第10話 誕生日にふたりきり
今日は、澄みきった空気が世界を包み込み、視界も良好であった。遥か空の彼方から見下ろす大地は、まるで絵画のように美しく、思わず時間を忘れてしまうほどだ。陽光を受けて輝く湖、風にそよぐ森、連なる山脈が青い影を落とし、壮大な景色を織り成している。
もしこれが春ならば、木々は芽吹き、草原には色とりどりの花々が咲き誇っていたことだろう。その光景を想像すると、少しばかりの物足りなさを感じなくもない。しかし、それは贅沢というものだ。今この瞬間も、文明の発達した地球では決して見ることのできない本当の意味での大自然が広がっているのだから。
愁とリアは、そんな美しい空の下、王都を目指し飛行を続けていた。
最初は愁がリアを抱えて飛んでいたのだが、途中でリアが自分の力で飛んでみたいと言い出した。安全のために手を繋いだまま飛行をアシストしていたが、彼女はすぐに慣れ、今では自力で安定した飛行ができるようになっている。その成長は目を見張るものがあった。
最初こそ怖がっていたものの、今やすっかり楽しんでいるようで、風を切りながら笑顔を見せる。
「愁さま! お空を飛ぶのって、とっても楽しいですね!」
「そうだね。俺も最初は楽しくて仕方なくて、毎日飛んでばかりいたよ」
「えへへ、なんだか想像できません」
実際、『WORLD CREATOR』で空を飛ぶことは簡単ではなかった。愁も初めて飛んだときは何度も練習し、三日かけてようやくまともに飛べるようになった過去がある。それでも習得は早い方であったのだが、そんな愁と比べても、リアの習得速度は異常だった。わずか一時間で手を離しても安定飛行ができるようになってしまったのだから。
「まあ、楽しんでもらえてよかったよ。また飛びたくなったら言ってね。いつでも付き合うからさ」
「はい! またお空の散歩に連れて行ってくださいね!」
彼女の笑顔は、陽光に負けないほど輝いていた。
しばらく進むと、遠方に巨大な城塞都市が見えてきた。広大な敷地に立ち並ぶ建物の群れ。その中心にそびえ立つのは、堂々たる王城。白亜の城壁に守られたその姿は、まさに王国の象徴と言うべき威厳を放っている。
「すごい……」
リアが感嘆の声を漏らす。
アイラフグリス王国の王都オルグリオ──アークルトスの町の何十倍もの規模を誇る大都市。その中心にある王城は、装飾のひとつひとつにまで精緻な技巧が施されており、まるで芸術品のようだった。
「はぁ、立派な城だな……俺も早く城が作りたい……」
「ふふ、お城ですか?でも、愁さまが作る建物は、どれもおしゃれで使いやすいですから、お城もきっと素晴らしいものになるのでしょうね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。リアには、俺が城を作るとき、一番に見せてあげるからね」
「本当ですか!? すごく嬉しいです! えへへ、楽しみが増えちゃいました!」
──楽しみが増えた。
普段ならば何気ない一言。しかし、リアがそう言うと、愁には少し違った意味を持つように思えた。知る限り、彼女は辛い過去を生きてきたはず。それでも下を向かず、今を大切にし、未来を楽しみにしている。その姿に、愁は強く願わずにはいられなかった。
(もっともっと、笑顔にしてあげたいな……)
リアの幸せそうな笑顔を見ていると、ただそれだけを願ってしまう。
そんな彼女が、ふと愁の姿を見て首を傾げた。
「おしゃれといえば、愁さまの服も素敵ですよね! あまり見たことのないデザインですけど、どんなものなのですか?」
「お! そうか、気になるか。これはね、『スーツ』という服なんだ」
「すーつ?」
「そう、スーツ」
『WORLD CREATOR』でも、このファンタジー世界においても、黒のスーツに赤のネクタイという出で立ちは異質と言える。しかし、そのギャップこそが愁のこだわりだった。黒のロングコートを羽織れば、さらに異世界感が増すが、それがまたいい。加えて、彼が持つ漆黒の日本刀『宵闇』とも実に相性が良かった。
「本来は、大人が働くときに着るものなんだけどね。俺は単純にこの格好が好きで着ているだけだけどね」
それは幼い頃、いつもスーツを着こなしていた父の姿を見て育った影響でもある。愁にとってスーツや軍服には特別な魅力があったのだった。
