第2話 町に行ってみよう
翌朝──。
目蓋をうっすらと持ち上げた途端、窓から射し込んだ光が愁の網膜を鋭く刺激する。清らかに澄み渡った朝の空気のせいか、いつも以上に朝日が眩しく感じられ、思わず目を細めた。
その光は、まるで眠気を一掃するかのように愁の意識を現実へと引き戻す。
「夢じゃ……なかったか……」
低く漏れた言葉が、静かな部屋に淡く響く。
死を受け入れたはずの自分が、こうしてまた日常を歩んでいる──それは奇妙でありながら、決して悪い気分ではない。しかし、今の自分が何者で、どのような理に従ってここにいるのかは依然として不明だった。その“わからなさ”は、ほんのりとした安堵の奥に潜む、冷たい不安をじわりと心に滲ませる。
加えて、ここにはかつての仲間も、愛する家族の姿もない。その事実は、胸の奥に静かな喪失の余韻を残していた。
その気配を振り払うように、愁はベッドから身を起こし、足を床につける。裸足に触れた床の冷たさが、目覚めをさらに確かなものとする。
まずは洗顔だ。脱衣所に向かい、冷たい水で顔を洗えば、ようやく頭がすっきりとしてきた。濡れた指先が肌をなぞる感触に、ほんの少しだけ生の実感が宿る。
身支度を整えた愁は、そのまま食堂へと足を運ぶ。目的は朝食の準備──栄養失調気味のリアに、少しでも美味しいものを食べさせたいという、彼なりの使命感からだった。
食堂の調理場へと向かおうとしたその時、廊下の向こうから軽やかな足音が近づいてくる。やがてその音は食堂の前で止まり、控えめに扉が叩かれた。
「おはようございます!愁さま。入ってもよろしいですか?」
声の主は、昨日出会ったばかりの少女──リアだった。
「おはよう、リア。いいよ、入っておいで」
返事とともに、扉がゆっくりと開かれる。現れたのは、昨日贈った軍服風のワンピースに身を包んだリア。その姿はどこかぎこちなく、しかし確かに彼女に似合っていた。初めての服装に照れくさいのか、頬をわずかに桃色に染めている。
「着替えもバッチリだね。ゆっくり眠れたかい?」
「はいっ!あんな、ふかふかなベッドで寝れたんですから、疲れが取れなかったら申し訳ないくらいです!」
明るく弾むような声に、愁も自然と頬を緩める。
「それはよかった。少し待っててね、今朝ごはん用意するから」
彼は調理場に向かい、エンドレスボックスを開いて中の食材を確認する。
(たしか卵とベーコンがあったはず……)
探してみると、それどころか予想以上に多くの食材が見つかった。しかもありがたいことに、『WORLD CREATOR』時代と同様、箱の中の時間は完全に停止しているようで、すべての食品が『無限保存』という表記になっている。
(よし。この世界でもエンドレスボックスは健在、か)
安心した愁は、昨日使ったフライパンを取り出し、火の魔石で加熱する。ジュウッという小気味よい音が空気を震わせ、香ばしい香りが立ち上る。そこへ卵とベーコンを加え、塩と胡椒で味を調える。簡素ながら、朝にはぴったりの定番だ。
合わせて、昨日クラフト能力で作成した米粉パンも取り出し、皿にまとめる。調理を終えた彼は、その皿をそっとテーブルへと運び、目の前にリアの姿があることに気づく。
彼女はテーブルに並んだ料理に目を丸くし、今にも輝きそうな瞳で皿を見つめていた。まるで初めてファミレスに来た子どものように──好奇心と喜びがごちゃまぜになった表情だ。
「簡単なもので悪いけど、出来たよ。食べようか」
「わぁ……とっても美味しそうです。いただきます!」
リアは心から嬉しそうに、そして幸せそうに料理へと手を伸ばした。ほんのささやかな料理でも、彼女にとってはきっと特別なものなのだろう。その姿を見て、愁の中にも自然と温かいものが芽生える。
しばらく食事を共にしたあと、ふと愁が口を開く。
「ところでさ、町に行ってみようと思うんだけど、よかったら近くの町まで案内してくれないかな?この辺の地理がわからなくて」
