第2-2話 アークルトスの町
準備を終えた二人が連れ立って家を出ると、目前に広がるのは、昨日の夕暮れとはまた違った趣を湛える森だった。朝の光に照らされ、木々の葉がきらめき、小鳥の囀りが風に乗って耳をくすぐる。
冷たい空気が頬を撫でるものの、空には一片の雲もなく、陽が高くなればいくらか暖かくなるだろうことを感じられた。
町までは、下り道であれば歩いておよそ四時間とのことだ。これほど離れていれば、〈遠見〉のスキルで視界に捉えられなかったのも無理はない。
「そうだ。この国は、なんて名前なんだい?」
ふとした疑問を口にした愁に、リアはぴたりと足を止め、不思議そうに首を傾げた。
「え?国の名前……ですか?アイラフグリス王国ですよ?」
その反応はごく自然なものだった。
国名すら知らぬ相手に対する困惑──否、警戒すら混じっていたかもしれない。無知を晒した愁は、内心で苦い思いを噛みしめる。
(しまった……そんな基本的なことすら知らないなんて、どう考えてもおかしいよな)
「ごめんね、実は……色々あって、このあたりの事情が何もわかっていないんだ」
愁の謝罪に、リアはすぐに笑みを浮かべ、柔らかく頷いた。
「そうだったのですね。では、私の知っている範囲でご説明いたします。アイラフグリス王国は、今年でちょうど建国千年を迎えるそうです。現在は、十四代目の国王さまが治めていらっしゃいます」
リアの口から語られるその言葉には、どこか歴史の重みが宿っていた。
このアイラフグリス王国は、長い歴史を有する大国である。
その始まりは、千年前。神々と戦争を繰り広げた大悪魔が敗北し、亜人族を守る存在が姿を消したことから始まる。その隙を突くように、初代国王アイラフグリス一世は亜人の地へと進軍した。
文明の発展度に大きな差があったことに目をつけ、当時、技術・組織力において劣っていた亜人族を力で制圧することを決定。彼らの長寿と強靭な肉体を『労働力』として利用し、わずかな対価と引き換えに搾取を重ねた。
その結果、人族は急速に人口を増やし、亜人の大陸領土を掌握。知能と技術を武器に文明を飛躍的に発展させたのである。
(なるほど……“悪い意味で”歴史に名を刻んだ国、か)
愁は、静かに息を吐いた。
この王国の体制もまた、興味深いものだった。
王位は世襲ではなく、現王が崩御すると、複数の大貴族の中から最も力ある者──政治力、人脈、軍事、智謀のすべてに優れた者が選ばれるのだという。その制度のおかげで、常に統治能力の高い国王が据えられ、王国は千年にわたり強大な勢力を維持してきたのだ。
「まったく……どの世界でも、似たような歴史が繰り返されるものだな」
愁の吐いた呟きは、風に乗って森の静けさの中へと溶けていった。
彼らがいる大森林は、ちょうど大陸の中央部に位置し、そのすぐ近くに隣接するアイラフグリス王国のほとんどの土地はかつて、亜人族が暮らしていた土地だった。
しかし今では、大森林を除いてアイラフグリス王国の領土がほぼ全域を覆っている。
この王国は現在、人族が支配するティルマス大陸のおよそ三分の一を掌握する大国である。
そして大森林を挟んだ向こう側には、十六の小国を従えるラリアガルド帝国があり、さらに、五つの国からなる連合国家──シィータビスク連合国が存在する。
この三国が、今なお覇権を賭けて火花を散らし続けている。
なかでも、アイラフグリス王国はかつての亜人領を支配下に置いていることから、全亜人族のうち実に七割を統治下に置き、さらに三国の中でもっとも『差別意識』が根強く残る国家だとされている。
リアの口から語られるそんな重苦しい歴史に耳を傾けるうちに、時は知らぬ間に流れていた。
やがて、森の木立が途切れ、視界が大きく開ける。目前に現れたのは、町──アークルトス。
その町は王都へと続く幹道の中間地点にあり、旅人たちの中継地として発展してきたという。宿屋や飲み屋が建ち並び、補給物資を豊富に扱う交易の要所。旅人の往来が多く、自然と人の集まる町である。