「なんだか、スーツの話をしている愁さまはとっても楽しそうです! すごく似合っていますし、本当に素敵です!」
「そ、そうかな……? なんかそこまで素直に褒められると照れるな……」
リアの無邪気な笑顔に、愁は思わず目を逸らす。そして、ふと思いつきで口を開いた。
「そうだ! 今度リアにもスーツを作ってあげるよ。女性用もあるしね」
「本当ですか!? やったっ! また楽しみが増えちゃいました!」
彼の何気ない提案に、リアは心から嬉しそうに笑う。まるで太陽のように、眩しく、温かく──愁の心を、そっと温める笑顔だった。
◆◇◆◇◆◇
空の旅ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。紺碧の大空を切り裂くように飛ぶ二人の眼下には、雄大な王都の姿が広がり始めていた。高くそびえる城壁、その内側には無数の屋根が折り重なり、金色の屋根や石畳が陽光を反射して輝いている。
「よし、それじゃあ王都に向かうか。歩きになるけど大丈夫?」
「はい!大丈夫です!行きましょう!」
リアの声には弾むような期待が込められていた。彼女の白銀の髪が風に揺れ、紅と蒼の異なる瞳がきらきらと輝いている。
二人は王都のすぐ近くの林の中に降り立つと、そこから歩いて門へ向かうことにした。やがて見えてきた王都の城門は圧倒的な威圧感を放ち、厚い鉄扉の前では多くの人々が検問を受けていた。
愁はふと、リアを横目で見やる。いつもなら亜人族というだけで向けられる冷たい視線──そのことが彼女を傷つけていないかと、心のどこかで気にしていた。しかし、今回は〈認識阻害〉の魔法の効果がまだ続いていたせいか、兵士たちは彼らに一瞥もくれず、何の問題もなく通過できた。
(……何も言われないのは助かるけど)
リアの無邪気な笑顔を見て、愁はそっと肩の力を抜く。彼女はそんな周囲の事情など気にも留めず、まるで光そのもののように、純粋な喜びで満ちていた。
「すごい……!」
王都の門をくぐった瞬間、リアは息を呑んだ。
広がるのは、これまで見たことのない光景だった。石畳の大通りがまっすぐに伸び、その両脇には色とりどりの建物が立ち並ぶ。魔力鉱石を用いた街灯が整然と設置され、夜になっても明るさを保つ仕組みになっている。道ゆく人々は華やかな衣服を身にまとい、そこかしこで楽しげな会話や笑い声が響いていた。
「わぁ!すごいですね、愁さまっ!見たこともないものがたくさん売っていますっ!」
「そうだね。何か見たいものはあるかい?」
「えっと、ぜ、全部ですかね?」
「お、いいね!全部行っちゃうか!」
「え、本当ですか?……やった!」
リアは頬を紅潮させ、小さく跳ねるように足を弾ませた。その様子に、愁も思わず微笑む。彼女の嬉しそうな姿を見ていると、自然と肩の力が抜けていく。
そうして、二人は街のあちこちを巡った。王都の賑やかな市場には、異国の果物や豪華な刺繍の布、煌びやかな細工のアクセサリーが所狭しと並んでいる。どの店も魅力的で、リアは目を輝かせながら店先を覗き込んでは、歓声を上げた。
やがて、ある店の前でリアの足が止まる。そこは高級な髪飾りや装飾品を取り扱う店だった。
「……すごく綺麗ですね」
リアの視線は、一つの髪飾りに吸い寄せられていた。繊細な銀細工が施され、小さな宝石が月の雫のように輝いている。
「リア?もう少しこのお店を見ていかない?」
愁の声に、リアは驚いたように振り返る。
「え?は、はい。わかりました!」
きょとんとしながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべるリア。そんな彼女の手をそっと引き、愁は店の奥へと向かった。
「あのっ……愁さま?さすがにこんな高価なものばかりのお店に、亜人のわたしが長居するのはちょっと……」
「ん? 大丈夫大丈夫! 気にしなくていいよ」
「で、でも……」
リアは足を止め、戸惑いがちに俯いた。視線の先には、ガラスのケースの中で美しく輝く髪飾りが並んでいる。銀細工に宝石が嵌め込まれたそれらは、どれも洗練された気品を纏っていた。
(……わたしなんかが、こんなに綺麗なものが売っているお店の中にいていいのかな……?)