リアは少し驚いたように目を見開いたあと、口元に手を添えて答えた。
「案内ですか?わたしでよければ……でも、わたしは亜人ですので、町の近くまでしかご案内できません。それでも、よろしいですか?」
愁はその言葉に、初めてリアを見かけた時の光景を思い出す。町の騎士たちが彼女に向けた敵意──『町に入ってきやがって』などという言葉の数々。この世界では、亜人というだけで町に入ることすら許されないのかもしれない。まるで人権という概念が根付いていない、暗い現実がそこにはあった。
だが、だからこそ、彼女を町の外に置いていくのはどうしても気が引けた。そんな無防備な姿で、また何かに巻き込まれでもしたら——次は助けられないかもしれない。
「よかったらだけど、俺と一緒に町の中まで来ないか?俺も話し相手がいないのは寂しいし、この辺のことも、まだ全然知らないからさ。もちろん、リアが嫌じゃなければの話だけど」
「えっ……一緒に……ですか?でも……わたしなんかと一緒にいたら、きっと愁さまにご迷惑をおかけしてしまいます……」
囁くような声。まるで風に掻き消されそうなほど頼りなく、言葉は胸の奥に沈んでいく。リアの瞳は揺れ、どこか怯えたように彷徨っていた。その姿は、光を避ける小動物のようにおどおどとして、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。
愁はその様子に思わず口元を綻ばせ──だが、同時に、胸の奥を締めつけるような痛みがじわりと滲んだ。
(なんで……こんな優しい子が、こんなにも自分を責める必要があるんだよ)
俯きがちに呟くリアの姿を見ていると、胸の奥で何かがきしむ音がした。痛々しいほどに自信を失っていて、自分の存在価値すら信じられない──彼女がどれほどの苦しみの中にいたか、愁は痛感する。きっと、言葉では言い尽くせないような仕打ちを受けてきたのだろう。ただ、亜人族という理由だけで。
「リア……そんなふうに自分を卑下するのは、もうやめよう。昨日も言ったよね?俺はリアが亜人だからって差別や区別なんてしないよ。もし誰かに酷いことをされそうになったら俺が、リアを守るから。だから心配しないで大丈夫だよ?」
その言葉は、静かに、しかし確かな熱をもって紡がれた。春の陽だまりのような声色だった。だが、リアはまだ顔を上げようとしなかった。
しばしの沈黙。だがその静寂の中で、愁は気づく──彼女の頬を伝って、ぽたり、ぽたりと、透明な雫が床に落ちていくのを。
「リア……?泣いてるの……?」
静かに尋ねたその瞬間、リアはようやく顔を上げた。銀色のまつげに縁どられた瞳は潤み、涙が光の粒となって零れ落ちる。震える唇を噛みしめ、ごしごしと袖で涙を拭いながら、か細い声で告げた。
「す、すみません……その……うれしくて。ずっとわたしなんか、生きてちゃいけないって思ってて……自分で、終わらせようとしたことも、ありました……でも、怖くて、何もできなくて……誰も、助けてくれなくて。でも、愁さまは、見ず知らずのわたしに……こんなにも、優しくしてくださって……守ってあげるって、言ってくださって……だから……」
彼女の嗚咽混じりの声は、これまでの孤独と絶望を絞り出すようだった。まるで張り詰めていた感情の糸が切れ、心の奥底に溜まっていたものが堰を切って溢れ出したかのように。
愁は、そんなリアの姿をじっと見つめる。幼いその背中に背負わせてしまった重荷の大きさに、胸がぎゅう、と締めつけられた。
(……守ってやりたい。リアには、涙なんか似合わないな)
そんな想いが、胸の奥からこみ上げてくる。それが自己満足だろうと、偽善だろうと、関係なかった。目の前で泣いている少女がいる。その手を、ただ握ってあげたくなるのは、自然な感情だった。