城壁に囲まれた町の門前には、荷車を引く商人、旅装束の冒険者、子を抱いた家族連れ──立場も身なりも異なる人々がひしめき、喧噪と熱気が通りの空気を押し上げていた。
遠目に眺めるだけでも、その活気はまるで昼の陽光のように明るく、目を惹いた。
(……なるほど、栄えているという噂は伊達じゃなさそうだ)
愁の胸に、ふわりと風船のように膨らむ小さな期待と、未知の地に足を踏み入れる旅人特有の昂ぶりが生まれる。
「亜人族は、無条件で入っちゃ駄目とか言わないよね?」
不安げな問いかけに、隣を歩く少女──リアが首を横に振って答えた。
「それは大丈夫です。愁さまの“奴隷”という建前があれば、愁さまの傍にいる分には問題ないはずです。ただ……」
「ただ?」
「愁さまがわたしにくださったお洋服が、あまりにも立派なので……きっと、愁さまは“もの好きな貴族”か“金持ちの道楽者”と勘違いされると思います」
深刻な問題でもあるかと思ったが、それほどでもなさそうだ。目立つ程度で済むなら、周囲の目など取るに足らぬこと。大切なのは、リアを疎かにしないことだ。
「なるほど。それくらいなら別に問題ないかな。それじゃあ、行こうか」
門の前では、銀の鎧に身を包んだ騎士達が、手際よく検問をこなしていた。
昨日、リアを虐げていた者たちと同じ鎧姿が、愁の記憶に生々しく蘇る。
馬車の荷台を検められる者、書類のようなものを見せるだけで通される者──対応は千差万別だ。
その中で、明らかに異質な視線を集めているのは、ほかでもない愁とリアの二人だった。
殊にリアは、その銀糸のような髪と紅玉のような瞳が人目を引き、行き交う者たちが遠慮もなく視線を注いでくる。
彼女が“亜人”であることは、どうやらこの世界では常識のようだ。
(動物の耳も尻尾もないのに……どうしてリアの特徴は亜人族ってことになるんだ? それとも何か、俺が知らない違いがあるのか……)
答えの出ぬ疑問を胸に抱いたまま、門へと足を運ぶと、ひとりの兵士が近づいてきた。
「次──二人組か?ん?そっちは亜人か?それにしちゃ……妙に身なりがいいな。おい、男。名を名乗れ」
事務的な口調だが、警戒心を隠しきれていない。愁はわずかに息を整え、静かに答えた。
「八乙女 愁だ」
「ほう、変わった名だな。それに黒髪に黒い瞳とは、珍しい……まさか、どこぞの国の貴族か?」
「いや。ほんの少し金回りがいい、ただの旅人さ」
兵士は愁の顔を一瞥し、それから皮肉めいた笑みを浮かべた。
「なるほどな。なら、そっちの亜人の娘からは目を離すなよ。最近、奴隷をさらって売り飛ばす連中が跋扈していてな」
「忠告どうも。それで、入っても問題ないかな?」
「ああ、通ってよしだ。アークルトスへようこそ!」
門をくぐった先には、石とレンガで組まれた建物がずらりと並び、通りには整備された石畳が続いていた。
まだガラス窓の家は少ないが、見れば見るほど文明は進んでいると実感させられる。
街角にはテントを張った露天商が声を張り上げ、行き交う人々と活発なやり取りを交わしていた。
その光景は、まさしく“活気”という言葉そのものだった。
けれど、にぎわいの裏で、あの“笑顔の兵士”が語った現実──亜人が蔑まれ、搾取されるという事実があるのだと思うと、胸のどこかに冷たい鉛が沈む。
しばらく歩くと、町の中心に据えられた噴水広場に出た。
水のせせらぎが耳に心地よく、陽光を受けて水面がきらめくその場所では、人々が和やかに談笑していた。だが、そこに亜人の姿は一つもない。
「……賑やかな町なんだね」
リアが感心したように呟いた。
「そうですね。この町は、王国内でも比較的治安が良いことで知られているそうです」
隣を歩くリアを見やる。物静かで引っ込み思案な性格をしているが、その中に確かな知性と品位を感じる。
案内は的確で、言葉遣いも丁寧。学びの機会などなかったはずなのに、国の情勢や常識にも精通している。
そして何より──その容姿。愁の目から見ても、明らかに『とても整った美少女』だった。