リアの胸に、遠慮と躊躇が入り混じる。しかし、そんな彼女の横で、愁はふっと微笑んだ。
「これかな? さっきリアが見ていた髪飾り」
「え? えと、はい……これです。すごく綺麗だなって思って……」
リアは恥ずかしそうに目を伏せる。その仕草に、愁の目が優しく細められた。
(……こんなに嬉しそうな顔をするなら、買ってあげたくなるよな)
愁は静かに手を伸ばし、髪飾りを手に取る。そして、近くにいた店員を呼びつけると、迷いなく告げた。
「すいません! これが欲しいんですけど!」
「はーい。今行きますね~」
「えっ!? 愁さま! そんな高価なものはいただけませんよ!」
リアは慌てて首を振った。値札に記された『金貨五枚』の文字が、彼女の脳裏に焼きついている。この国では、それなりに稼ぐ者の『二ヶ月分』に相当する金額だった。
王都に生きる人々の中には、金貨を一枚も手にすることなく生涯を終える者もいる。それほどの価値を持つ髪飾りを、ぽんと買おうとする愁の行動が信じられなかった。
「大丈夫大丈夫! きっと似合うと思うよ?」
「で、でも……金貨ご、五枚ですよ……?」
戸惑うリアの表情を見て、愁は微笑を深める。驚き、頬を赤らめながらも、どこか期待を滲ませた彼女の姿が微笑ましかった。
「リア? 今日は一日、遠慮しないでほしいんだ。せっかく王都まで来たんだし、それに……明日は誕生日なんだから。これはそのプレゼントだよ」
「……!」
リアの瞳が大きく揺れる。
誕生日。そんなふうに祝われるのは、いつ以来だっただろう。記憶をたどるように視線を落としたリアの心に、じんわりと温かなものが広がっていく。
「……本当にいいんでしょうか……? わたしなんかが、こんな綺麗な髪飾りなんて……」
リアは自分に自信がなかった。生まれついての境遇が、そうさせたのだ。だが、愁はそんなリアの不安を包み込むように言った。
「『わたしなんか』なんて言わないで。リアはとっても可愛いから、大丈夫だよ?」
「か、かわいい……ですか……?」
耳まで赤く染めたリアが、困惑したように視線を揺らす。そんな彼女を見て、愁もまた、自分の言葉に照れくさくなった。
慌てるように店員に金貨を手渡し、髪飾りを購入する。
リアの手に渡ったそれは、銀の装飾に深い青の宝石が嵌め込まれたバレッタ。まるで彼女の碧い瞳を映したかのように、美しく澄んだ輝きを放っていた。
「ほら、こっちにおいで。ついでに髪も結んでもいいかな?」
「あ、はいっ……その、よ、よろしくお願いします……」
リアは少し緊張した様子で頷いた。
愁は手慣れた仕草で彼女の髪を梳かし、高めのサイドテールにまとめる。銀色の髪が陽光を受けてさらさらと輝き、バレッタを添えることで、さらに洗練された美しさが引き立った。
「よし、できた! ほら、見てごらん。すごく可愛いよ」
リアを店内の鏡の前へと導く。
鏡の中に映るのは、見慣れない髪型の自分。けれど、そこにいる少女は、驚くほどに華やかで、可憐だった。
「えへへ……なんか、自分じゃないみたいです……」
リアは頬を緩ませ、指先でそっとバレッタをなぞる。
「本当にありがとうございます。とっても嬉しいです……大切に、本当に大切にしますね」
その瞳には、心からの喜びが宿っていた。
そんなリアの笑顔を見て、愁もまた、満足そうに微笑む。
「うん。そうしてくれると嬉しいな。よし、それじゃあ、他のところも見に行こうか」
「はいっ! 愁さまっ!」
リアの弾んだ声が、王都の賑わいに溶け込んでいった。彼女は小さく跳ねるように歩き出し、きらきらと目を輝かせながら次の店へと向かう。
この日の思い出が、彼女の心にあたたかな光となって残りますように──そう願いながら、愁はリアの後を追った。
◆◇◆◇◆◇
王都の石畳を踏みしめながら、リアと愁は街の賑わいを楽しんでいた。色とりどりの店が立ち並び、香ばしい焼き菓子の匂い、スパイスの効いた料理の香りが風に乗って漂ってくる。
時間が経つのも忘れ、二人でさまざまな店を覗いていると、気がつけば昼を回っていた。
「そろそろお昼にしようか?」
「はい! わたしもお腹空いちゃいました!」
リアが笑顔で応じる。ちょうど何を食べるか考えようとしたその時、少し離れた場所から元気な声が響いた。