「……そうか。辛かったんだね。でも、もう大丈夫だよ。俺はリアを見捨てたりなんかしない。もし行くあてがないのなら、リアの心が落ち着くまで、ずっとそばにいてくれて構わないから」
そっと手を伸ばし、リアの頭を優しく撫でる。掌に感じる温もりは、彼女がこの過酷な世界で懸命に生き抜いてきた証だった。誰も、この子の自由や幸せを踏みにじっていいはずがない。
そして、愁の胸に、静かに──だが確かに、一つの決意が芽吹く。
(この世界は、間違ってる)
亜人というだけで、希望を奪われ、嘲られ、見捨てられる。そんな理不尽が、まかり通る世界。そんなものが“当たり前”であっていいはずがなかった。
このままではいけない。もし自分に“力”があるのなら──クラフトマスターとして、創造の力を持つ者であるのなら──
(だったら、創り直してやる。正しく、温かな世界に)
燃えるような衝動が胸に灯る。過去の罪も悲しみも、全てを包み込める世界を、自らの手で生み出してみせると。
「……よし。決めたよ、リア。俺はこの世界に“国”を作る。どんな種族だろうと関係ない、みんなが笑って暮らせる国を。それを……リアには、俺の隣で見ていてほしいんだ。もちろん、リアが良ければだけどね」
その言葉に、リアは涙を拭い、ふっと微笑んだ。陽の光が差し込むような、暖かくて柔らかな笑顔だった。
「……国、ですか?」
「おっと、今ちょっと笑ったろ?一応これでも、王様だったんだぞ?」
とびきり得意げな顔で言う愁に、リアはくすくすと笑った。『WORLD CREATOR』の仮想の王国の話ではあるが、その想いに嘘はなかった。
「ふふっ……そうですね。愁さまの作る国なら……きっと、優しい国になるんだと思います。そこに、わたしがいてもいいのなら……わたしは、愁さまの側にいたいです」
その言葉に、愁もまた柔らかく微笑む。泣き顔よりも、笑顔の方が何倍も美しい。自然と笑みが零れるような日々こそが、人として生きる本来の姿なのだと、あらためて思う。
「うん。人族も、亜人族も、魔族も、エルフ族も──関係ない。みんなが当たり前に幸せを分かち合える、そんな国を創ってみせる。だから……近くで見ていてくれないか?」
差し出された手を、リアは一瞬の迷いもなく握り返した。赤と青の色の瞳に迷いはなく、頬には太陽のような明るい笑顔が咲いている。
「──はい!お供させてください。これからも……よろしくお願いします、愁さま!」
その言葉は、まるで契約の誓いのように、澄みきった朝の空気に響いた。
こうして、これからの方針は定まった。目指すのは新たな国の創造だ。かつての仲間たちに胸を張って語れるような、夢と希望に満ちた国を築く。そしてこの世界の凝り固まった常識を覆すのだ。誰もが学び、働き、夢を見つけて追いかけ、自らの手で『自分だけの幸福』を掴み取れる、そんな輝ける世界を──
「よし、それじゃまずは町に向かおうか。色々と知るべきことがあるからね。準備は大丈夫かい?」
愁が、食後の一息を見計らいながらリアに問いかける。
「はい、大丈夫です。町までの道案内はお任せください」
二人が連れ立って家を出ると、目前に広がるのは、昨日の夕暮れとはまた違った趣を湛える森だった。朝の光に照らされ、木々の葉がきらめき、小鳥の囀りが風に乗って耳をくすぐる。冷たい空気が頬を撫でるものの、空には一片の雲もなく、陽が高くなればいくらか暖かくなるだろう。
町までは、下り道であれば歩いておよそ四時間とのことだ。これほど離れていれば、〈遠見〉のスキルで視界に捉えられなかったのも無理はない。
「そうだ。この国は、なんて名前なんだい?」
ふとした疑問を口にした愁に、リアはぴたりと足を止め、不思議そうに首を傾げた。
「え?国の名前……ですか?アイラフグリス王国ですよ?」
その反応はごく自然なものだった。国名すら知らぬ相手に対する困惑──否、警戒すら混じっていたかもしれない。無知を晒した愁は、内心で苦い思いを噛みしめる。
