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クラフトマスター建国記  作者: ウィースキィ
第一部 第一章 新たなる世界 【第一次王国 編】

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第7.5話 お師匠さまとお祭り


 王都を発ってしばらくが経った頃、珍しく静かにしていたユアが、突如としてそわそわと落ち着かなくなり始めた。栗色の瞳が忙しなく宙を泳ぎ、指先や膝が細かく揺れている。まるで風に揺れる若草のように、身体全体から微かな興奮が滲み出ていた。


 それに気づいたアルバートは、何か異変でも起きたのかと心配になり、ユアへと声をかけた。


「どうした?具合でも悪くなったか?」


「違います!お師匠さま、見てください!アークルトスの町が見えてきましたよ!」


 はじけるような声には、熱を帯びた喜びがあった。どうやら体調が悪いのではなく、目的地が見えてきたことで胸を高鳴らせていたようだ。拍子抜けしたアルバートは、ひとつ息をついてから、どこか呆れたような表情でそっぽを向いた。


「ひどいです、お師匠さま!無視するなんて!」


 抗議の声とともに、ユアはグイグイとアルバートの袖を引っ張る。その動きには子供のような無邪気さがあり、しかしあまりにしつこいので、アルバートは肩を竦めながら彼女の手をそっと引き剥がした。


 頬をぷくりと膨らませたユアは、不満げな眼差しを向けながらも、しっかりと彼の言葉を待っている。


「もう町に入るぞ。……さっきみたいに大人しくしていろ。じゃないと何も買ってやらないぞ」


「はーい!わかりました!」


 明確なご褒美の有無がユアの行動指針を決めるらしく、アルバートのその一言に、彼女はまるで弾かれたように元の席に収まった。見事な反射速度である。


 そんな彼女の様子に、アルバートは再びため息を吐き、静かに肩を落とす。


(やれやれ……)


 やがて、馬車は町の入り口に設けられた検問所へと到着した。近づいてきた兵士に、アルバートは王家の紋章が刻まれたネックレスを見せる。それは何よりも確かな身分の証だ。兵士たちはすぐに敬礼し、道を開けた。


 アークルトスの町は、まさに祭りの準備の真っ只中。町の通りは普段よりも賑わっており、人々の顔には自然と笑みが浮かんでいた。色とりどりの布や提灯が飾られ、屋台の主たちが威勢よく声を張り上げている。


 馬車の窓からその様子を眺めるユアは、胸の内を抑えきれないようで、窓枠に頬を寄せながらキラキラと目を輝かせていた。だが、先ほどの言葉が効いているのか、今のところは辛うじて席に留まっている。


「馬車を停めたら町を散策しよう。そして、陛下が仰っていた男の情報を集める。それが済んだら、夕方には祭りを見に行こうか」


「はいっ!そうと決まれば、任務、頑張っちゃいますよーっ!」


 やる気満々なユアの姿に、アルバートは思わず苦笑する。


(いつもこのくらい真面目に取り組んでくれればな)


 やがて目的の場所に到着し、馬車がゆっくりと停まった。扉を開け、ふたりは澄んだ春の空気を胸いっぱいに吸い込みながら馬車を降りる。


 時刻は正午を過ぎた頃。町中には、焼きたてのパンの香りや、香辛料の刺激的な匂いが漂っている。鼻腔をくすぐるその香りは、まるで空腹の人々を手招く罠のように誘惑していた。


「まずはギルドに行こうか。話も聞けるし、あそこなら食事もとれるからな」


「わーい!ご飯!好きなもの食べていいですか?」


 ユアの食に対する情熱は、時に呆れるほどである。あの小柄な身体のどこに入るのかと思うほど、よく食べるのだ。だが、それだけ美味しそうに食べるので、見ていて悪い気はしない。


「ああ、いいぞ」


「えへへ、やった!じゃあ早く行きましょうっ!」


 嬉々として手を引いてくるユアに、アルバートはやや押されながらも、彼女と共にギルドへと向かう。


 その道すがら、町の人々がアルバートの姿を見つけるたび、次々と頭を下げた。白を基調とした騎士服は、王国の勇者の象徴であり、彼が勇者であることの証でもある。


(……目立つのは好きじゃないんだがな)


