10
バレンタインデーが過ぎて、残っていた三つのチョコレートはとっくになくなっていた。また食べたいというわけではないけれど、もう二、三個くらいあっても良かったと思う。
甘い物は好きだし、いくらあっても困らない。
でも、それは仙台さんが作ったものである必要はない。誰が作ったものであっても美味しかったらそれでいいし、極端にまずいわけでなければ美味しくなくてもかわまないと思う。
仙台さんが作ってくれると言っていた夕飯だってそうだ。美味しくても、美味しくなくてもかまわない。胃の中に入ってしまえば、どんなものでも同じだ。……まあ、作るという言葉は仙台さんがなんとなく口にしただけで、本当に作るつもりがあったかどうかわからないけれど。
私は先生の声を遠くに聞きながら、胃の辺りを押さえる。
黒板の上に張り付いた時計を見ると、授業が始まってからそれほど時間が経っていなかった。少なくとも、あと三十五分は待たなければ昼休みにならない。
「次、宮城」
ゲームに出てくる眠たくなる呪文のような声で、先生に呼ばれる。上の空で聞いていたけれど、教科書を読まなければならないことはわかった。
立ち上がって、英語の教科書を持つ。
英語ができなければならない仕事をするつもりはない。日本から出るつもりもないから英語ができなくて困らないけれど、容赦なく英語の授業はやってくるし、先生が当ててくる。
だから私は、気が進まないまま教科書を読み上げる。
記憶にある単語に混じって、見たことがあるのかどうかあやふやな単語があって声が途切れる。ところどころ先生が補完してくれるけれど、口にしている発音が合っているのか自信がない。
「もういい、座れ。宮城、お前はもう少し真面目に授業を受けろ」
先生が困ったように言う。でも、真面目に授業を受けたところで、英語がわかるようになるとは思えなかった。
「じゃあ、仙台。続きから」
はい、と返事をして仙台さんが立ち上がる。
背筋をぴっと伸ばして、教科書を読み始める。
淀みなく流れる声は、澄んでいた。読み間違えることもなく、つかえることもなく教科書の文字が音声になっていく。文字にするならば、仙台さんの声は筆記体で、私の声は子どもが書いた頼りないブロック体だ。
彼女は、大抵のことをそつなくこなす。
私は教科書を眺めながら、ため息をつく。
解せないと思う。
髪は茶色っぽいし、メイクだってしている。スカート丈だって決まりより短い。校則を守っていないのに、仙台さんは先生から守られている。そもそも本人は清楚系だとか言っているけれど、メイクをしているのは清楚なのか、人の足に噛みつくのは清楚なのか、はなはだ疑問だ。
けれど、いくらこんなことを考えていても境遇は変わらないし、私が仙台さんのように何でもそつなくこなせるようになることはない。
私は教科書をめくる。
しばらくして仙台さんの声が途切れ、チョークが黒板を滑る音が聞こえてくる。
ノートには考えもせずに黒板を写し取った文字が並び、長い、長い時間が過ぎていく。先生は昼休みを五分奪って授業を終え、私はすぐに鞄からスマホを取り出した。
教室の一番後ろから友だちの舞香がやってくる前に、メッセージを送る。
相手は仙台さんで、内容は決まっている。
『今日、うちに来て』
返事はすぐにきて、放課後の予定が埋まった。
学食でお昼を食べて、午後の授業を受ければあっという間に学校での用事がなくなる。寄り道をしていこうという舞香に別れを告げて家に帰れば、仙台さんから『もうすぐ着く』とメッセージが届く。ベッドでゴロゴロしていると、インターホンが鳴って部屋に仙台さんがやってきた。
「お待たせ」
仙台さんはそう言うと、コートとブレザーを脱いで当然のように本棚の前に座った。私は彼女の頭の上に五千円札を一枚のせて、部屋を出る。パタパタとスリッパを鳴らしてキッチンへ向かう。
グラスを二つ並べて、冷蔵庫からサイダーを取り出して注ぐ。それを部屋に持って入ると、仙台さんは我が物顔でベッドに横になっていた。
だらしなく寝転んでいる彼女の横には、漫画が三冊ほど積んである。いつものことだからと、私はテーブルの上にグラスを置いて本棚から漫画を引っ張り出す。そして、何度も読んだ本のページをめくる。
命令と言っても、そんなにバリエーションがあるわけじゃない。この部屋にいる仙台さんは私の下僕のようなものだけれど、ある程度の決め事があるからできることには限りがある。それに、いつも彼女に酷いことをしたいわけではないし、変わったことをさせたいわけでもなかった。
だから、時間は静かに過ぎていく。
漫画を一冊、二冊と読み進める。
部屋には、ページをめくる音とファンヒーターが温風を吐き出す音だけしかない。