(しまった……そんな基本的なことすら知らないなんて、どう考えてもおかしいよな)
「ごめんね、実は……色々あって、このあたりの事情が何もわかっていないんだ」
愁の謝罪に、リアはすぐに笑みを浮かべ、柔らかく頷いた。
「そうだったのですね。では、私の知っている範囲でご説明いたします。アイラフグリス王国は、今年でちょうど建国千年を迎えるそうです。現在は、十四代目の国王さまが治めていらっしゃいます」
リアの口から語られるその言葉には、どこか歴史の重みが宿っていた。
このアイラフグリス王国は、長い歴史を有する大国である。その始まりは、千年前。神々と戦争を繰り広げた大悪魔が敗北し、亜人族を守る存在が姿を消したことから始まる。
その隙を突くように、初代国王アイラフグリス一世は亜人の地へと進軍した。文明の発展度に大きな差があったことに目をつけ、当時、技術・組織力において劣っていた亜人族を力で制圧することを決定。彼らの長寿と強靭な肉体を『労働力』として利用し、わずかな対価と引き換えに搾取を重ねた。
その結果、人族は急速に人口を増やし、亜人の大陸領土を掌握。知能と技術を武器に文明を飛躍的に発展させたのである。
(なるほど……“悪い意味で”歴史に名を刻んだ国、か)
愁は、静かに息を吐いた。
この王国の体制もまた、興味深いものだった。王位は世襲ではなく、現王が崩御すると、複数の大貴族の中から最も力ある者──政治力、人脈、軍事、智謀のすべてに優れた者が選ばれるのだという。その制度のおかげで、常に統治能力の高い国王が据えられ、王国は千年にわたり強大な勢力を維持してきたのだ。
「まったく……どの世界でも、似たような歴史が繰り返されるものだな」
愁の吐いた呟きは、風に乗って森の静けさの中へと溶けていった。
彼らがいる大森林は、ちょうど大陸の中央部に位置し、そのすぐ近くに隣接するアイラフグリス王国のほとんどの土地はかつて、亜人族が暮らしていた土地だった。しかし今では、大森林を除いてアイラフグリス王国の領土がほぼ全域を覆っている。
この王国は現在、人族が支配するティルマス大陸のおよそ三分の一を掌握する大国である。そして大森林を挟んだ向こう側には、十六の小国を従えるラリアガルド帝国があり、さらに、五つの国からなる連合国家──シィータビスク連合国が存在する。この三国が、今なお覇権を賭けて火花を散らし続けている。
なかでも、アイラフグリス王国はかつての亜人領を支配下に置いていることから、全亜人族のうち実に七割を統治下に置き、さらに三国の中でもっとも『差別意識』が根強く残る国家だとされている。
リアの口から語られるそんな重苦しい歴史に耳を傾けるうちに、時は知らぬ間に流れていた。やがて、森の木立が途切れ、視界が大きく開ける。
目前に現れたのは、町──アークルトス。
その町は王都へと続く幹道の中間地点にあり、旅人たちの中継地として発展してきたという。宿屋や飲み屋が建ち並び、補給物資を豊富に扱う交易の要所。旅人の往来が多く、自然と人の集まる町である。
城壁に囲まれた町の門前には、荷車を引く商人、旅装束の冒険者、子を抱いた家族連れ──立場も身なりも異なる人々がひしめき、喧噪と熱気が通りの空気を押し上げていた。遠目に眺めるだけでも、その活気はまるで昼の陽光のように明るく、目を惹いた。
(……なるほど、栄えているという噂は伊達じゃなさそうだ)
愁の胸に、ふわりと風船のように膨らむ小さな期待と、未知の地に足を踏み入れる旅人特有の昂ぶりが生まれる。
「亜人族は、無条件で入っちゃ駄目とか言わないよね?」
不安げな問いかけに、隣を歩く少女──リアが首を横に振って答えた。
「それは大丈夫です。愁さまの“奴隷”という建前があれば、愁さまの傍にいる分には問題ないはずです。ただ……」
「ただ?」
「愁さまがわたしにくださったお洋服が、あまりにも立派なので……きっと、愁さまは“もの好きな貴族”か“金持ちの道楽者”と勘違いされると思います」
