プロローグ Chapter0,1,2
これだけは忘れないで。
あなたは自分が思っているよりも
ずっと勇気があって、強くて、賢い
クリストファー・ロビン
(くまのプーさん登場キャラクター)
●プロローグ
ところどころに植物が群生している大陸の砂丘地帯を、一台のジープが激しく揺れながら、もうもうと砂煙をあげて走っていた。
古びたジープのシートには、みすぼらしい身なりの農夫が二人、酔っぱらってだらしなく座っている。お互いの酒瓶を勢いよくぶつけてなんども乾杯をくりかえし、大声で流行歌を歌う。車は当然、自動運転だから、村につくまでなにも心配いらない。そう、こんな時は飲んで騒ぐにかぎるのだ。
農夫たちがすっかり疲れて、とろけるような惰眠をむさぼりたくなってきたころ、順調に走っていた車が、ふいになにかに反応して停車した。
「……あ?なんだべやあ?」
ちょっと年かさの男が、面倒くさそうにねぼけまなこを開いた。
「リュウよ、ちょっと、見てきてくんな」
リュウと呼ばれた体の大きい若い男は、ふう、と酒臭いため息をつきながら、太く汚れた指先でドアのロックボタンを解除し、車外に出た。
冷たい風が吹いて、一気に目が覚める。男が意外に敏捷そうな動きで車の前方を確かめると、停車した理由はすぐにわかった。毛並みのいい、若そうな鹿が一頭、地面に横たわっていたのだ。
おそるおそる近づいてみるが、どこにも外傷はなさそうだ。鹿はうす目を開いたままだが、息をしているようすもないので、たぶん死んでいるのは間違いない。
泥のついた長靴の足先で、軽く鹿の腹を蹴っとばしてみる。固くない感触がして、それほど時間がたっていないことがわかった。
「おーい、オヤジさまよ~!」
リュウはジープに向かって、大声をあげた。
ジープのドアが開いて、オヤジと呼ばれた髭面の小男がよろけながら降りてくる。
「どうした息子よお」ガニ股で酒瓶を持ったまま、オヤジは酔った眼をこすりながらやってきた。
リュウの隣に来て、おお、と声をあげ、顔を見あわせた。リュウはにやりと笑った。
「オヤジさま、いい土産ができたんべ?もってけえるべえよ」
男たちはうなずきあい、いそいそと、そのけものを持ち帰ろうと四肢に手をのばす。こういう毛並みのいい若い鹿は皮も使えるし、固そうな肉だって煮込めば旨いのだ。腹をすかせた家族たちへの土産にはうってつけだ。
しかし……
オヤジと呼ばれた方の男がふと、目を凝らした。
一頭だけだと思っていた鹿が、もう一頭、二十歩ほど道の先に、静かに横たわっていた。
しかも驚いたことに、よく見れば、その先にも二頭……。
「リュウよ、ありゃあ、なんだべか?」
「はりゃあ!いっぺえ、死んでるべな!……ほれ、あれにもよ」
農夫たちは、おずおずとした足取りで、さらにその先のようすを確かめてみる。
すると、丘の道を外れた斜面の下に、直径が両手をひろげたくらいの、小さな洞穴があるのに気づいた。
……こんなところに、こんなものはない。
二人はここらへんをよく知っているが、記憶にはなかった。
もしかすると、雨かなにかの原因で崖崩れがおき、そのせいで砂に埋もれていた昔の洞穴が、ぽっかりと姿をあらわしたのかもしれなかった。
しかも、その洞穴の周囲にも、何頭もの小動物が倒れていた。
二人はまた顔を見合わせた。
「リュウよ、あん洞窟ん中、見てみるべえか?」
「オヤジさま、ヘビがぎょうさんおるかもしれんぞ」
「ははあ、こいつらヘビに噛まれて死んだんか。なら、わしはヘビ獲りの名人じゃ。たいまつ投げこんで、枝をこうやって……」
「おら、懐中電灯とってくる」リュウが走り出した。
リュウが洞穴の中を懐中電灯で照らした。
すぐそばには、さっき投げ込んだばかりの、ボロ布と古い枝をたばねてつくった松明が燃えてころがっている。
「こりゃあ、なんだべ……」
洞穴に、ヘビはいなかった。
そこには、見たこともない大きな鹿が折り重なり、つい数日前まで凍っていたかのように、その固そうな毛から、水のしずくをぽたぽたと滴らせていた。
その日の夜……。
とある村。
木と土で器用につくられた民家の停車場に、例のふたりの農夫が乗っていた、見覚えのあるジープがとまっていた。