(こんなに賢くて、心優しい子があんな扱いを受けていたなんて、どうかしてる)
胸の奥にわだかまる怒りを押し込め、ふと気になっていたことを訊ねた。
「ところで、リアは何歳なんだい?あと、こっちの“時間”の概念も知っておきたいんだけど。たとえば、一年は何日で、一日は何時間か、とか」
「わたしですか?わたしは、今年で十三歳ですよ。一年は三百六十五日で、一日は二十四時間です」
「……なるほど。そこは同じか」
時制の違いがないことに安堵しつつ、愁は改めてリアの年齢に驚く。
十三歳にしては、その身体はあまりに華奢だ。おそらく、これまでまともに栄養を摂れていなかったのだろう。
(成長期なんだから、これからはちゃんと食べさせてやらないとな)
そんな思いを込めて、愁はやさしく言った。
「リア。お腹が空いたら、遠慮せずに言うんだよ。これからは、たくさん食べて、たくさん元気になってね。いいかな?」
「……?わかりました。ありがとうございます」
リアの瞳に、驚きと戸惑いが一瞬浮かび──それは淡雪のように儚く消えると、代わりにそっと微笑が咲いた。
その笑顔は、春の陽光のように柔らかく、愁の胸を静かに温める。
ふたり並んで町を歩くうち、ところどころで目に入るのは、首輪を嵌められた亜人たちの姿。
鎖に繋がれ、痩せ細ったその身体は、日々の扱いの酷さを無言で語っていた。文句の一つも漏らさず、ただ淡々と働く姿が、逆に痛々しい。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(それにしても、この町には奇妙な視線が混じるな……)
刺すような悪意が時折背を撫でる。
それは兵士が言っていた『奴隷を盗んで売る輩』か、あるいはこの町の闇に巣食う別の何かか。ここまで大きな町だ。善人ばかりとは限らない。
人混みが増えてきたことに気づいた愁は、リアの方へ手を差し出す。
「リア、手を繋ごうか。人が多いからね、はぐれないようにしないと」
「え?わ、わかりました。……よろしくお願いします」
差し出された手と愁を交互に見比べたリアは、どこか戸惑いを滲ませながらも、おずおずとその手を取る。
小さく温かな手が、きゅっと控えめに握り返された。その瞬間、掌に伝わる鼓動のような温もりが、心の奥をくすぐる。
すぐにリアはそっぽを向いてしまったが、繋いだ手を離そうとしないあたり、決して嫌ではないのだろう。
そのまま町の探索は続いた。
路地裏の小さな商店から、広場に面した賑やかな屋台まで、食材や珍しい香辛料、武具や素材を取り扱う店が軒を連ねていた。
町を歩くたびに異なる匂いと音が交差し、活気に満ちたこの土地の文化と文明の一端が肌で感じられる。
やがて日が傾き、空は群青に染まり始める。暮れゆく陽光が建物の影を長く伸ばし、町全体に夜の帳が降りようとしていた。
「リア、大丈夫かい?疲れてないかな?今日はもう遅いから、どこか宿に泊まっていこうか」
隣を歩くリアの足取りは、最初と比べて明らかに緩やかになっていた。途中で何度か休憩は挟んだものの、病み上がりの身には少々酷だったかと、愁は内心で自責の念を抱く。
「すみません……少し疲れてしまいました。宿でしたら、広場の近くに亜人同伴でも泊まれる場所があったはずです。そこに向かいますか?」
よく観察していたものだと感心する。視野の広さと、記憶力の確かさ。それがリアの芯の強さを支えているのだろう。
「そうか。じゃあ、そこにしよう」
ふたりは来た道を辿り、やがて噴水のある広場に戻る。
周囲を見回すと、木造二階建ての建物に『亜人同伴可』と書かれた看板が掲げられているのが目に入った。
一階の扉の向こうからは、笑い声や食器のぶつかる音が漏れてきており、酒場か食堂を兼ねた宿屋らしい。
「下に飲み食いできる場所もあるなら、ちょうどいいね」
まだ少し怯えるリアの手を取って、愁は宿屋の扉を開けた。
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