第4話 あなたのためにできること
「はぁ……」
工房を出た瞬間、愁は深いため息をついた。
リルアの義足の件がうまくいかなかったのもそうだが、それ以上に胸を締めつけるのは、シャウラの態度と表情だった。陸傑死団の話をしたとき、彼女が見せた険しい顔と、最後に感じた孤独な背中。愁は、その姿が頭から離れず、何とも言えないもどかしさが胸に重くのしかかっていた。
「駄目だったね、愁くん……」
リリーニャが優しい声で励ます。落ち込む愁を見て、まるで小さい頃、病院で漓理が愁を支えてくれたときのようだ。彼女の穏やかで優しい表情に少し救われた気がして、愁の胸のつかえも少し軽くなる。
「うーん、エルンストさんに何があったんだろう……でも、今日はもう戻ろう。明日は皇帝陛下との話もあるしね」
ライトの私邸が今晩の宿泊先だ。
今はライトもリリーニャも愁の村にいるので、空き家となっているが、定期的に使用人が清掃に来ているため、中は整っているという。
工房からライトの私邸まで、歩いて三〇分ほどの道のりを、愁たちはゆっくりと歩き出す。
門を後にして少し歩いた頃、愁は背後から近づく足音に気づいた。振り向くと、一人の男性が小走りでこちらに向かってくるのが見える。
「おーい! 待ってくれ!」
大きな声で呼びかける男が、息を切らせて愁たちの目の前にたどり着く。彼は息を整えた後、愁に向かって声をかけた。
「いやー、引き止めて悪いね、お兄さん」
彼は赤茶色の髪に、煤で汚れた服を身にまとい、腰には金槌をぶら下げている。愁はすぐに彼が工房でシャウラと一緒にいた職人の一人だとすぐに気づいた。汗まみれで金槌を振るっていた姿を思い出す。
「どうしましたか?」
「いや、その……うちの工房長のこと、あんまり悪く思わないでほしいんだ」
男性は頭を掻きながら、どこか言いにくそうに口を開いた。不器用に微笑むその顔には、深い皺が刻まれている。
「お兄さんらのやり取り、ちょっと聞こえててさ。工房長はいつもああいう感じなんだけど、本当は優しい人なんだよ。まあ、俺らにも普段からあんな感じなんだけどな……でもな、いつも最後まで残って、俺らが終わらせられなかった仕事を片付けてくれたりしてさ。不器用なんだ、あの人は」
その言葉に、シャウラの姿が職人としての頑固さと重なった。
人族ばかりの環境で、自分だけが亜人族であることに引け目を感じているのかもしれないが、目の前のこの男性は、そんな風にシャウラを見ていないようだ。
「それでな、本題なんだけど……兵士から聞いた話があるんだ。うちの工房長、シャウラさんは陸傑死団に家族を皆殺しにされてるんだよ。皇帝陛下の部隊が駆けつけた時には、彼女だけが縛られて生き残ってたらしい」
「そんな……」
「まだ続きがあるんだ。死団のやつら、シャウラさんの目の前で家族を一人一人殺していったんだって。しかも、彼女を縛りつけたままでな……ひでぇ話だよ」
陸傑死団はラリアガルド帝国の裏社会を牛耳る闇組織で、残忍な人間が集まる場所だ。その構成員は帝国中に存在するが、知られざる多くの悲劇も、その影で起きているに違いない。
愁はやり場のない怒りと無力感に打ちひしがれながら、男の話を聞き続けた。
「……話してくれて、ありがとうございます。またエルンストさんに話しに行ってみます」
「おう、頼むよ。工房のみんなは工房長のこと尊敬してるし、心配もしてるんだけどさ、なかなか心を開いてくれなくてな。あんたみたいに、あんな態度されても一生懸命に話しかけてくれる人なら、きっと心を開いてくれるかもしれねぇ。それじゃ、よろしく頼んだよ!」
そう言って、男は去っていった。
愁は深く頭を下げて、男の後ろ姿を見送る。
彼の話を聞いた今、ますます諦める気にはなれなかった。それが自分のエゴだと分かっていても、シャウラをこのまま放っておくことは出来ない。彼女は過去の悲劇に囚われて、前を向けずにいる。周囲には心配してくれる仲間がいて、尊敬もされているのに、彼女は一人で塞ぎ込んでしまっている。それが愁には、どうしても寂しく、耐え難いものに思えた。
(今回の交渉が、少しでもシャウラの心を開かせるきっかけになれば……)
