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お風呂に入ると、リラックスするなんて嘘だ。
落ち着かないし、緊張している。
お湯はコンクリートみたいに私の体を固めるだけのものでしかなく、これで体がほぐれるなんて信じられない。
理由はわかっている。
それはここが宮城の家のバスルームで、この家に彼女しかいないからだ。宮城以外誰もいないことはいつものことだけれど、今日は状況が違う。
私は両手でこめかみをぐりぐりと押して、息を吐く。
「このあとは勉強するだけだし、大丈夫」
なにが大丈夫かわからないが、自分に言い聞かせるように呟いてお湯から出る。
一緒にご飯を食べて、お風呂に入って眠る。
宮城は友だちではないけれど、どれも友だちの家に泊まればすることだ。意識するほどのことではない。
こういうときは、やるべきことをさっさとやってしまった方がいい。
私は髪と体を洗って、バスルームを出る。
体を拭いて、借りたスウェットを着る。
ペンダントをつけて鏡を見ると、宮城の服を着た私が映っている。サイズは丁度良いように見える。窮屈ではないし、大きすぎることもなかった。
けれど、しっくりとこない。
服の中に体がしっかりと収まっている感じがしない。ただの布のくせに、着ていると宮城が近くにいるような気がしてくる。
「スウェットはスウェットだし」
馬鹿馬鹿しい。
気がしてくるくらいのものに振り回されても仕方がない。
私は、洗面台に置かれたドライヤーを手に取ってスイッチを入れる。髪を乾かし始めると、すぐにシャンプーの匂いが宮城と同じだなんて当たり前のことに気がついて手が止まる。ごうごうとうるさい音とともに吹き出す生暖かい風が、無意味に髪に当たり続ける。
「なんなんだろ、私」
大きなため息を一つつく。
小さなものも積み重ねれば大きくなる。
普段は気にもしていない宮城のものが私にいくつも纏わりついてきて、頭の中がそれに支配されていく。
ため息がまた出そうになって、飲み込む。
私は止まっていた手を動かして、髪をしっかりと乾かせたのかわからないまま部屋へ戻る。
「ただいま」
本を読んでいる宮城に声をかけるが、「おかえり」とは返ってこない。彼女は黙って立ち上がると、クローゼットを開けた。
「冷蔵庫の麦茶、勝手に飲んでいいから」
私を見ずに言う。そして、着替えらしきものを手にして「お風呂入ってくる」と部屋を出て行く。
残された私は宮城に言われた通り、キッチンから麦茶を持ってきて半分くらい飲む。そして、テーブルの上へグラスを置いて本棚の前へ行く。
そこには、私が渡した黒猫のぬいぐるみが一匹。
宮城について私が知っていることはそう多くないけれど、並んでいる本は彼女が好きなもので間違いない。その好きなものと一緒に置かれている黒猫は、思っていたよりも大事にされているように見える。
私は、ぬいぐるみを手に取って頭を撫でる。
「良かったね」
黒猫は生きているわけではないけれど、ぞんざいに扱われるよりは大切にされる方がいい。
黒猫の鼻先にキスをして、元いた場所に戻す。
それにしても、することがない。
本を読むような気分にはならないし、テレビを見たいわけでもない。
私は、麦茶の入ったグラスを空にする。受験生らしく空いた時間を勉強に費やすことにして、テーブルの上に参考書やノートを並べていく。うろうろと部屋の中を歩き回っているよりは、有意義に時間を過ごせるはずだ。
参考書をめくって問題を解いていると、お風呂に入っているときよりも気持ちが落ち着く。しばらくすると宮城が帰ってきて、そのまま勉強会が始まる。
「すっぴんなんだ」
ちらりと私を見た宮城がぼそりと言う。
「お風呂入ったしね」
勉強が終われば寝るだけだからわざわざメイクをしても仕方がないし、宮城にはお見舞いに来たときにも見られている。それでも、今の私を見て宮城がどう思ったのか気になった。けれど、それ以上はなにも言ってこなかったから、彼女の気持ちを知ることはできない。
私たちの間に残ったものは沈黙で、ページをめくる音とペン先が立てる音だけがやけに大きく聞こえる。
会話と呼べるものはない。
口を動かすのは、宮城のちょっとした質問に答えるときくらいだ。
静かにしているからといって、集中しているわけではない。隣がまったく気にならないなんて言えないし、宮城も集中しているとは言い難い。
それでも勉強を続けて、二時間とちょっと。
唐突に宮城が「寝る」と言った。
もうすぐ試験だということを考えると勉強をした時間が短いけれど、あまり身が入らないまま続けても仕方がない。足りない分は後から取り戻すことにして、私も参考書やノートを片付ける。
「仙台さん、一緒に来て」
お揃いではないけれど、似たようなスウェットを着た宮城が立ち上がって言う。
「いいけど、なに?」
「別の部屋に来客用の布団があるから取りに行く」
宮城に言われて気がつく。
当然のことだが、この部屋にはベッドが一つしかない。
「……私が寝る布団?」
「そう。持ってくるの手伝って」
「わかった」
まあ、当たり前だと思う。