 そう思いながらも、無下にはできず、軽く手を振って応える。彼は謙虚であろうとするが、周囲は英雄としての彼を崇めずにはいられないのだ。


 ギルドの建物に足を踏み入れると、いつもと比べて冒険者の姿は少なく、代わりに旅人や行商人が多く集まっていた。皆、受付で何やら質問をしている。祭りを前にして、町を訪れた者たちなのだろう。


 アルバートとユアは、空いていた席に腰を下ろし、テーブルに置かれたメニューを手に取る。アークルトスの町は海から離れているため、海鮮料理は珍しいが、その代わりに山の幸や肉を使った料理が豊富で、どれも味には定評がある。


「これ!これ食べたいです!野菜のスープと鳥のスパイス焼き!」


 メニューを指差して弾む声を上げたユアを見て、アルバートは少しだけ目を瞬いた。というのも──


(……奇遇だな。同じものを頼もうと思っていたところだ)


 鳥のスパイス焼きはこの町の名物で、前々から一度味わってみたいと考えていた料理のひとつ。だが、まさかユアと選ぶものが被るとは。


「私も同じものをいただこうかな。ユア、店の人に伝えてきてくれるか?」


「はーい!わかりましたっ!」


 元気よく返事をし、パタパタと駆けていくユアの背を見送りながら、アルバートの心にはふと、懐かしい記憶の断片がよみがえる。


 それは──彼とユアが出会った、あの日のことだった。





◆◇◆◇◆◇





 それは──今から『四年前』の出来事である。


 当時、人族の住まうティルマス大陸において、小規模ながらも魔族の侵攻という未曾有の事件が発生した。数こそ百に満たぬ兵ではあったが、まだ勇者の量産体制が完全には整っていなかったアイラフグリス王国にとって、それは決して小さな脅威ではなかった。


 勇者とは、神の祝福を受け選ばれし者たち。施術によってその力を引き出され、戦いに臨む存在である。現在こそ、正規勇者十三名に準勇者八百五十名という大戦力を擁している王国だが、当時出撃可能だったのは、わずか『正規勇者四名』のみ。


 侵攻の標的とされたのは、アイラフグリス王国の領土内にある町、ウォルタス。その地はティルマス大陸でも最も魔族の支配するデモリアス大陸に近く、さらに辺境という地理的理由からか、王国の守備が手薄であった。結果、ウォルタスはあっという間に魔族の手に落ち、町全体が支配されてしまったのだ。


 この緊急事態に対し、王国のセルシオ国王は四名の勇者を派遣することを決定した。


 彼らこそ、後に神託の勇騎士として知られるハーバス・アルニトス、第一階位勇者となるハルア・アルニトス、第二階位勇者となるアルバート、そして第六階位勇者となるミザリカ・マーステット──。いずれも当時はまだ勇者となったばかりの新米であったが、その実力はすでに歴代勇者を凌駕するほどのものであった。


 彼らはウォルタスに潜む魔族討伐と町の奪還を命じられ、荒れ狂う海風が吹き荒ぶ海辺の町へと向かった。


 十三歳のアルバートは、元は貧民の出であった。だがその内に宿す聖気法力の適性は驚異的で、鍛え上げた剣技は天賦の才と称されるほど。貴族出の勇者が多い中で、彼はまさに異例の存在だった。


 しかし、敵は想像以上に手強かった。侵攻してきたのは、デモリアス大陸に存在する十八の魔族国家の中でも、五指に入る大国──ケイオス魔導国の精鋭部隊。兵の数は百名程度ではあったが、その全員が選び抜かれた強者。さらに三人の指揮官の下、それぞれの部隊が将軍、参謀、医療班を後方に従えて展開しており、組織的かつ重厚な陣形で防衛を敷いていた。


 四人の勇者たちは、各々の能力を最大限に発揮しながらも、連日の戦闘で疲弊し、傷を負いながら戦い続けた。敵兵一人ひとりが、まるで幾度もの死線を潜り抜けた戦鬼のように凄まじく、まさに激戦であった。