愁はそんな思いを胸に抱きながら、ふと、彼女が最後に見せた孤独な背中を思い出す。その背中が語るもの、それは決して気のせいではなかった。彼女が感じている孤独、そしてその深い痛みに気づいたからこそ、愁は今、それを放っておくことができなかった。
「どうするの、愁くん?」
ふと、リリーニャの声に現実へと引き戻される。考えに没頭していたせいか、彼女に急に話しかけられて少し驚いた。昔から、考え込みすぎる癖は漓理によく指摘されていたが、どうやらその悪癖はまだ直っていないらしい。少し複雑な気持ちが胸をよぎる。
「ふふ、愁くん、なんだかやる気満々って感じだね?」
リリーニャが少しからかうように微笑む。
「え?俺、なんか言ってた?」
焦って確認するが、どうやら言葉には出していなかったようだ。
「ううん、そうじゃないよ。ただ、顔に出てるだけ。愁くんって、何かやるって決めたとき、今みたいな顔してるんだから」
「……まじか、さすが漓理さん。俺のことなんでもお見通しだね?」
愁は照れ笑いを浮かべながら、昔からよく見られていたことを思い出す。
「ふふ、まあね、昔から良く見てたからね……」
リリーニャの声が少し柔らかくなり、その意味深な言葉に愁は首をかしげる。
「ん?何か言った?」
「べっつにーっ!」
リリーニャは急に愁の背中に回り込むと、軽く背を押してきた。恥ずかしそうに誤魔化すその様子に、彼女も思わず口を滑らせたことを後悔しているようだ。そんなリリーニャの姿を見て、愁は微笑みつつも、どこか温かい気持ちになる。
「なんでもないよ!ほらっ!早くお家に行こっ!」
リリーニャは、愁をさらにぐいぐい押しながら歩を進めさせる。その勢いに、リルアを抱いている愁はバランスを崩しそうになりながらも、彼女の気持ちを汲んで、笑顔を浮かべたまま歩き出した。
「はいはい、わかったよ。あ、そうだ、リルア?」
愁は腕の中で静かにしていたリルアを見下ろし、優しく声をかける。
「さっきのことは気にしなくていいからね。ちゃんと話して、分かってもらうから」
「え……う、うん……」
リルアはどこか不安げな表情で、愁の言葉に応えた。彼女にとって、シャウラとのあのやり取りは決して軽いものではなかっただろう。シャウラの拒絶、そしてその背後にある深い悲しみ──それらがリルアの心にも重くのしかかっているのだ。
愁はそんなリルアを少しでも元気づけようと、彼女の頭を撫でた。まるで小さな子猫が撫でられた時のように、リルアは目を閉じて、小さな声で「うー」と漏らす。
「だーいじょうぶだよ、リルア。君は気にしなくていいんだから」
愁の言葉に、リルアは少しだけ頷く。しかし、普段なら彼女は喜んで頭を撫でられるのに、今日はまだ元気が戻ってこない様子だ。
その後もリリーニャに案内されるまま、彼らは街中を歩き続け、やがて見覚えのある豪邸が見えてきた。ライトの私邸だ。思えばここで、まだ漓理ではなかった頃のリリーニャと仲良くなったのだ。あれからそんなに時は経ってないが、どこか懐かしさを感じてしまい、自然と頬が緩んでしまう。
「ねえ、愁くん、なんでにやにやしてるの?もしかして、いやらしいことでも考えてた?」
そんな愁の顔をリリーニャが、いたずらっぽく覗き込む。
「はっ!? いやいや、そんなこと考えてないよ!ただ、懐かしいなって思っただけ……」
「ふーん、そうなんだ?」
納得しきっていないような返事を返すリリーニャ。だが、スフィアほどしつこくは追及しないあたり、やっぱりリリーニャは優しいのだった。
門の前に到着すると、リリーニャが手をかざす。すると、ふわりと手のひらサイズの魔方陣が浮かび上がり、門が音もなく開いた。おそらくこれは魔法の鍵なのだろう。そんなお洒落な仕掛けに、愁は少し感心しながらも、リリーニャの後について屋敷に入る。中に入ると、魔力鉱石が感知して灯りが点く。自動で光るそのシステムにも、愁は密かに感動していた。
屋敷に入り、二階にある客室に入ると、大きな窓の下にあるベッドにリルアをそっと下ろす。柔らかい寝具は、彼女を包み込むように受け止めた。
「はい、到着!お風呂入りたかったら璃理にお願いしてね?眠たかったら明日の朝でもいいから、自分の好きなようにしていいよ」