「あれー? リアだ! 久しぶりー!」
その声の主は、小走りで駆け寄ってくる栗色の髪の少女——ユアだった。彼女は白い騎士服を纏っていたが、女性用なのかスカート仕様になっている。無邪気な笑みを浮かべながら、リアの元へと駆け寄る。
「あっ! ユア! 久しぶり! こんなところで会えるなんて! この前は本当にありがとうね!」
「ううん、大丈夫だよ!」
リアはぱっと表情を輝かせ、ユアと向かい合った。再会の喜びが全身から溢れ、自然と二人の距離が縮まる。
そんなリアの様子を微笑ましく見つめていた愁に、ユアが気づく。
「あ、えっと、初めまして? ですよね! リアのご主人さまですか?」
明るく尋ねるユアに、愁は苦笑しつつ自己紹介をする。
「初めまして。俺は八乙女 愁って言います。よろしくね。この前のことは俺からもお礼を言わせてもらうよ。本当にありがとう。おかげで無事にリアに会うことができた。ユアちゃんのお師匠様にもよろしく伝えておいてね」
「はい! お仕事から帰ってきたら伝えておきます!」
礼を交わすと、リアとユアはすぐに楽しげに会話を弾ませた。互いに声を弾ませ、時折笑い合いながら、まるで姉妹のように寄り添って話している。
そんな二人の様子を眺めながら、愁はふとある考えを思いつき、提案する。
「そうだ。ユアちゃん、これから少し時間あるかな? 今、二人でお昼を食べようとしてたんだけど、一緒にどうかな? この前のお礼も兼ねてご馳走するからさ」
「そんな! いいんですか?」
「ああ、リアもその方が喜ぶからね」
リアが嬉しそうにユアを見つめると、ユアも「じゃあ、お言葉に甘えます!」と満面の笑みを浮かべた。
店の選定は王都に詳しいユアに任せることになり、彼女の案内で目的地へと向かう。道中、ユアは自然とリアの手を取り、二人は寄り添うように歩き出す。その姿は、まるで長い間離れ離れになっていた姉妹が、再び手を取り合ったかのようだった。
やがてたどり着いたのは、王都でも評判の高い飲食店だった。値段も手頃でありながら、味の評価が非常に高いという。昼時のためか店内は賑わっていたが、幸いにも空いている席を見つけ、三人はそこに腰を下ろした。
王都は海が近く、新鮮な魚介類が手に入るため、この店でも海鮮をふんだんに使った料理が楽しめるらしい。愁はメニューを眺めながら、久しぶりに魚介料理が食べられることに密かに期待を膨らませる。
そんな和やかな時間の中、突然、場の空気を壊すような怒声が響いた。
「おい! なんでここに薄汚い亜人なんかがいるんだ! せっかくの酒が不味くなるじゃないか!」
振り向くと、身なりの良い貴族らしき男が三人、酔いでふらつきながらこちらへ近づいてきていた。男はテーブルを拳で叩きつけ、さらに罵声を浴びせる。
「今すぐに出ていけ! 私は男爵位を持つ貴族ファブレス家の長男なんだ。亜人なんて殺したところで、どうとでも処理できるんだぞ!」
その言葉と共に、男は腰の剣を抜き放ち、リアに向かって斬りかかった。
愁は即座に動こうとするが、それよりも速くユアの剣が、貴族の男の剣を受け止めていた。
ピンク色の光が剣の形を象る、ユアの魔剣。彼女の目は鋭く光り、怒りの炎を宿していた。
「いきなり何をするんだお前は! 私の友達に手を出そうとするなんて!」
ユアが食って掛かると、護衛らしき男たちも腰の剣を抜き放った。しかし、次の瞬間——気づけば、護衛の男二人は地面に倒れていた。
愁ですら目を見張るほどの速さだった。ユアは一瞬で二人を気絶させ、さらに貴族の男の首筋へと剣を添えている。
「私をどうするって? お前じゃ私は殺せないぞ!」
貴族の男は青ざめ、震えながら喚く。
「くそ!なんなんだ貴様は!こんなことしてただで済むと思うなよ!」
貴族の男が唾を飛ばしながら叫ぶ。しかし、ユアは動じることなく、ゆっくりと胸元に手をやると、一つのネックレスを取り出した。
それは王家の紋章が刻まれた、勇者の弟子や従者にのみ授けられる、身分を示す証。
「そ、それは王家のネックレスだとっ!?」
男の顔色が一瞬で変わった。額に滲む汗、泳ぐ目――彼の動揺が手に取るように分かる。