泥で汚れた荷台には、何頭かの鹿が、まだ乗せられたままだ。
最初に見つけた一番若い鹿が載っていないところを見ると、いまごろは、さばかれていろんな家にふるまわれているのだろうか……。
しかし、村はしずまりかえっていた。
農村の夜にありがちな、火とスープの匂いや、酒の喧噪は、どこにもなかった。
いや、それどころか、暗いなか、目を凝らしてみると、村の広場には、点々と、人が倒れ、死の気配があたりを支配している。
と、ふいに一人の女が、粗末な家から飛び出してきた。
手に携帯端末を持っているところを見ると、どこかに連絡していたらしい。
なにかをわめきながら、顔をかきむしる。
口から泡をふき、ばったりと倒れてしまった。
端末からは、だれかが大声で叫んでいる声。
女は、もう、動かない。
みるみるうちに、顔にむらさき色の斑点が浮かびあがってきた……。
●0 めざめ
のどかな朝。
花びらのようなエアドローンが住宅街のターミナルから飛び立っていく。
ここは首都から車で一時間くらいの、新緑がたくさん生い茂る静かな町だ。
昔は大きな工場があったが、それが五十年ほど前につぶれ、その後、政府が買い取って、新興住宅として再開発した。
昔のアメリカ映画みたいに、広くて清潔そうな道は縦横に伸び、カラフルだが統一感のある家々は、芝生の生えた敷地内にゆったりと建てられていた。
その一角にある、小さいが白くてセンスのいい一軒家が、わたしとサーシャの住むわが家だ。十八年前、わたしと恋人だったナルシアが、あれこれ相談しながら、モデリングアプリと3Dプリンタを駆使して建築した。
そのときから、いずれ赤ちゃんをもらうつもりでいたから、子供部屋を考えたり、パーティーのためにリビングを広げたり……そのころ、毎日はとても楽しかった。
やがてナルシアが亡くなり、わたしとサーシャの二人だけになった今でも、家はちゃんと手入れが行き届いている。
玄関にあがる階段の横には、ほんの少しだが、花も植えてあった。
部屋に入ってすぐ、リビングの壁際にはクラシックな木製の家具が置いてあり、その上の壁には、デジタルフォトがある。
ベビーセンターの前で撮影した、赤ちゃんのころのサーシャと、新米母親のナルシア、そして黒いスーツ姿のわたしが、めいっぱいすまして写っていた。
その映像の主人公、今年十三歳になる娘のサーシャは、まだ自分の部屋ですやすやと眠っている。
わたしのようなアンドロイドに養育されているAAAの子供は、普通よりすこし聡明に育つらしく、サーシャは去年、工学博士を見事取得した。
だが、わたしから見ればまだまだ子供だ。
ホームコンピュータのタイマーが作動し、リビングのホロモニタに電源が入った。
朝のニュース番組がはじまる。
きのう成立した、アンドロイドと人間の、パートナーシップ法案のニュースだ。
『アンドロイド保護法案成立の話題です。今回成立した法律で、法的にも、アンドロイドの権利が、大きく認められることになりました。現在は、そのほとんどが、アンドロイドと人間のカップルですから、これは当然の措置と言えます。特に両親の内、人間がなくなってアンドロイドと子供だけ、というアンドロイドアンドアローン、いわゆるAAAのご家庭には……』
わたしは充電スタンドから、ゆっくりと身をおこした。
汗をかかないわたしには、着替えがそれほど必要ない。だから今日も執事のような黒いスーツに、白いシャツ。アクセントには、おしゃれなリボンタイを締めている。
朝の支度をするために、その上からエプロンをつけた。
「ハリー、おきてください」
わたしは、ホームコンピュタのハリーに声をかけた。
『おはようございますモルドー、夕べおそく(、、、)から、今朝にかけて、家内は安全に保たれていますよ』
ちょっと軽薄そうな男性の声が――といっても、ナルシアがそう設定しただけなのだが――スピーカーから聞こえてくる。
「ハリー……サーシャの夜更かしをそれとなく言いつけるなんて、さすがは一流のホームコンピューターですね。今日の天気はどうですか」
『お世辞をどうも。今日の天気は一日中快晴です。お湯を沸かしますか?』