深刻な問題でもあるかと思ったが、それほどでもなさそうだ。目立つ程度で済むなら、周囲の目など取るに足らぬ。大切なのは、リアを疎かにしないことだ。
「なるほど。それくらいなら別に問題ないかな。それじゃあ、行こうか」
門の前では、銀の鎧に身を包んだ騎士達が、手際よく検問をこなしていた。昨日、リアを虐げていた者たちと同じ制服姿が、愁の記憶に生々しく蘇る。
馬車の荷台を検められる者、書類のようなものを見せるだけで通される者──対応は千差万別だ。その中で、明らかに異質な視線を集めているのは、ほかでもない愁とリアの二人だった。
殊にリアは、その銀糸のような髪と紅玉のような瞳が人目を引き、行き交う者たちが遠慮もなく視線を注いでくる。彼女が“亜人”であることは、どうやらこの世界では常識のようだ。
(動物の耳も尻尾もないのに……どうしてリアは亜人族ってことになるんだ? それとも何か、俺が知らない違いがあるのか……)
答えの出ぬ疑問を胸に抱いたまま、門へと足を運ぶと、ひとりの兵士が近づいてきた。
「次──二人組か?ん?そっちは亜人か?それにしちゃ……妙に身なりがいいな。おい、男。名を名乗れ」
事務的な口調だが、警戒心を隠しきれていない。愁はわずかに息を整え、静かに答えた。
「八乙女 愁だ」
「ほう、変わった名だな。それに黒髪に黒い瞳とは、珍しい……まさか、どこぞの国の貴族か?」
「いや。ほんの少し金回りがいい、ただの旅人さ」
兵士は愁の顔を一瞥し、それから皮肉めいた笑みを浮かべた。
「なるほどな。なら、そっちの亜人の娘からは目を離すなよ。最近、奴隷をさらって売り飛ばす連中が跋扈していてな」
「忠告どうも。それで、入っても問題ないかな?」
「ああ、通ってよしだ。アークルトスへようこそ!」
門をくぐった先には、石とレンガで組まれた建物がずらりと並び、通りには整備された石畳が続いていた。まだガラス窓の家は少ないが、見れば見るほど文明は進んでいると実感させられる。
街角にはテントを張った露天商が声を張り上げ、行き交う人々と活発なやり取りを交わしていた。その光景は、まさしく“活気”という言葉そのものだった。けれど、にぎわいの裏で、あの“笑顔の兵士”が語った現実──亜人が蔑まれ、搾取されるという事実があるのだと思うと、胸のどこかに冷たい鉛が沈む。
しばらく歩くと、町の中心に据えられた噴水広場に出た。水のせせらぎが耳に心地よく、陽光を受けて水面がきらめくその場所では、人々が和やかに談笑していた。だが、そこに亜人の姿は一つもない。
「……賑やかな町なんだね」
リアが感心したように呟いた。
「そうですね。この町は、王国内でも比較的治安が良いことで知られているそうです」
隣を歩くリアを見やる。物静かで引っ込み思案な性格をしているが、その中に確かな知性と品位を感じる。案内は的確で、言葉遣いも丁寧。学びの機会などなかったはずなのに、国の情勢や常識にも精通している。そして何より──その容姿。愁の目から見ても、明らかに『とても整った美少女』だった。
(あんな扱いを受けていたなんて、どうかしてる)
胸の奥にわだかまる怒りを押し込め、ふと気になっていたことを訊ねた。
「ところで、リアは何歳なんだい?あと、こっちの“時間”の概念も知っておきたいんだけど。たとえば、一年は何日で、一日は何時間か、とか」
「わたしですか?わたしは、今年で十三歳ですよ。一年は三百六十五日で、一日は二十四時間です」
「……なるほど。そこは同じか」
時制の違いがないことに安堵しつつ、愁は改めてリアの年齢に驚く。十三歳にしては、その身体はあまりに華奢だ。おそらく、これまでまともに栄養を摂れていなかったのだろう。
(成長期なんだから、これからはちゃんと食べさせてやらないとな)
そんな思いを込めて、愁はやさしく言った。
「リア。お腹が空いたら、遠慮せずに言うんだよ。これからは、たくさん食べて、たくさん元気になってね。いいかな?」
