅多にない。
「交換条件?」
私は、彼女が意図的に省いた言葉を口にする。
「そう思ってくれてかまわない」
キスが対価になったことは過去にもあった。そして、こういうキスは初めてではないし、それ以上のことだってしている。私は交換条件であっても宮城からキスをされれば嬉しい。
だから、キスは特別なものじゃなくてもいい。
でも、今のキスは特別なものに思える。
それは、交換条件を出せる相手が二人いるにも関わらず、宮城が私を相手に選んだからだ。
「話を聞く相手に、宇都宮じゃなくて私を選んだ理由は?」
問いかけると、宮城の視線が床へ落ちた。
理由があるなら知りたいと思うけれど、なにも言わない。
「ご飯奢るでもなんでも交換条件出して、宇都宮に聞くことだってできるでしょ。と言うか、宇都宮なら交換条件なくても話してくれそうだけど」
「そんなのわかんないじゃん。舞香、話してくれないかもしれないし」
宮城が私を見て、独り言みたいにぼそぼそと言う。
言い訳は言い訳になっていない。
宇都宮だったら、宮城がどうしてもと言えば教えてくれるはずだ。宇都宮が話してくれないようなことがあったら、そのときに初めて私に聞けばいいだけで、わざわざ最初に私を選ぶ必要はない。
キスしたかったから。
それでも私を最初に聞く相手に選んだのは、そういう理由があったからだと考えたくなる。私に都合が良すぎる話だと思うけれど、そう思いたくなる。
私は、交換条件の相手に宇都宮ではなく、私を選んだことに深い意味を見いだそうとしている。私と同じ気持ちではないにしても、それに近しい気持ちを宮城が持っていると思いたい。
「仙台さん、教えてよ」
教えたくない。
私を選んだ理由をもっと、はっきり、ちゃんと、納得できるように話してくれなければ言いたくない。
でも、そんなことを言えば宮城は「もういい」と言いだすに決まっている。
「じゃあ、もう一度キスして」
対価だとしてもかまわない。
もう一度、宮城からしてほしいと思う。
「キスするから、絶対に話すってピアスに誓ってよ」
「いいよ」
私は手を伸ばして宮城のピアスに触れる。親指でプルメリアの花を撫でて「宮城がもう一度キスしたらちゃんと話す」と宣言する。
「これでいい?」
耳たぶから頬を撫でながら尋ねると、宮城が顔を寄せてくる。
私から目を閉じるとすぐに唇が重なった。
条件として付け加えたりしなかったけれど、口の中に柔らかなものが入り込んでくる。
ピアスに誓うだけで大人しく宮城がキスをしてくれる。
ずっとこういう素直な宮城でいてほしいと思う。
難しいことだとわかってはいるけれど。
好きなときに、好きなように、宮城とキスをしたい。
宮城の手が私の腰に触れる。
少し近づいて、強く唇が押しつけられる。
でも、さっきしたキスよりも早く唇が離れた。
「仙台さん、キスした」
宮城が事務的に言う。
私が宇都宮とした話で宮城に話していないものは、宇都宮の本音と下の名前で呼んでほしいという話の二つだ。口外しないという約束はしていないけれど、宇都宮の本音は勝手に話すべきではないし、話すつもりもないからもう一つを話すことになる。
でも、宮城に誤解されそうで言いたくない。
適当に誤魔化したいと思う。
宇都宮を取ると思われて、一時的だとしても宮城が私を遠ざけるようなことがあったら嫌だ。好かれなくてもいいけれど、嫌われたくはない。
「仙台さん」
宮城が強く私の名前を呼ぶ。
「今日、舞香を迎えに行って二人で歩いてたときに、仙台さんが言ってた三毛猫見た。仙台さんの言ってたことが本当だってわかったし、もう少し信用してもいいと思ってるから、今の約束ちゃんと守って」
やけに真剣な声が聞こえて、私は小さく息を吐く。
ほんの少しだとしても、今までよりも増した信用を失いたくない。
「呼び方の話、してただけ」
「呼び方?」
「そう。私のこと葉月って呼んでって話、してた」
「……舞香、呼ぶって?」
宮城が真っ直ぐに私を見て言う。
「今日、あれから宇都宮、私のこと葉月って呼んでた?」
「呼んでない」
「そういうこと。宮城が葉月って呼んでないから、宮城が葉月って呼ぶまで仙台さんって呼ぶって言われた」
そう言うと、宮城が黙り込む。
なにを考えているのか、視線が一度床へ落ちて、また私に戻ってくる。そして、静かに言った。
「……それ、仙台さんは舞香って呼ぶの?」
「今日、ずっと宇都宮って呼んでたでしょ。私も二人で話したときに、宇都宮が葉月って呼ぶまで宇都宮って呼ぶって言ったし。――とにかく、宮城が知りたかったことはこれでおしまい。あとは本当に高校のときの話とかだから」
私は、宮城が余計なことを考える前に話を締め括る。
長々と話していると、私にとってはたいしたことではなくても、宮城にとってはたいしたことになるようなことを言ってしまうかもしれない。
「ねえ、宮城」
私は、ベッドを背もたれにして寄りかかる。
「なに?」
「私のこと葉月って呼んでよ」
呼んではくれないだろうけれど、一応言ってみる。
「私が葉月って呼んだら、舞香も葉月って呼ぶんでしょ?」
「そういう話だね」
「……仙台さんって呼ぶ」
少し考えてから、宮城がはっきりと言った。