「68℃で」
いつものように、庭に出て花を摘む。
遠くに一台の黒いSUV車がとまっているのが見える。
私の記憶にないナンバーだ。
近所に住む人の所有物じゃないから、どこかのビジターかもしれない。
中が見えないので、誰か乗っているのか、あるいは無人なのかわからなかった。
ポストで、いまだになくならない紙の郵便物をチェックする。
精子と卵子の提供を呼び掛けるベビーセンターのチラシを見つけたので、テーブルの上にそっと置くことにする。
今年から、サーシャにもその資格はあるはずだ。
さて、庭のお花をお皿に飾ろう。
黄色の少し大きいものを真ん中に、まわりには、白と青の小さい花を散らして、最後に少しだけ香りのエッセンスを振りかける。
うん、われながらいい出来だ。
わたしは暖かいお茶と一緒にトレイにのせ、サーシャの部屋のドアをあけた。
朝はノックしなくてもいいと、言われているのだ。
可愛い花柄のカーテンをあける。
さっと朝日が差し込み、かわいらしいピンク柄の室内が輝いた。
女の子らしい、白くてちょっと小さめのベッド。
その奥に、きれいな栗色の髪の毛をして、レモンの柄のパジャマを着た、サーシャの寝顔が見えた。
ナイトテーブルの上の小さなスタンドの灯りを消し、お花とお茶を、枕元のナイトテーブルに置いた。
「サーシャ、起きてください。朝ですよ」
サーシャが、鼻をひくつかせた。
「う~ん、キスしておこして~モルドー」
目を閉じたままのサーシャが、パジャマの柔らかそうな肩を、ちょっぴりすくめて唇をつきだした。
「寝ぼけたふりしてからかっても無駄ですよ、サーシャ」
わたしは素っ気なく、とりあわない。
もちろん、今のは大人びたジョークにすぎない。
分析医からは、ちょっと……というか多分に……ファザコンの傾向があると言われているし、甘やかすのはよくない。
「今日はいいお天気ですよ。学校は今日ダンスの日でしたっけ?トーストは1枚ですよね?」
そう。朝のサーシャには、こんな言葉がいいのだ。
天気のことを言うと、窓を見て瞳孔が動き、学校の話にはアドレナリンが分泌される。
トーストの枚数を訊くと、胃が一気に動き出すだろう。
「もう!ノリ悪いんだからぁ!」
真っ白い布団を跳ね上げ、パジャマ姿のサーシャが、身をおこした。
「……モルドーったら、まーた、天気のことを言えばボクの瞳孔がひらくとか、学校の話をするとおしっこがでるとか、トーストの話をするとお腹が鳴るとか、どうせそんな計算してるんでしょ!」
サーシャは栗色の髪をかきあげる。
ベッドの端にすわり、ティーカップをとりあげた。
「ふ~~っ、遅くまでプログラムした次の朝の眠さったら……」
わたしには小さく可愛い娘であり、ちょっぴり大人びた少女であり、そして時には、母親の血を受け継いだ工学博士の顔ものぞかせる。
それが十三歳、サーシャの素顔だった。
「眠いですか?」
「うん……」
「大変ですね」
「……うん」
サーシャはカップを口に運んだ。
もちろんお茶は飲みごろの温度にしてあった。一気に飲み干し、ベッドにすわったまま大きく伸びをする。
「それにしてもモルドー心配性なんだよね。ボクももう十三なんだし、そろそろ父性回路切ってもいいんじゃなぁい?」
父性回路も何も、わたしはずっときみの父親なんですよサーシャ。
「はいはい!そんなやさしい顔してもダメ!いい?モルドー、ぼくらは親子じゃなくて、トモダチだよ」
わたしはサーシャと並んでベッドにすわる。
朝と晩、こうやってサーシャと話をするのが、わたしたちの習慣なのだ。
「あっ!やだっ!」
「どうかしましたか?」
「電子情報生命工学の論文やんなきゃ!」
「AI技術ですか?新しいカリキュラム?」
「じゃなくて、工学博士としてのノルマだよ!……ま、だいたい打ち終わってるから、あと一時間もあればできるけど」
「昨日しておけば……」
「言わない……で!」
サーシャはそう言って、いつものように、自分の肩を横にいるわたしに、どん、とぶつけた。
「今日も体調はいいですね。体重にも変化なし」
「愛情表現よ。ねえモルドー、お母さんの論文見たことある?」
どん!