愁は、今はリルアが一人になりたいだろうと感じ、そっと部屋を出ようとする。だが、その瞬間、彼の袖をリルアがそっと掴む。
「あのね……おにーちゃん?」
リルアの声は小さく、微かに震えていた。
「ん、どうしたの?」
愁は振り返り、優しく彼女の顔を覗き込む。
「工房のおねーちゃん……私と同じ、家族と会えなくて寂しいの。独りぼっちで……きっと、いっぱい泣いてるの……」
その瞬間、リルアの瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女の瞳には、自分と同じ痛みを抱えたシャウラの姿が映っている。家族を失い、孤独を感じながら、ひっそりと涙を流している──その情景が、リルアの心を強く打っていたのだ。
愁は、リルアの優しさと純粋さに胸を締めつけられる。リルアの心は他人の痛みに敏感で、誰かのために流す涙を惜しまない。しかし、だからこそシャウラの悲しみを深く感じ取り、まるで自分の痛みのように受け止めてしまっていた。家族を失った寂しさ──それはリルア自身も抱え続けている傷なのだ。
「そうだね、エルンストさんも色々と抱え込んでいるんだと思う。俺たちに何かできるか分からないけど、また話しに行ってみようね。きっと、分かってもらえるよ」
「うん……わかった……」
愁は、リルアの頭を軽く撫でながら優しく語りかける。だが、それ以上の言葉は出てこなかった。今は無理に言葉を重ねることよりも、リルアが自分の中でこの優しさと悲しみを整理する時間が必要だと、そう感じたのだ。
愁が部屋を出た後、リルアはしばらく天井を見上げていたが、やがて大きな窓から外の景色を見始める。遠くに見える帝都の街並みと、無数の星々が輝く夜空が広がっている。しかし、リルアの心はどこか落ち着かない。体は疲れているのに、眠れそうにない。そんな時、ふと彼女の目に異変が映り込んだ。
「……え?」
住宅街を横切る何人かの人影が、遠くの街路に見えたのだ。その先頭を走る一人に、リルアは見覚えがあった。今日会いに行った工房で工房長をしているシャウラだ。そして、彼女を追うようにして数人の男たちが後を追っている。その男たちは、手にナイフや剣を持っており、その顔は歪んだ悪意に満ちていた。リルアはその表情をよく知っていた――それは、楽しんで他人を不幸にする者の顔だった。何度も見てきた、卑劣な笑顔だ。
「……助けないと……っ!」
瞬間、リルアは魔眼──〈神法転眼〉を無意識に発動させていた。自らの魔力で空間を歪ませ、遠くの地点に転移する力だ。強制的に幾度となく使用させられてきたこの力を、彼女はもうある程度自在に操ることができるようになっていた。
シャウラの姿が見えた地点を目指し、リルアは転移を実行する。しかし、立つことのできない彼女は、転移先の地面に激しくうつ伏せに倒れ込んだ。
「い、痛い……」
顔から倒れ込んだリルアの目に涙が浮かぶ。それでも、ここで諦めてはいけないと彼女はすぐに立ち上がろうとする。シャウラを追わなければ──そうしなければ、あの悪意に満ちた男たちが彼女に追いついてしまう。リルアの心には、焦りが募る。シャウラの姿は既に遥か先に消えかかっていたが、道は一本道だ。まだ追いつける。リルアは自分にそう言い聞かせた。
リルアはいつもなら、このような状況では涙に打ちひしがれて立ち止まってしまうことが多かった。しかし、今は違った。自分と同じ孤独と苦しみを抱える誰かが、目の前で危機に瀕しているのだ。彼女を救いたい──その一心で、リルアの瞳には決意が宿っていた。
「待ってて……おねーちゃん……っ!」
リルアの瞳に刻まれた紋様が輝きを増し、彼女は再び転移の力を使う。歩けない自分の代わりに、何度も魔眼を酷使して前へと進む。連続した魔眼の使用により、リルアの瞳からは血の涙が流れ出し、頭の奥に鈍い痛みが響いてくる。しかし、それでも彼女は止まらなかった。
その背中を押していたのは、かつて自らが感じた恐怖と絶望、そして誰かに救われた時のあの温かさ──今度は自分が誰かを救いたいという、強い願いだった。シャウラのように、辛さに苛まれている者を見過ごすことは、リルアにはできなかったのだ。