「くそ!今日はこのぐらいにしてやる!おい!帰るぞ!」
倒れた護衛を無理やり引き起こし、男は足早に店を後にした。
ざわめいていた店内に静寂が戻る。
ユアは肩をすくめ、リアの方を向いて微笑んだ。
「まったく、貴族って面倒くさいね」
リアはふっと笑い、ユアの手をそっと握る。
「……ありがとう、ユア」
その言葉にユアの目が優しく細められ、ぎゅっと、リアの手を握り返す。
「当たり前でしょ? だって、リアは私の大切な友達なんだから!」
その言葉がリアの胸に深く染み渡った。驚きよりも、嬉しさの方がずっと大きい。心の奥にじんわりと温かさが広がり、まるで春の日差しに包まれたようだった。
リアはユアの顔をじっと見つめる。まっすぐな瞳には迷いの影などなく、ただ純粋な想いだけが宿っている。
この瞬間、二人の絆はさらに深まった。
「それにしても、まったくふざけたやつらだよね!」
ユアは腕を組みながら、先ほどの出来事を思い出すように顔をしかめた。その仕草はどこか子どもっぽく、それでいて頼もしさを感じさせる。
「うん。すごくびっくりした……」
リアは静かに頷きながら、胸の鼓動を落ち着かせる。あの時、ユアは何の躊躇もなく貴族の傍若無人な振る舞いに立ち向かった。その勇気は、ただの向こう見ずな行動ではない。しっかりとした『実力』があるからこそできるものだ。
そして何よりも、ユアは心からリアのことを大切に思ってくれている。一連のやり取りを見ていた愁は、それが一番嬉しかった。
さらに言えば、ユアの剣技は目を見張るものがある。不意を突かれれば、並の剣士では到底対応できないだろう。その速度は、まだ幼いとは思えないほどの精度を誇っていた。
「凄い剣技だね、ユアちゃん。特に護衛の二人を倒した時、剣の腹で的確に顎を打ったのは見事だったよ。普通、あんな正確に制御できるものじゃないからね」
「え?愁さん、今の見えてたんですか?」
驚きに目を丸くするユア。その瞳が、興味と尊敬の色を帯びて輝いた。
「ああ。俺も剣を嗜んでいてね。俺に剣を教えてくれた人がすごく速かったから、見切るのには慣れてるんだ」
「そうなんですか!あの速度を見切れる人なんて滅多にいないので、ちょっとびっくりしちゃいました!」
ユアの栗色の瞳が輝き、口元に嬉しそうな笑みが浮かぶ。その姿はまるで陽だまりの中で戯れる子猫のように無邪気で愛らしい。
「ははは、それじゃあ、気を取り直して料理を頼もうか。お腹減ったし、二人とも好きなもの頼んでいいよ」
さっきまでの緊張感が嘘のように、場の空気が和らいだ。どこか張り詰めていた空気がほぐれ、心地よい食事の時間が始まろうとしていた。
しばらくして、テーブルに運ばれてきた料理はどれも芳ばしい香りを漂わせていた。
愁の注文したのは、バターを乗せた白身魚に香辛料と塩をまぶし、蒸し焼きにしたもの。リアは魚の唐揚げにポタージュと焼きたてのパン。ユアは具沢山の魚介スープとシンプルな焼き魚。湯気が立ち昇る料理の香りが鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。
「それじゃあ、いただこうか」
二人が顔を見合わせ、声を揃えて元気よく言う。
「いただきます!」
スプーンを手に取り、口に運ぶたびに、幸せが広がっていく。
「リア!この焼き魚すっごく美味しいよ!食べてみて!」
ユアが焼き魚をフォークで取り、リアの前へ。
「はい!あーん!」
「え?うん!あーん……ん!」
じゅわっと口の中で広がる旨み。リアの頬が自然とほころぶ。
「えへへ、美味しいでしょ?」
「うん!」
次はリアがユアへ自分のスープをすくい、差し出す。
「お返しに、これもどうぞ。あーん」
「あむっ!んんっ、美味しい!」
屈託のない笑顔を交わす二人。その姿はまるで、長年連れ添った姉妹のようで──微笑ましかった。
そんな二人を前にしながら、愁は心の中でやや邪な思いを抱いていた。
(これが百合か……)
その後も、二人はまるで時間を忘れたかのように楽しそうに語り合い、笑い合った。しかし、時計の針は無情にも進む。
「あ!もうこんな時間だ!戻ってお家の片付けしないと、お師匠さまに怒られる……」