「……?わかりました。ありがとうございます」
リアの瞳に、驚きと戸惑いが一瞬浮かび──それは淡雪のように儚く消えると、代わりにそっと微笑が咲いた。その笑顔は、春の陽光のように柔らかく、愁の胸を静かに温める。
ふたり並んで町を歩くうち、ところどころで目に入るのは、首輪を嵌められた亜人たちの姿。鎖に繋がれ、痩せ細ったその身体は、日々の扱いの酷さを無言で語っていた。文句の一つも漏らさず、ただ淡々と働く姿が、逆に痛々しい。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(それにしても、この町には奇妙な視線が混じるな……)
刺すような悪意が時折背を撫でる。それは兵士が言っていた『奴隷を盗んで売る輩』か、あるいはこの町の闇に巣食う別の何かか。ここまで大きな町だ。善人ばかりとは限らない。
人混みが増えてきたことに気づいた愁は、リアの方へ手を差し出す。
「リア、手を繋ごうか。人が多いからね、はぐれないようにしないと」
「え?わ、わかりました。……よろしくお願いします」
差し出された手と愁を交互に見比べたリアは、どこか戸惑いを滲ませながらも、おずおずとその手を取る。小さく温かな手が、きゅっと控えめに握り返された。その瞬間、掌に伝わる鼓動のような温もりが、心の奥をくすぐる。
すぐにリアはそっぽを向いてしまったが、繋いだ手を離そうとしないあたり、決して嫌ではないのだろう。
そのまま町の探索は続いた。路地裏の小さな商店から、広場に面した賑やかな屋台まで、食材や珍しい香辛料、武具や素材を取り扱う店が軒を連ねていた。町を歩くたびに異なる匂いと音が交差し、活気に満ちたこの土地の文化と文明の一端が肌で感じられる。
やがて日が傾き、空は群青に染まり始める。暮れゆく陽光が建物の影を長く伸ばし、町全体に夜の帳が降りようとしていた。
「リア、大丈夫かい?疲れてないかな?今日はもう遅いから、どこか宿に泊まっていこうか」
隣を歩くリアの足取りは、最初と比べて明らかに緩やかになっていた。途中で何度か休憩は挟んだものの、病み上がりの身には少々酷だったかと、愁は内心で自責の念を抱く。
「すみません……少し疲れてしまいました。宿でしたら、広場の近くに亜人同伴でも泊まれる場所があったはずです。そこに向かいますか?」
よく観察していたものだと感心する。視野の広さと、記憶力の確かさ。それがリアの芯の強さを支えているのだろう。
「そうか。じゃあ、そこにしよう」
ふたりは来た道を辿り、やがて噴水のある広場に戻る。周囲を見回すと、木造二階建ての建物に『亜人同伴可』と書かれた看板が掲げられているのが目に入った。一階の扉の向こうからは、笑い声や食器のぶつかる音が漏れてきており、酒場か食堂を兼ねた宿屋らしい。
「下に飲み食いできる場所もあるなら、ちょうどいいね」
扉を押し開けて中に入ると、そこは賑やかな喧噪の渦だった。粗野な風貌の男たちが酒を酌み交わし、怒鳴り声と笑い声が飛び交う。場末の酒場のような空気に、リアが少し身をすくめる。
「いらっしゃい、ふたりかい?食事?宿泊?」
料理と酒を載せたお盆を手にした年配の女性が、にこやかに声をかけてくる。どうやらこの宿の店主か、その家族らしい。
「はい、ふたりです。先に食事をいただきたいのと、一泊お願いしたいのですが、部屋は空いていますか?」
「あー、運がいいね。ちょうど一部屋だけ空いてるよ。どうする?」
「では、その部屋をお願いします。それと、この店のおすすめ料理をふたり分、頼めますか?」
愁の言った『ふたり分』という言葉に、近くの席の何人かがちらりとこちらを見たような気がした。だが、今さら気にしても仕方がない。
「ん?ふたり分かい?あんた、奴隷にも飯を食わせるのかい?変わった人だねぇ。ま、うちは金さえ払ってくれりゃ何でもいいよ。空いてる席に座って待ってておくれ」