サーシャが、また肩をぶつけてくる。
いつも首から下げているペンダントを開け、ナルシアの小さな写真をながめた。
わたしはそれを横目で見て、
「むかし、添削を手伝ったとき、読みました」
と、言った。
「ふーん」
どん!
わたしはそれにつきあいながら、ピンク色をした、ふわっふわの布団を撫でた。
「夕べ遅くまで起きてたそうですが、やっぱり感情回路の研究ですか?」
亡くなった母――ナルシアの研究を、サーシャはひきついで完成させようとしていた。すべてのアンドロイドに、感情をもたせる。それがナルシアの夢だった。
「もうちょっと、だよっ」
どん!
「それはうえっ!?」
「くすくす、モルドーもそんな声だすんだ」
「なにか言おうとした弾みに、いつもより強い衝撃を肺に受けたからですよ」
「真面目かっ」
どん!
「でもサーシャ、今は、論文を完成しないと」
「オヤジかっ!」
サーシャはシャワーを浴びにいった。
わたしは今のうちにメールをチェックすることにしよう。
リビングに戻りながら、手首につけたブレスレット型タブレットパッド(通称ブレット)を開き、メールを見る。
この時代、ほとんどの人やアンドロイドは、それぞれの左手にこのブレットをつけ、必要な情報入手や、通信を行っていた。
わたしはブレットのメールを一覧して、たくさんのどうでもいいものの中から、特に重要な内容にしか許されないマークを見つけた。
一般人にはめったに表示されないレベル1のマークだ。
政府特使からの緊急連絡、とあった。
わたしはそれを開いた。
『本日、厚生省特使より重要なお話がございますので、すべての予定はキャンセルしてください。学校への連絡は政府より行いました。ご自宅には午前九時ちょうどに伺います』
「え?」
わたしは画面の時刻を確認した。
あと一時間もない……。
●1 怖い顔の役人
ホロモニターには、昏い洞穴の中。
毛の生えた数万年前のシカ類の映像が映ってる。
それと、あまり見たくない、キモイ疫病のニュース映像。
なんかやっかいなことになりそう……。
だって、ボクの目の前に、とっても怖そうな男が二人もすわってるんだもん。
大きな窓をバックにしてるから、ちょっと逆光になってるし……。
なんだか、威圧感ありまくり。
そろいもそろって黒っぽいダサい背広。
おまけに、黒いサングラスなんかかけちゃって、なんの意味があるんだろう?
だいたい、この人たちはいったいどんな組み合わせで受精されたんだろね?もしかして、怖い顔の人の精子と卵子を選んだとか?
ボクはテーブルの上の名刺を見た。
(厚生省防疫対策室、ガリオン・ヤマシタ)
近所で伝染病の感染者でも出たのかな。
ボクが混合ワクチン受けたのはいつだっけ?三歳の時?
それにしても、ガリオンなんて、やっぱり怖くて固そうな名前だ。
……あ、どうりで四角い顔をしている。
横にいてさっきから喋らないもう一人の男の名前は……テリオ・ワダ。
この人もぜったい人間だ。だってアンドロイドなら、もっとかっこいい。
顔だって種族の違いくらい違うもん。
ボクはもういちどワダ氏を見た。
ワダ、やっぱり怖い顔だけど、ちょっと丸顔。丸顔だけど、怖い顔。
それに、ガリオンよりは年が若そう。
あー学校まにあうかな。
この人たち、朝いきなり来たから、ボク、ふだん着の、星のセーターにチェックのスパッツのままだよ。
着がえなくちゃ。
「聞いてますかサーシャ・トーマさん」
「え?あ、聞いてるよ」
「グレートシャイニー皇国の地下二百メートルにあった洞穴から、数万年まえの鹿哺乳類が発見され、そこから空気感染する新種の病原菌が発生しました。すでに現地の調査員、学者、国家管理局の人間十数名が、命を落としています……」
四角い顔の眉をひそめて、さらにしかめっつらになったガリオンが、自分のパッドに指をすべらせ、画面を操作している。