ユアが焦った様子を見せる。まだ遊び足りないのだろう。そんなユアに、リアは優しく微笑んで言った。
「大丈夫だよ、ユア。また今度ゆっくり遊ぼう?」
「そうだね。また近いうちに王都に連れてくるから、その時また遊んでくれるかな?」
励ますように愁も言うと、ユアの顔がぱっと明るくなった。
「うん!わかった!私は王都の教会の裏のお家にお師匠さまと住んでるから、今度来た時は寄ってね?」
「うん!わかったよ!お稽古、頑張ってね!」
「リア……っ!」
突然、ユアがリアに抱きついた。リアも驚きながらも、すぐに背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
「リアも元気でね!愁さんも、今日はお昼ありがとうございました!」
「いえいえ。これからもリアをよろしくね。気をつけて帰ってね」
ユアは大きく手を振りながら、店を出て行った。
姿が見えなくなるまで見送るリア。その横顔は、とても嬉しそうだった。それを見て、愁もまた心の中が温かくなる。
なぜなら――『リアの幸せが、また一つ増えたのだから』。
「良い友達ができたみたいで、よかったね」
「はい!ユアは、大切なお友達です!」
◆◇◆◇◆◇
日が傾き、街に灯る明かりが幻想的に揺らめく頃──。
愁とリアは市場を巡り、仲間への土産や素材を買い揃えた後、今晩の宿を探していた。やがて見つけたのは、貴族や上流階級の者たちが利用する格式高い宿だった。幸いにも、小さいながらも浴室付きの部屋が空いていたため、そこを借りることにする。
部屋に入ると、途端に一日の疲労がどっと押し寄せた。長時間の買い物と移動のせいか、リアも元気ではあるものの、僅かに疲れが見て取れる。
「リア、お風呂先に入ってきていいよ?」
「あ、その……愁さまが先に入ってください! わたしは少し休みたかったので、後からで大丈夫ですから!」
彼女の言葉に、愁は少し首を傾げたが、長く歩き続けたせいで休憩したいのだろうと納得する。
「あ、そう? じゃあ、先に入らせてもらうね」
愁はクラフト能力でバスタオルを二枚作り、一つをリアに渡してから浴室へと向かった。
浴室の中は蝋燭の灯りのみで、ほのかにゆらめく光が湯気と混ざり合い、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。薄暗いが、入浴するには十分な明るさだ。贅沢を言っても仕方がない。
服を脱ぎ、湯を張る間に石鹸を手に取る。体を洗いながら、ゆったりと疲れをほぐそうとしていた──その時。不意に、背後に人の気配を感じた。そして、ゆっくりと浴室の扉が開く。
蒸気の中から現れたのは、タオルを体に巻いたリアだった。
「うわっ!? ど、どうしたのリア!?」
慌てて彼女の方を見ないようにしながら問いかけると、リアはもじもじとしながら答えた。
「あのっ……お背中を流して差し上げようかと思いまして……」
「え? 急にどうしたの?」
「えっと……スフィアさんが、男の人は背中を流してもらうと喜ぶって教えてくれたので……」
(リアに変なことを吹き込んだのは、やはりスフィアか。いや、そもそもそんなことを言い出すのはスフィアくらいしかいないか……帰ったら説教決定だな)
とはいえ、リアをむげに断るのも気が引ける。もし拒絶すれば、彼女は自分の行動を間違いだったと勘違いしてしまうかもしれない。それは避けたいことだった。
「あー……なるほどね。じゃあ、せっかくだからお願いしようかな」
リアの表情がぱっと明るくなり、「はい!」と張り切った声が返ってきた。
愁は石鹸を手渡し、リアに背を向けて浴室の床に座る。そして、後ろから泡を立てる音を聞きながら、僅かに緊張する気持ちを感じつつ、その時を待った。
(まあ、普通にタオルで洗ってくれるよな……)
そう思っていた愁だが、その予想に反して、リアは愁の肩にそっと手を置く。そして次の瞬間、背中に何か柔らかいものが押し当てられた。
「っ!?」
動揺しつつも、すぐには状況が飲み込めない愁。だが、微かな温もりと感触から察するに、リアはタオルを使わず、直接体を使って洗っているのではないか──そう気付いた瞬間、愁の思考が一気に混乱する。
(……おいおい、これは流石にまずいだろ!?)
