Girl's Story スフィアのいたずらと賭け事
とある日の朝。
湯気がゆらゆらと立ち上る大浴場。肌を撫でる湯の温もりと、ほのかに漂う甘い石鹸の香りが、心を穏やかに解きほぐしていく。湯面に映る灯りが揺らめき、広々とした空間には心地よい静けさが広がっていた。
その湯船には、リア、スフィア、メラリカの三人が浸かっていた。理由があってのことではなく、ただ単純に朝風呂を楽しみたかったのだ。かつては自由に風呂に入れる環境に恵まれなかった彼女たちにとって、この贅沢な時間は何にも代えがたい。
アークルトスでのお祭りを経て、三人の距離は随分と縮まり、今ではすっかり打ち解けた間柄になっていた。年齢的にはスフィアが最年長のはずなのだが、見た目通りの子どもっぽさを発揮することが多く、結果的にメラリカが保護者のような立場に収まることが多かった。
そんな彼女たちは、湯の温もりに包まれながらくつろいでいた。白い湯気がゆるやかに立ち昇る中、リアがぽつりと口を開いた。
「……あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
控えめながらも真剣な響きを含んだ問いかけに、スフィアとメラリカが同時に顔を向ける。
「ん? どうしたのだ?」
「悩み事でもあるんですか?」
リアは少しだけ頬を赤らめながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「悩み事ではないんですけど……今度、愁さまがわたしの誕生日をお祝いしてくださるのですが、そのお礼をどうしたらいいのかわからなくて……」
十二月の終わり頃に、二人で二日ほど出かけるという話は、すでにスフィアとメラリカも耳にしていた。どうやらリアは、そのお礼をどうすればいいのか悩んでいるらしい。
そんな彼女の純粋な問いに、スフィアの目がキラリと光った。
「そんなの簡単だぞ、リア。チューでもしてやればいい」
「え? チューですか? キスってことですか?」
リアの戸惑った様子があまりにも初々しく、スフィアはからかうようにニヤリと笑い、メラリカは、『また始まった……』と頭を抱えそうになっていた。
「そうそう、キスだキス! この前してやったら喜んでたぞ」
「え? ちょっと待ってください。キスしたんですか?」
思わず飛びついたのはリアではなく、メラリカの方だった。スフィアのいたずら好きな性格を理解しているが、さすがにこの話は聞き捨てならない。
「したぞ! プレゼントもらったから、お礼に不意打ちで。ほっぺにだけどな」
「な、なんだ……ほっぺになんですね」
口にしたのではないと知り、メラリカは安堵の息をつく。一方で、リアは不安そうにスフィアを見つめていた。
「……キスなんて、わたしにできるでしょうか?」
「大丈夫大丈夫! 主様が顔を近づけるように仕向けて、あとは不意打ちですればいい」
スフィアの無責任なアドバイスに、メラリカは心の中で『それでいいのでしょうか……?』と突っ込みつつも、あえて口には出さなかった。
「スフィアさん、愁さんが喜んでいたって言ってましたが、本当ですか?」
「ん? 本当だぞ! あれで主様も男の子だからな。でもあれは恥ずかしがりだからな。前に目の前で服脱ごうとしたら、すごく焦ってて可愛かったぞ」
メラリカの眉がぴくりと動く。今の話は初耳だった。愁が焦る姿を想像し、何とも言えない感情がこみ上げる。
(ちょっと気になる……)
「それにしても、ずいぶん主様のこと聞いてくるな、メラリカは。主様のこと狙ってるのか?」
「え? いやいや! 違いますよ! 確かにカッコいいとは思ってますけど、そういうのとはまた違います!」
スフィアのからかいがエスカレートしそうな予感を察し、メラリカは慌ててリアに話を振った。
「リアさんは、愁さんのことどう思いますか?」
突然の質問に、リアは目を瞬かせながら答えた。
「わたしですか? 愁さまは強くて優しくて、顔もカッコいいと思ってますよ。あと、一緒にいると落ち着きます」
「確かに主様はいい顔してるな! 絶対モテてると思うが、恋人とかいなかったのだろうか」
「そういえば、昔の話とかあまりしないですもんね」
愁の過去はあまり語られることがない。彼のことをもっと知りたいという気持ちが、ふと三人の胸に広がった。
「そうだ、リア。さっきの話だが、お礼に背中でも流してやればいいんじゃないか?」
スフィアの突然の提案に、メラリカは『……またろくでもないことを考えているなあ……』と察する。
「背中……ですか?」
「そう、背中! 王都で宿に泊まるときにお風呂があったら、適当に理由をつけて主様に先に入ってもらって、後からお風呂に突撃だ!」