リビングのホロモニタに映っているのは、彼のブレット映像だ。
グレートシャイニー皇国はアジアの大国で、六十年前に党の最高指導者が皇位について生まれた国家だ。その後いくつかの戦争を経て、今では太平洋の半分以上に支配勢力を常駐している。
「この病原菌もしくはウィルスによる感染症は致死率九十パーセント以上。今のところ人間の自己免疫は作用しないことがわかっており、有効な治療法もありません。つまり……」
顔を上げたガリオンさんがボクの目を見た。
「人類にとって、大きな脅威なんです」
「その顔やめなよ」
「失礼ですよサーシャ」
「だって」
モルドーがホロモニタの資料をざっと見て、
「未知のウィルスのようですね?感染力は」
と、つぶいやいた。
「ほう、きわめて強い……ですか」
映像の中に表記を見つけたらしく、片方の眉をあげて読んだ。
モルドーがこんな風に片方の眉をあげるときは、そこそこヤバいときなんだ。
「でもガリオンさん、これ、ボクたちとなんの関係があンの?」
人類存亡の危機はわかったけど、ボクには目の前のこの人の顔が怖い。
「われわれ人間のDNAは産まれた直後にすべて登録保存されていますから、現存するすべての人間のDNAは瞬時に照合が可能です。このことはご存じですね?」
全世界の人間のDNAデータが統合されて、今じゃ数秒で照合可能なんだとか。
そのおかげで、犯罪が激減したって小学生のときにならった。
「うん、知ってるよ」
「サーシャさん、このウィルスのDNA構造を解析した世界連盟のAIは、ある特定のDNAタイプを持つ人間の血液抗体が、このウィルスを選択的に攻撃すると予言しました。そして照合の結果、そのDNAタイプを持っているのは今のところ、全データの中でサーシャさん、あなただけなんです」
「え?ボク?」
ボクはモルドーと顔を見合わせる。
彼が片眉をあげた。
「よかったですね。人類が滅亡しても、サーシャだけは生き残れますよ」
「あは、それ、ちっともうれしくない……」
「サーシャさん、単刀直入に言います。あなたの血液が必要なのです。どうかわれわれと一緒に来ていただきたい。あなただけが人類を救うことが出来るのです。いただきたい血液の量は二千CC、もちろんリスクはありますが、輸血を同時に行い、われわれは万全をお約束します」
二千CC?
わたしはサーシャの顔を見た。
人間は大量に血液を失えば死にいたる。
サーシャは体重四十七キロだから、全血液量は三・八キロほど。
血液の比重は一・〇五。
だから二千CCの採血には、生命の危険があるはずだ。
同時に輸血をしつつ、相当の時間をかければ、安全ということなのだろうか?
わたしはガリオンの顔に流れる汗に気づいた。
心拍数もあがっているようだ。
この緊張感は異常だ。
健康に影響しないのなら、これほど緊張する必要ないはずだ。
そのとき……。
ガリオンたちの背後にある大きな窓から、朝みかけた、黒いSUVがゆっくり動き出すのが見えた。
最初は普通に発進したかのように見えたが、途中から突然スピードをあげる。
鼻先をこちらにむけ、道と家の境界にある敷石に、どんっとのりあげる。
車体が大きくバウンドした。
そのまま弾みながら突っ込んできて、窓いっぱいにSUVのフロントが広がる。
「あぶない!」
わたしはサーシャをかばって転がった。
ガッシャーーーーーーーン!!
壁をつきやぶり、車がリビングに入ってきた。
ガリオンたちはソファーごと押されて床に転がる。
黒のSUVが鼻先を壁からつきだして止まった。
ギアを切りかえる音がして、いったん下がる。
ガラガラと、土ぼこりが舞い上がり、壁がくずれ落ちて大穴があいた。
車の助手席から、女が大声で何か叫びながら飛び出てきた。
つづいて運転席と後部座席のドアが開く。
黒い服装の二人の男。
アンドロイドだ!