「わかりました。よろしくお願いします。リア、行こうか」
ふたりは空いた席に腰を下ろし、しばしの静けさを楽しむ。やがて、先ほどの女性が料理を運んできた。
「はい、お待ちどうさま。うち自慢のきのこのグラタンと、鶏肉のスパイス焼き、ふたり分ね。宿代と合わせて、銀貨一枚と銅貨六枚になるよ」
町を散策中、素材を買い取ってくれる店で不要な鉱石や宝石を換金していたため、所持金には余裕があった。愁は懐から銀貨を取り出して渡す。
「毎度あり。部屋は二階のいちばん奥だよ。ゆっくりしてってね」
呼ばれたのか、女性は別の客のもとへ足早に去っていった。
「それじゃあ、リア。食べようか」
「はい、いただきます。愁さま」
湯気を立てるグラタンからは、香ばしい焦げ目のついたチーズの匂いと、茸の旨味が混じった芳醇な香りが漂ってくる。とろりとしたクリームの中には、複数の種類のキノコが惜しげもなく使われ、ひと口ごとに異なる食感と風味が舌を楽しませる。
一方、鶏肉のスパイス焼きは見た目こそ素朴だが、皮は香ばしくパリパリに焼き上げられ、肉はしっとりと柔らかい。舌の奥にピリッと残るスパイスの刺激が心地よく、食欲をかき立てる。
旅の疲れと冷え切った身体を癒すには、これ以上ないほどの温もりと滋味がそこにあった。香ばしい湯気が鼻腔をくすぐり、ほんのりと甘みのあるスープが舌の上でとろけていく。
湯気越しに見えたリアの頬は紅潮し、小さく微笑みながら口いっぱいに料理を頬張るその姿は、まるで幼子のように愛らしかった。彼女の満ち足りた表情を見て、愁も胸を撫で下ろす。
食後、しばしの休息を取ろうと二階の部屋へ向かおうとしたその時──
バンッ!
乾いた衝撃音と共に、宿の扉が乱暴に開かれた。冷たい風が一瞬、店内の温もりを断ち切るように吹き込む。その隙間から、荒々しい足取りで現れたのは、鎧に身を包んだ一人の兵士だった。息を切らし、額には汗が滲み、瞳には切迫した色が宿っている。
「すまない、いきなりで……この中に、冒険者はいるか!?」
店内に響くその叫びに、ざわめきが走った。騎士然とした姿にもかかわらず、男の顔には明らかな焦燥が刻まれている。やがて、奥の席から粗野な雰囲気を纏った男たちが数名、面倒そうに手を挙げた。
「冒険者っちゃあ一応そうだが、なんだって兵士がこんな場所に駆け込んでくるんだ?」
兵士は一つ大きく息を吸い込み、震える声で状況を説明し始めた。
「この町に……魔獣の群れが迫ってきている!兵士だけでは到底防ぎきれない数だ!どうか、力を貸してほしい……!討伐報酬は国から支給される!」
「ふん、報酬があるってなら悪くねぇが……敵の数は?到着まで、どのくらい猶予がある?」
返ってきた問いに、兵士は一瞬言葉を詰まらせ、苦しげに続けた。
「数は……およそ二百五十。到着までは一時間ほどの見込みだ。だが……奴らは腹を空かせている。だから、エサを……中間地点に置いてきた。それで三十分ほどは引き延ばせるはずだ……その間に準備を整えなければ、この町は……!」
沈痛な声に、店内の空気が一気に重たくなる。ざわつき、次第に怯えと怒りが入り混じった声が飛び交う。
「二百五十の群れだって!?冗談じゃない、そりゃ勇者でも呼ばなきゃどうにもならんだろ……!」
あちこちで椅子を引く音、食器がカチャリと揺れる音がする中、愁の隣にいつの間にか立っていた宿屋の女性が、ぽつりと呟いた。
「……いくら奴隷だからって、あれはあんまりだよ……」
「ん?どういう意味ですか?」
愁が顔を向けると、彼女は周囲を気にしながら、さらに距離を詰めて小声で答えた。
「さっき兵士が言ってた“エサ”って……亜人のことだよ。奴らを囮にして、魔獣の到着を遅らせてるのさ。……ひどい話だけど、ここではそれが“普通”なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、愁は胸の奥が冷たく凍りつくのを感じた。