友だちの家に泊まると、大抵はどこからか布団が出てくる。それを考えれば来客用の布団が出てくることは珍しいことではないし、宮城が同じベッドで寝ようなんて言うわけがない。
私は彼女の後について部屋を出る。
リビングの奧、宮城がふすまを開けて和室へ入る。今まで入ったことも見たこともなかった和室には押し入れがあって、そこから布団が出てくる。私たちはそれを部屋に運んで床に敷く。
「電気消すから」
枕元にスマホを置くと、そっけない声が聞こえてきて私が返事をする前に部屋が暗くなる。
「おやすみ」
常夜灯まで消された真っ暗な部屋の中、宮城に声をかける。
「……おやすみ」
小さな声が返ってきて、音が消える。
しんと静まった部屋は、数え切れないほど来ている宮城の部屋とは思えないほど居心地が悪い。横になっていても背中になにか張りついているような違和感がある。着ているスウェットが宮城のものだということも、落ち着かない原因の一つになっていると思う。
目をぎゅっと閉じる。
暗闇が溶けて、違和感と混じり合う。
――わかっていたけれど、眠れない。
目を閉じたり、開いたり。
ごろりと体の向きを変えてみたり。
いろいろとしてみるけれど、睡魔はやってこない。羊を数えたら、一万匹くらい数えられそうな気がする。枕が変わると眠れなくなるほど繊細だった記憶はないけれど、朝まで眠れなくてもおかしくないと思う。
布団の中にスマホを引きずり込んで時間を確かめると、最後に見てから十分も経っていなくて体を起こす。
「起きてる?」
私と同じように眠れていないかもしれない宮城に向かって声をかけるけれど、返事がない。
「宮城、起きてるんでしょ」
眠っていたらずるい。
そんな気持ちを込めて少し大きめの声で呼ぶ。けれど、やっぱり返事がなくて、私は暗闇に目が慣れないままベッドに近寄って声をかける。
「寝たふりしてるなら起きなよ」
さすがに起きていいと思うけれど、宮城は起きない。
私はなにも言わない宮城に向かって手を伸ばす。
ふにゅっと柔らかいものに触れて、それが頬だとわかる。
輪郭を辿って闇と同化している髪に触れると、さらさらとしていて触り心地がいい。前髪らしきものを軽く引っ張ってみるけれど、宮城はぴくりとも動かない。
「……志緒理」
耳のあたりに唇を寄せて小さく呟くと、まったく動かなかった体が動いて私から離れた。
「名前、呼ばないでよ」
不機嫌な声が暗闇に響く。
「起きてるじゃん」
「仙台さんのせいで目が覚めただけ」
そう言うと、宮城がごそごそと起き上がって常夜灯をつける。
「眠れないし、話し相手になってよ」
話したいことがあるわけではないけれど、羊を数えているよりはいい。私は返事を聞かずに、ベッドに腰掛ける。
「ならない。ここ、私の陣地だから座らないで」
宮城が結構な力で私の肩をぐいっと押してくる。
「陣地って、小学生じゃないんだからさ」
「いいから降りて。自分の陣地に戻ってよ」
「自分の陣地って、私の陣地どこなの」
「そこ」
そう言って宮城が指さした先は床に敷かれた布団で、私は大人しく立ち上がる。
「はいはい。陣地に戻ります」
一歩、二歩と歩いて布団に潜り込む。
私と宮城は違う。
キスしたいと思うのも、触れたいと思うのも大抵は私だ。今だって宮城にキスしたいし、もっと触れたいと思っている。こういう感情が宮城にまったくないとは思えないけれど、私と同じように思っているようにも見えない。思っていたとしても、きっと私の半分、いやそれ以下に違いない。
「寝る。おやすみ」
起きていても解消のしようがない感情が大きくなるだけだから、目を閉じる。
「さっき、眠れないって言ったじゃん」
声をかけられて、ごろりとベッドの方へ体を向ける。
「言ったけど、寝る」
「なんで急に」
話し相手になることを拒否したはずの宮城が、眠ろうとする私を引き留めるように言う。黙っていてくれたら眠れるかもしれないのに声をかけられるから、ただでさえ遠くにいる睡魔がさらに遠のいていく。
「宮城の信用を裏切らないでおこうと思って」
目を閉じたまま答えると、すぐに「なにそれ」と返ってくる。
「私が変なことをしないって信じたから泊めてくれたんでしょ」
「そうだけど」
「だから、おやすみ」
眠たいわけではないけれど、私は強引に会話を締めくくる。宮城が「仙台さん」と呼んでくるけれど答えずにベッドに背を向けると、背後からごそごそと音が聞こえてきた。
すぐに掛け布団の端が沈むような感覚があって体を起こす。ベッドの方を見ると、宮城が目に映る。
「ここ、私の陣地なんだけど」
自分の陣地に戻れと言ったはずの宮城が、何故か布団の端にちょこんと座っている。
「この部屋は私の領土だから、ここも私のものだし」
不法侵入してきたはずの宮城が私から布団の所有権を取り上げ、掛け布団を剥ぐ。部屋は暖かいから掛け布団がなくても平気だけれど、黙って陣地を明け渡すつもりはない。
「そういうの、ずるいから。大体、そんなことさっき言ってなかったじゃん」
「泊めてあげてるんだし、私はずるくてもいいの」
そう言うと、宮城が布団の端から隣へやってくる。そして、私の首筋に触れた。