ガリオンたちはのろのろと立ち上がろうとしている。
サーシャはわたしの腕の中だ。
わたしは起きあがり、なんとか奥の部屋に連れて行こうとした。
女と男たちが壁の穴からなだれこんでくる。
ドンドン、という発砲音。
ガリオンたちが白目をむいて、床にいきおいよく顔をぶつけて落ちた。
「やだっ!」
サーシャが叫んだ。
「大丈夫ですよ!落ち着いて」
興奮しないアンドロイドのわたしにも、大きな声を出すことはできる。
わたしは左手でサーシャの肩を抱き、床から助けおこそうとした。
目の前に、細いデニムに白いスニーカーを履いた女の脚があらわれた。
わたしが顔を上げると同時に、サーシャにスプレーを吹きかけようとした。
いけない。
きっと、目つぶしか、麻酔薬だ。
サーシャの顔をまもろうと、右手でカバーする。
左から、男のアンドロイドがぬっとあらわれた。
手にスタンガンを持っている。
……アンドロイド用!
目の前がぴかっと光り、わたしはシャットダウンしてしまった。
●2 走り去る車
ぼおっとした頭、揺れる身体、皮のシートの匂い……。
これはシートベルト?
なんだか昔よく三人で出かけたテーマパーク帰りの車内みたいだ。
あれ?
ボクなにやってるんだろう……?
さっきから、前の座席で女の人がかん高い声でべらべらしゃべっている。
アンドロイドなら、たぶんこんなにおしゃべりしない。
きっと人間の女の人だ。
ということは、ボクはいま、後部座席にいるんだよね。
あれ?目があかない。
てか、これってもしかして目隠し?
「あ、気がついたの?いいこちゃん」
だんだん、頭がはっきりしてくる。
あのリビングでの騒ぎって、いつのこと?
今朝?それとももう何日もたった?
ボクは自分のお腹にきいてみた。
うん、あんまりすいてないし、きっとそんなに時間はたってないと思う。
とにかく今朝、ボクんちに黒い車がぶつかってきて、黒いスーツの男が二人と、女の人が乱入してきた。
ガリオンっていうお役人さんたちに銃を撃って、ボクにはスプレーを……あれ?モルドーは?
気配をさぐってみたけど、モルドーはいないっぽい。
やだ、彼、大丈夫なのかな?
両隣にアンドロイドの気配がする。
彼らは柔らかいけど最低限の体温しか持たないからすぐわかる。
匂いもしない。
モルドーは、いつも香水をちょっとつけてるけど。
両側の人が身体を動かす時、ほんの少しモーターの音がする。
つまり、アンドロイドだ。
「今から目隠し取ってあげるけど、暴れちゃだめよ。それから、ブレットはもらっておくわね」
目隠しがはずされる。
ボクはゆっくりと目を開いた。
外の景色が一気に目に飛び込んでくる。
なんか、高級そうな車の室内。
両側にいるアンドロイドと、前の席の若い女。
車窓を流れるのは、見覚えのない景色ばかりだ。
ボクの左の手首に男の手が伸びて、ブレットを外された。
「フレド、まだ捨てちゃダメよ。ドローンに乗せて飛ばすんだから」
女の人がちょっぴりハスキーな声を出した。
何歳くらいかな?
あの感じだと、三十歳くらい?
……つつー。
ボクのこめかみをなにかが流れた。
急に鉄くさい匂いがする。
手をやると、ぬるっと血の感触がした。
やだ!ボク、ケガしてんのかな?
「コレをどうぞ」
さっき、若い女からフレドと呼ばれたアンドロイドが、ボクの手に治療用のウェットティシュを握らせてくれた。
ちろっと見あげると、意外に優しそうな顔をしてる。
「さあもうすぐ着くよ」
女がシートベルトを外しながら言った。
「時間との勝負、急いで。サーシャちゃんはしっかり歩いて。フレド、ドローンの用意。アタシたちが降りたらすぐ発車させるのよ。タルカス、降りたらすぐにマンホールハッチあけてね」
「ワカリマシタ」
車が高速道路のガード下にはいったところで、減速する。
そのまま、走行車線の上で停車する。
後続車迷惑だろうな、と思う間もなく、
「今よ!降りて!」
ふいに左のドアがあけられて、大急ぎで下車させられる。
ブーン、とフレドの手からボクのブレットを掴んだドローンが飛び立つ。
ボクらがガードの暗い端に寄ると、車はすぐにタイヤをきしませて走り去った。
フレドったら、律儀に後続車に手なんか上げてるよ……。
タルカスが、壁際の床にある四角い鋼鉄のハッチに近づいた。
指先を少しへこんだ溝にかけ、そのまま力任せに引っぱりあげる。
バキッ!
タルカスったら、ものすっごい力!もしかして、コマンダー(軍事用)?