私が三冊目の漫画を手に取ると、仙台さんの声が聞こえてくる。
「宮城ってさ、ゲームはしないの?」
「するけど」
「イケメンに口説かれるヤツとか?」
漫画から目を離さずに、仙台さんが言う。
「そういうのしないから」
「へえ。恋愛漫画が多いから、そういうの好きなのかと思った」
恋愛漫画は好きだけれど、それはゲームに反映されていない。ゲームをするなら、ロールプレイングゲームだ。自分が対象になるよりは、他人の人生を追いかけるようなゲームがしたい。
「どうせ、オタクっぽいゲームしかしてないって思ってるんでしょ」
「違うんだ?」
漫画から顔を上げ、仙台さんが悪戯っぽく笑う。
私はそれに答えずに立ち上がる。
意識しているわけではないだろうけれど、彼女は私よりも上に立っているように振る舞う。学校での立場なら、それに間違いはない。でも、ここでは違うから、彼女の態度はあまり面白いものではなかった。
「英語の宿題やってよ」
鞄の中から教科書とプリントを出して、テーブルに拡げる。でも、仙台さんはベッドに寝転がったままだった。
「これ読み終わったら」
「今すぐ」
「宮城のケチ」
そう言うと、彼女は渋々といった感じで私の向かい側に座った。そして、自分の鞄からプリントを出して問題を解き始める。
「私のに直接書いてくれたらいいのに」
「前から言ってるけど、筆跡で私が書いたってバレるから駄目」
「筆跡真似してよ」
「バレたときに、一緒に怒られるの嫌だし。それに、学校に関わるような命令は契約違反だから」
私と仙台さんが放課後会っている。
一緒に何かをしている。
そういうことがわかるような命令はしない約束だ。
だから、仙台さんの言葉は正しいけれど、彼女なら私の筆跡を真似るくらい簡単だと思う。
できるけれど、やりたくない。
そういうことなんだろう。
私は、シャープペンシルで仙台さんの頬をつつく。
「なに?」
「舐めて」
真面目に問題を解いている仙台さんを見ていてもつまらないから、ちょっとした暇つぶしだ。
テーブルの向こう側、顔を上げた彼女の唇にシャープペンシルのノックボタンで触れる。そして、口の端からペンを滑らせる。ゆっくりとなぞって辿っていくと、仙台さんは躊躇いもせずにそれを舐めて囓った。
「そういうのあんまり好きじゃない」
私は彼女の口からペンを引き抜く。
「どういうこと?」
「頼んでないことまでするの」
命令は舐めてであって、囓ってではない。
して欲しかったことは、舐めることだけだ。
「仙台さん、命令されるの好きだったりする? なんか楽しそうだし」
「楽しそうに見える?」
嬉々として、と言うわけではない。でも、少なくともやりたくないというようには見えなかった。
仙台さんは、今まで私の命令に従わなかったことはなかった。
それは望んだことだけれど、今は望みが叶っているようには思えない。
「――見えないようにしてよ」
私は、彼女の口の中にペンを強引に押し込む。ノックボタンで舌をつついて、上顎をひっかくように動かす。そして、そのままペンを引っ張り抜くと、仙台さんは顔を顰め、不機嫌そうな皺を眉間に作っていた。
「そういう顔してて」
友だちに対してこんなことを思ったことはない。
でも、仙台さんは友だちじゃないから、こんなことを考えたっていい。
「やっぱり宮城はヘンタイだ」
学校では聞かないような低い声で言って、仙台さんが私からペンを奪おうとした。でも、それをかわして、私は笑顔を作る。
「そうかもね」
学校では、嫌な顔一つしない仙台さんが露骨に嫌そうな顔をする。
良い人でしかない仙台さんがいなくなる。
誰も知らない仙台さんがここにいる。
その瞬間がたまらなく好きなのだと思う。
私は、シャープペンシルの先で仙台さんの手の甲をつつく。
「ちょっと危ない」
仙台さんがむっとした声を出す。彼女の皮膚に芯が折れるほどペン先を埋め込むと、「痛い」という声が聞こえた。
私はペンを仙台さんの手から離し、ワニの背中に生えたティッシュを一枚抜き取って濡れたノックボタンを拭う。
「ねえ、夕飯って作ってくれるの?」
あの日、気まぐれで口にしたであろう言葉の真実を確かめる。
「食べたくないんでしょ」
仙台さんが冷たい声で言って、小さく息を吐く。そして、気持ちを落ち着けるように一度目を閉じてから私を見た。
「でも、命令なら作るけど」
静かにそう言って、仙台さんがプリントに英単語を綴り始める。
私は五千円を払って、彼女に命令をする。
でも、夕飯を作ってくれなんて命令はしない。
命令はもっと別のことに使う。
私は、彼女が書いた綺麗な文字を真似るようにプリントにペンを走らせた。