第3話 護衛任務
陽が傾き始めた昼下がり、穏やかな風がアイラフグリス王国の首都オルグリオを包んでいた。
その中の一角、大きな教会の裏にひっそりと佇む小さな家。ここはかつて孤児院だった場所で、今ではアルバートとユアが共に暮らす安息の家となっている。窓辺に差し込む柔らかな日差しの中、昼食を終えた二人は静かな時間を楽しんでいた。
アルバートが紅茶をすすり、一息つくと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、次の任務はエルセリア大陸に行くことになった」
その一言に、食器を片付けようと席を立ったユアの動作がぴたりと止まる。驚きのあまり手元が狂い、皿が小さな音を立てた。
「ええっ!エルセリア大陸に行くんですか!?」
声を上げるユアの表情は、驚愕そのものだ。遠い異国の大陸の名前が彼女にとっていかに非日常的であるか、その反応から伝わってくる。
「ああ。エルセリア大陸のキアナ王国だ。陛下の命令でキアナ王国に派遣される研究機関の研究員の護衛をすることになった」
アルバートは飲み終えたカップを机に置きながら事もなげに言葉を続けるが、その内容にユアはさらに目を丸くする。
「そもそもエルセリア大陸ってすっごく遠いじゃないですかっ!それに、いつ戻ってくるんですか?あんまり長いと寂しいですよ……」
驚きが怒りに変わり、最後にはしょんぼりと肩を落とすユア。そのコロコロと変わる感情の起伏に、アルバートは思わず鼻で笑った。
「なんで笑ってるんですかっ!」
「いや、なんでもないぞ」
「嘘だーっ!絶対笑いましたよね!?」
ユアの追及をさらりとかわしながら、アルバートは軽く肩をすくめて言った。
「まあ、そんなわけだからユアも用意してくれ」
「え?」
唐突な言葉に、ユアはポカンと口を開けたままアルバートを見つめる。その顔には驚きがありありと浮かび、手にしていた皿を落としそうになる。
「あわわっ!えっと、……私も行っていいんですか?」
何とか落としそうになった皿を回収したユアは、恐る恐るといったようにアルバートへ問いかける。
「最初からそのつもりで話をしていたつもりだが、勝手に勘違いして怒ったりしょんぼりしたりしていたのはユアの方だぞ?」
「……う、そ、それは……」
気まずそうに視線を逸らすユア。そんな彼女の様子に、アルバートはほんの少し微笑んだ。
「まあいい。今回はユアを連れていく許可を陛下からもらっている。長い旅になりそうだからな」
「そ、それじゃあ準備してきますね!」
ユアはみるみるうちに明るい笑顔を作り直し、食器を持ったままキッチンへと駆け込んでいった。その後ろ姿を見つめ、アルバートは小さくため息をつく。
「まったく。落ち着きのないやつだ」
しかし、その声にはどこか優しさが滲んでいる。ユアが笑顔でいられること──それだけで十分だった。
(だからこそ、あんなことは二度と起こさせない)
前回の任務で、自分の不在中にユアが危険に晒された。その記憶がアルバートの胸には強く残っていた。今回、彼女を連れて行くためにセルシオ国王に進言し、許可を得たのも、その思いからだった。
そんな時、耳に馴染みのある足音が届いた。普通の人間なら聞き取れないほどの微かな音──だが、それは確かにクミラのものだった。
「ん?クミラか?早いな」
足音は玄関の前で止まり、続いて軽いノックが聞こえる。アルバートが扉を開けると、そこには期待に満ちた笑顔を浮かべるクミラの姿があった。
「アルバートさん!こんにちは。準備ができたので、少し早いんですけど来ちゃいましたっ!」
艶やかな青い髪が風に揺れ、白いローブと制服が彼女の清廉さを引き立てる。甘い花の香りがふんわりと漂い、アルバートは軽く目を細めた。
「いらっしゃい、クミラ。今、ユアが準備をしている。終わるまでゆっくりしていくといい」
「はい!ありがとうございます。それにしても、エルフの国なんて初めてです。アルバートさんは行ったことあるんですか?」
クミラの問いに、一瞬考え込むアルバート。
「そうだな……」
記憶を探るたびに、彼は最近感じていた違和感を思い出した。頭の中に霧がかかるような感覚──それが時折、アルバートの思考を頻繁に鈍らせていた。
「エルフに会ったことはあるが、国には行ったことがないな」
「そうなんですね!戦争中だそうで物騒ですけど、どんな国なのか気になりますね」