すりすりと控えめに背中を柔らかな感触の『何か』で洗われる。二つのふくらみが背中に押し当てられている感触から、それが何か推測できる。だが、予想の遥か上を行くリアの行動に、愁は完全に動揺していた。
「ちょっ、リア!? さすがにそれは──」
「え?」
制止しようと振り返ったその時、床の泡で足が滑る。バランスを崩し、愁は前のめりに倒れ込んでしまった。
「っ!?」
咄嗟に左手を床について衝撃を和らげたものの、勢い余って右手がリアの胸に触れてしまう。
「あ……!」
ふわりとした触り心地が手のひらに広がっていく。主張は控えめだが、確かにそこにある存在感——などと悠長に考えている余裕のない愁は、すぐに起き上がろうと必死だ。
「ご、ごめんリア! 今すぐ離れるから!」
焦って手を離し、立ち上がろうとする。だが、またしても泡で足を滑らせ、今度はリアに覆い被さる形で倒れ込んでしまった。
「うっ……本当にごめん! すぐ起きるから……!」
だが、その瞬間、リアの細い腕がそっと愁の背中に回される。
「リア……?」
「あっ……すみません! あの、恥ずかしいんですけど……こうして愁さまとくっついていると、すごく安心するんです……どうしてでしょうか?」
リアの声が耳元で震える。密着しているせいで、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。もちろん、それは愁も同じだった。
気まずさを誤魔化しながら、愁は慎重に体勢を立て直す。ようやく距離を取ると、二人の間に微妙な沈黙が生まれた。蝋燭の炎が揺れ、静寂の中で水滴が湯船に落ちる音だけが響く。
濡れた髪を直しながら、お互い何かを言おうとするが、なかなか言葉が出てこない。湯気の向こうで、リアは少し恥ずかしそうに視線を泳がせている。
そんな中、先に沈黙を破ったのはリアだった。
「愁さま……? このまま、一緒にお風呂に入っても……いいですか?」
その言葉に、愁の肩がピクリと揺れる。
「え? あ、ああ……まあ、いいよ。このままだと風邪引いちゃうしね」
言葉を選ぶ余裕もなく、思わず了承してしまう。どうせ今さら断ったところで気まずさが増すだけだろう。
お互い泡を流し終えると、二人は湯船へと向かった。自然と向き合う形で入ることになり、視線を逸らしながらも、なんとも言えない気まずさが漂う。
「その……さっきはごめんね。リア、ビックリしたでしょ?」
「え? 大丈夫ですよ! わたし、愁さまになら何されてもいいですから。なので気にしないでください」
無邪気な笑顔でそう言い切られて、愁は思わずむせそうになった。
(いや、それはそれで問題だろ……!)
リアが本気で言っているのか、無邪気に言葉を発しているのか判断がつかない。けれど、きっとまだ深い意味などは分かっていないのだろう。そう思うことにする。
再び沈黙が落ちるが、またも先に破ったのはリアだった。
「たまには、一緒にお風呂に入るのもいいですね」
「ん? あ、ああ! そうだね……」
「また今度、一緒に入ってくれますか?」
「え? あー、そうだね……みんなに内緒なら……」
ついつい気まずさから、訳の分からないことを言ってしまう。
(何が『みんなに内緒なら』だよ……! 余計に良くない方向になってるじゃないか……!)