「それって……服とか、どうすれば……?」
戸惑う彼女の背後にそっと回り込むと、スフィアはふっと微笑み、悪戯めいた声音で囁いた。
「そんなの決まってるだろう。裸だよ裸。それで──こうやって、体を使って背中を優しく洗ってあげるんだ」
そう言うなり、スフィアはリアの背中に自分の肌を押し付ける。しっとりと濡れた肌同士が密着し、湯気の中でぬるりと滑る感触がリアを襲った。
「え? こ、これをやるんですか? こんなの恥ずかしいですよ……」
リアは震える声で訴えるが、スフィアは容赦しない。
「ダメダメ。こうやって胸を押し付けるようにして洗ってあげるんだぞ。主様に喜んでもらいたいなら、これしかないな」
スフィアの胸元がそっとリアの背中に沿う。その瞬間、リアの顔は茹で上がったように真っ赤になり、今にも湯気の中に消え入りそうだった。
「そ、そんなの無理ですっ……!」
見かねたメラリカが、くすりと微笑みながら間に入った。
「スフィアさん、あんまりからかわないでください。それに、リアさんも無理に真似しなくていいんですよ?」
「は、はい……」
「でもなぁ、これをやれば主様は絶対に喜ぶんだけどなぁ?」
スフィアは名残惜しそうにリアから離れると、今度はメラリカにくっつき、豊満な胸や腰の曲線をじっくりと眺めてニヤリと笑う。
「な、なんですか、そのいやらしい目つきは!」
「いやなに、こんなにいい体してるのになんでそんなに奥手なのかと思ってな」
「奥手ってどういう意味ですか!? 私は別に──!」
メラリカが反論しようとしたその時、リアが不意に立ち上がった。
「わ、わたしはそろそろ上がります……すこし、のぼせてしまいました……」
彼女の顔は相変わらず真っ赤で、まるで煮えたぎる湯のようだった。小さく体を震わせながら、リアは湯気の中へと消えていく。スフィアとメラリカは、その背中を見送りながら顔を見合わせる。
「スフィアさん、本当にリアさんがやっちゃったらどうするんですか? あの子、素直なんですから」
「いやいや、さすがにキスはともかく、背中を洗うのは恥ずかしがってできないだろう? 少しからかっただけさ」
まったくもう、とメラリカは呆れる。スフィアの悪戯好きには何度も巻き込まれているが、一番の被害者は間違いなくリアだった。しかし、スフィアにとってそれは『苛め』ではない。ただ単に、可愛くて仕方がないからこその『愛情表現』なのだ。
談笑もほどほどに、そろそろ十分温まったと感じたメラリカが湯から出ようとすると、不意にスフィアが彼女の手を引いた。
「……どうしました? そろそろ私も上がろうかと思ったのですが」
「メラリカ、一つ賭けをしないか?」
「賭けですか? 何の?」
一旦お湯に浸かり直し、メラリカはスフィアをじっと見つめる。スフィアは悪戯を思いついた時の、あの独特の表情を浮かべながらニヤリと笑った。
「リアがさっきの方法で背中を流すか流さないか、賭けないか?」
「なるほど、そういうことですか。ちなみに負けた方には何か罰があるんですよね?」
メラリカは、すっかりスフィアの性格を把握していた。こんなことを言い出す時は、必ず何か罰があるに違いない。
「もちろん! 負けた方は同じやり方で主様の背中を洗う! これでどうだ?」
「しょうがないですね、わかりました。たまにはスフィアさんに痛い目を見てもらいましょう」
メラリカは珍しく乗り気だった。実際、負けたとしても恥ずかしいが、愁がどんな反応をするかが気になる。きっと彼の照れる姿は相当可愛いに違いない──そんな密かな期待を胸に抱きつつ、彼女はあくまで自信ありげに振る舞った。
「メラリカはどっちに賭ける?」
「私が先に選んでいいんですか? それなら……やる方に賭けます」
「ほほう、リアに限ってそれはないと思うが……選んだんだから覚悟しておけよ?」
今回の賭けは、メラリカが『リアが背中を流す』に賭け、スフィアが『流さない』に賭けるという形になった。そして、負けた方は罰として愁の背中を同じ方法で洗うことになる。
「よし、それじゃあリアが戻ってきたら結果発表ということで。この約束、忘れるなよ?」
「わかっていますよ。おそらくスフィアさんが愁さんの背中を流すことになるでしょうけどね」
メラリカは勝ち誇ったように微笑む。賭けに乗るのも楽しみだったが、スフィアがどんな表情を浮かべるのかもまた、一興だった。
「それじゃ、そろそろ上がるか」
「そうですね、上がりましょうか」
お湯から出た二人は、しっとりと火照った体をタオルで拭いながら顔を見合わせる。そして、どちらともなくふっと笑った。
──結果が出る瞬間が、今から楽しみでならなかった。