(……これが、この国の現実か)
心の中で何度も理性が言葉を探したが、どれも虚しく宙に消える。怒りとも悲しみともつかない感情が胸を支配し、ただ一つ、確かな思いだけが残った。
(助けなければ──)
「リア、部屋に行こう」
「……はい、愁さま」
静まり返った廊下を足音も立てずに歩き、木製の扉をそっと押し開ける。室内には淡いランプの明かりが揺れ、その光の中でリアが顔を上げた。その瞳は心配そうに揺れていながらも、どこかで覚悟を決めたような、静かな諦念を湛えていた。
「……あの、お気になさらないでください。亜人に対する扱いは、いつもあんな感じなんです」
その声は穏やかで、けれど微かに震えていた。胸に秘めた悲しみを、悟られぬように包み隠すように。
愁は静かに首を横に振る。その仕草には、確かな怒りと、揺るがぬ決意が滲んでいた。
「いや……だからって、許してはいけないことだよ。俺は、囮にされた亜人たちを助けに行く。リアは、ここで待っていてくれるかな」
だが──
「お一人で行かれるつもりですか!?……そんなの、だめです!愁さまに何かあったら、わたし……!」
リアの叫びは悲鳴に近かった。震える手が愁の袖を掴む。か細いその指先に込められた力は、驚くほど強かった。それはまるで、離れれば二度と会えないと悟っているかのような、必死の祈り。
愁はその手に、自らの手を重ねる。温もりを伝えるように、優しく包み込むように。
「大丈夫だよ。俺は、そう簡単にやられたりしないから」
安心させようと微笑んでみせる。だが──
「それでもですっ……!わたしは、愁さまから……離れたくありません……!」
その一言に、愁は息を呑んだ。
常に控えめで、物静かだったリアが……こんなにも、感情をあらわにして。涙を湛えた瞳の奥に、燃えるような意思が灯っている。彼女は今、確かに『戦っていた』。臆病な自分と、無力さと、不安と──
愁は静かに目を閉じ、そして小さく頷いた。
「……わかった。一緒に行こう。俺が、ちゃんと守るから。だから安心して」
「……はいっ。すみません、わがままを言ってしまって……」
「いいんだ。これからも、思ったことはちゃんと話してほしい。……でも今は、時間がない。行こう」
言葉と共に、愁は素早く手を動かす。掌に魔力を込め、〈飛行〉の魔法を宿した魔石を生成。それを指輪へと嵌め込むと、リアの身体をそっと両腕に抱き上げた。
「わっ!? あの、これは……?」
「これから窓から飛んで向かう。しっかり掴まってて」
「と、とぶ……!?」
驚きの声を背に、愁は大きく窓を開け放った。ひやりとした夜の風が流れ込み、二人の頬を撫でる。そして、ためらいなく──愁は宙へと跳んだ。
風が一気に身体を包み込む。耳元で風が唸り、リアの小さな悲鳴が夜気に溶けて消えた。急上昇しながら高度を稼ぎ、愁は冷静に周囲を見渡す。眼下には、静まり返った町並みが広がり、遠くの街灯が星のように瞬いている。そして、見上げれば無数の星々が夜空を埋め尽くし、まるで空そのものが宝石箱のようだった。
「わあ……!すごい……!愁さまって、魔法使いだったのですね……!」
リアの瞳が星の光を映し、歓声と共にきらめいた。彼女の銀色の髪が夜風に揺れ、まるで宙に溶け込んでいくようにふわりと舞った。
「魔法使いってほどじゃないよ。でも……飛ぶくらいはね。よし、それじゃあ急いで向かうよ。しっかり掴まっててね」
「はいっ!」
その返事に、力強さが宿っていた。
愁は集中し、〈気配探知〉のスキルを展開。南の方角──無数の魔獣の気配。数にして、二百五十九。そのすぐ手前には、十三の小さな命が微かに灯っていた。亜人たちだ。まだ、生きている。
(間に合う……!)
彼らを救うために。理不尽を打ち砕き、『誰もが平等に笑える世界』を築くために。愁は抱きしめた想いとともに、闇の空を裂いて駆ける。