そう心の中で自分にツッコミを入れながら、愁は小さくため息をつく。
「そろそろ上がろうか。リア、先に上がって着替えてていいよ」
「はい! わかりました。お先に失礼しますね」
浴場を後にするリアを見送り、愁は湯に沈みながら再び深いため息をついた。
「……なんか、どっと疲れたな……」
愁が風呂から上がり、部屋に戻ると、リアはベッドに腰掛けて待っていた。湯上がりの頬はほのかに紅潮し、温かい蒸気がまだ肌に残っているのか、ほんのりと艶めいて見える。そんなリアの瞳は、どこか期待に満ち、じっと愁を見つめていた。
愁はそんなリアの視線を受け止めながら、静かに息を整える。いつまでも気まずさを引きずっていても仕方ない。心を切り替え、今日の『見せ場』に向けて準備を始める。
時計の針はすでに十一時五十分を指していた。誕生日までは、残り『十分』──。
「リア?今日はもう少しプレゼントがあるんだ。だから、少しだけ目隠ししてもいいかな?」
「目隠しですか?わかりました」
リアはすぐに了承すると、素直に目を閉じ、愁の指示を待つ。その表情には、どこか小さな子どものような無邪気さが滲んでいた。
愁は優しくリアの肩にコートを掛ける。その後、丁寧に目隠しを施し、ゆっくりとその身体を抱き上げた。
「わっ……!どこかに行くんですか?」
「うん、すぐに着くから少し待っててね」
リアが驚いたように身を強ばらせたが、すぐに愁の腕の中で大人しくなる。その小さな体をしっかりと抱えたまま、愁は窓を開け、〈飛行〉の魔法を込めた魔石の力を解放した。
窓から飛び立つと、風が頬を撫でる。静かな夜の帳の中、愁たちはゆっくりと高度を上げていく。宵闇を切り裂くように、夜空へと舞い上がると、冷たく澄んだ空気が心地よく肺を満たした。
やがて、雲を抜ける。その先には、星々が無数に瞬く広大な夜空が広がっていた。街並みや城は遥か下に小さく瞬き、まるで宝石をちりばめた宝箱のように輝いている。
「よし、もう目隠しを取ってもいいよ」
「はい!わかりました……」
リアがそっと目隠しを外す。次の瞬間──。
「わあ……!」
彼女の息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
眼前に広がるのは、無限の星々が輝く幻想的な夜空。どこまでも続く漆黒のキャンバスに、無数の光が瞬いている。静寂の中、星たちの光だけが、穏やかな鼓動のように空を満たしていた。
「すごく綺麗……こんなに星が綺麗に見えたのは、初めてです……!」
リアの声は感動に震えていた。瞳を大きく見開き、まるで夢を見るかのように、じっと星空を見つめる。その頬には夜風を受けた冷たさよりも、幸福の温もりが滲んでいた。
愁はそんなリアの横顔を見つめながら、エンドレスボックスから小さな箱を取り出す。箱を開けると、中には、光が当たると七色に淡く輝く不思議な輝きを放つ美しいネックレスと指輪──地底龍の素材から作られた特別な贈り物が収まっていた。
「あと、これもプレゼントだよ。ネックレスはスフィアとお揃いのやつ。指輪は、リアだけに作ったやつだよ」
ネックレスを受け取ったリアは、震える指先でそっとそれを撫でる。
「……とっても、綺麗……!」
その瞳が潤んでいることに、愁はすぐに気付いた。
「わたし、こんなに幸せでいいんでしょうか……?」
その言葉に、愁は微笑んで首を振る。
「まったく、ここは笑うところだよ?それに、その質問の答えは決まってるよ。もちろん、リアは幸せになっていいんだ。いや、もっと言うなら、俺はリアにずっとずっと幸せでいてほしいんだよ」
リアの頬を伝う涙が、星明かりに照らされて光る。
「だから、これからも俺の隣で、俺を支えてくれるかい?リアの笑顔が、俺にとって何よりの力になるから」
リアは必死に涙を拭いながら、顔を上げる。そして、愁が望んだ通りの笑顔を浮かべ、はっきりと頷いた。
「はい!愁さま、これからもわたしを側に居させてください。ずっと、ずーっと先の未来も」
「ああ、もちろんだよ。これからもよろしくね、リア」
その後、愁はリアの左手を優しく取り、指輪をはめる。指輪に付与された加護の特性上、最も力を発揮するのは左手の薬指。他意はない。
「この指輪は、リアをどんなことがあっても守ってくれるものなんだ。もちろん、指輪が力を使うことがないように、俺が守るつもりだけどね」
「はいっ!これなら、わたしが愁さまと離れていても、寂しくないです!」
「そうだね。そのときは、この指輪を見て、今日のことを思い出して」
その後も、しばらく星空を眺めながら語らう。しかし、夜の冷気は容赦なく二人の体温を奪っていく。リアが小さく震え始めたのを見て、愁はそっと微笑んだ。
「そろそろ、戻ろうか?」
「はい!」
その帰り道の途中──リアはふとネックレスの飾りを指差した。
「愁さま?このネックレスの、この部分ってなんでしょうか?」
愁はよく見るために少し顔を近づける──その瞬間、リアがそっと頬にキスをした。
愁は一瞬驚くが、すぐに察する。先日、まったく同じことをした人物がいたのだ。
「……スフィアに教わったのかな?」
「えへへ、お礼がしたいならキスが一番だって教わりましたっ!」
リアは無邪気に笑う。その笑顔は、まるで満天の星空よりも眩しく輝いて見えた。
──この笑顔を、ずっと守り続けよう。愁はそう誓いながら、リアの頭を優しく撫でたのだった。