クミラの声は明るさを装っていたが、その響きの奥底には『隠しきれない影』が潜んでいた。戦火に揺れるキアナ王国。相手はエルセリア大陸の大国、メメント精霊国。
『全統五覇』の一人である精霊王ルゼが治めるその国との戦争は、ただでさえ荒んだ暮らしをさらに暗いものへと押しやっていた。そんな状況下で、研究員を派遣するというセルシオ国王の命令──
アルバートの胸中には拭いきれない疑問が芽生えたが、そのたびに彼の脳裏には同じ言葉が浮かび上がる。
(陛下の考えることならば、きっと正しいことなのだろう──そう、全てが正しい)
その言葉は、霧のようにアルバートの疑念を包み込み、静かに、確かに消し去っていく。まるで『信じることを強要されている』かのように。
「キアナ王国が精霊王の国と戦うには、それなりの策があるのか、それとも愚かさゆえか……どちらかは分からない。ただ、俺たちの任務は研究機関の研究員の護衛だ。それ以外には関わるなとの命令だし、大事にはならない……と思いたいが、警戒は怠るわけにはいかないな」
アルバートの低く引き締まった声に、クミラは微かに頷いた。
「そうですね……何事もなく、無事に終われば良いんですけど」
二人の言葉は静かに響き、足音と共にアルバートの家へと流れていった。家の中は簡素だが整然としており、質実剛健な彼の性格がそのまま表れていた。部屋に置かれた家具は、それなりの質を持つものばかりで、勇者という地位に見合った品位を保っているが、決して豪勢で華やかなわけではない。
アルバートは昨日街で買い求めたばかりの輸入茶葉を手に取り、手際よく紅茶を淹れる。その茶葉は異国から取り寄せられたもので、少し値が張ったが、ユアの希望で買ったものだ。湯気と共に広がる芳しい香りが部屋を満たしていく中、クミラはそっとカップを手に取った。
「わあ……すごく良い香りですね。ありがとうございます、いただきます」
彼女は慎重にカップを傾け、紅茶の味わいを確かめる。そして、ほんのりと微笑んだ。
「香りも良いですが、味もとても美味しいですね」
「そうか。お茶好きのクミラがそう言うなら、間違いないな」
その何気ない一言が、クミラの心を温かく揺らす。それは、アルバートが『自分の好みを覚えていてくれた』からこその言葉だったからだ。そしてそれは、共に過ごした時間を忘れずにいてくれた証でもある。
「そんな昔のことを覚えていたんですか?」
「まあな。あの頃、よくクミラに誘われて色んな茶を飲んだからな」
「す、すみません……迷惑でしたよね?」
「いや、迷惑どころか、あの頃の私には良い気分転換だったよ。今もこうしてお茶を楽しめるのは、そのおかげだ」
懐かしい記憶を語り合う二人の間には、柔らかく温かな空気が流れていた。それは、共に過ごした日々が織り成したかけがえのない絆だった。
だが、その穏やかな時間を破るように、ユアが元気よく部屋へと駆け込んできた。
「あっ、クミラさん!来てたんだね!いらっしゃい!そのお茶、美味しい?」
「ユアちゃん、お邪魔してます。うん。とっても良い香りで美味しいよ」
「やっぱり!買って正解だったじゃないですか、お師匠さま!」
「確かにな。この茶葉は当たりだな」
三人で囲む紅茶のひととき。戦争の影を忘れる、束の間の『平穏』。しかし、アルバートの胸には、その静けさが儚いものであることを知る思いがあった。
「お茶が終わったら、出発しよう。馬車は教会に手配済みだが、研究員との合流はもう少し後になるな」
「はい。それにしてもエルセリア大陸までは長旅ですね。途中、船にも乗りますし」
「えっ!船っ?楽しみ!」
はしゃぐユアに、アルバートは少し厳しい目を向ける。
「ユア、多少はしゃぐのは良いが、向こうは戦争中だ。向こうでは必ず私の指示に従うこと。それだけは守るように」
「分かってます!ちゃんと聞きます!」
軽い返事に一抹の不安を覚えながらも、アルバートは静かに誓った。
(今度こそ、守り抜く──)
陸傑死団のブラストに敗北した記憶。それは深い痛みとして彼を苦しめたが、同時に『誰にも負けない覚悟』を強く刻み込んだ。次こそは剣を振るう。ただ、大切な者を守るためだけに。
最後の紅茶を飲み干し、アルバートはゆっくりと立ち上がった。彼の動きに続いて、クミラとユアも立ち上がる。部屋に漂う紅茶の香りは、旅立ちを見送るかのように微かに揺れていた。
「それじゃあ、行こうか。エルセリア大陸、キアナ王国へ」
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