 だがその末、勇者たちは三つの部隊を壊滅させることに成功する。将軍以下の高官を残すのみとなり、劣勢を悟った後方の参謀および医療班は、戦線を放棄し早々に撤退した。


 そしてついに、リーダーであるハーバス・アルニトスが、敵将バルバラを単身で討ち取り、残る三人の勇者もそれぞれ指揮官を討伐したのだった。


 こうして、討伐および奪還任務は『成功裏』に終わり、町には静寂が戻った──だが、戦の後には冷たい風が吹く。


 帰還の途につく段で、三人の勇者は、最年少で身分の低いアルバートに残務処理を押しつけ、自らは功績報告の名目でいち早く王都へ戻ってしまった。ひとり残されたアルバートは、己に課せられた任務を黙々とこなし、町中を巡っては残党の掃討と、捕らわれていた人々の解放に奔走していた。


 その途中、バルバラ将軍が陣を敷いていた領主の屋敷へと足を踏み入れたアルバートは、ふとした瞬間──扉の向こうから聞こえてきた、かすかな『泣き声』に足を止める。


 鍵のかかった私室の扉をこじ開けて中へ入ると、薄暗い室内の片隅で、ひとり小さく丸まり震えている幼い少女の姿があった。


 白磁のように透き通る肌。痛々しい痣と、癒えきっていない傷跡が露わになった四肢。恐怖に染まった瞳が、まるで光を拒むように伏せられている。


 突如現れたアルバートに気づいた少女は、小動物のように身を縮め、怯えながらもじっと彼を見つめた。


「そこのお前……何をしている。この屋敷の者か?」


 表情ひとつ動かさず、剣士としての本能で警戒を崩さぬまま問いかける。


 幼さゆえのあどけなさを残したその少女は、震える声でこう返した。


「あなたは……だれ?わたしに、ひどいことするひと?あのしょーぐんのひとみたいに……」


 その言葉に、アルバートの眉がわずかに動く。


 少女の体に刻まれた痕──それが、いかなる虐待の結果かを彼は理解した。少女はおそらく、捕らわれの身であったのだ。年の頃は、九歳ほどであろうか。見た目には人族そのものだが、警戒は解けない。


「俺は、自分より弱い者を痛めつけて喜ぶような趣味はない。お前は……何者だ」


 突き放すような言葉の裏に、滲むのは冷たい怒り。それでも、油断はせず問いを重ねた。少女は、小さく喉を鳴らしながらも、言葉を紡ぎ始める。


「……わたし、パパとママをしょーぐんにころされて、ここにつれてこられたの。『しんわのまけん』をつかえるから、ひつようだって……。おともだちも、まちのひとも、みんなころされちゃった。しょーぐんは……まおうさまもころしちゃったから」


 その言葉は、まるでひとつの『神話』が崩れ去る音のようだった。


(ケイオス魔導国の魔王が、討たれた……?)


 もしそれが事実であれば、これまで沈黙を保っていた魔族国家が突然侵攻を開始した理由にも合点がいく。


 少女の瞳に浮かぶのは、拭い去ることのできぬ恐怖と絶望──それでも、どこか微かな光を求めるような眼差しだった。アルバートは、少女の奥に潜む『何か』──まだ名もつかぬ違和感に、気づいてはいなかった。


「……そうか、それは……辛かったな。だが、お前が魔族であるのなら、俺はお前を殺さなければならない。それが陛下の厳命なのだ。悪く思うなよ」


 淡々と告げながら、アルバートは腰の剣を静かに抜き放ち、刃先を少女の細い首元へと突きつけた。その手に込めた力は微かで、今にも折れてしまいそうな少女の身体を前に、無意識のうちに手加減していた。──本心では、斬りたくなどない。


 だが命令は絶対。王都を襲撃した魔族を一掃するという勅命。その命に従うならば、たとえ相手がどれほど幼く、無垢で、涙を流していたとしても、殺さねばならない。


 剣の冷たさを喉元に感じながらも、少女は震える肩を抑え、必死に声を張り上げた。


「おねがい!ころさないで!わたしは……わたしはまだしにたくない!つよくなって、わたしみたいにくるしむひとをすくいたい!わるいひとたちをたおせるようになりたい!だから……!」


 その叫びは、幼い体に秘められた『願い』そのものだった。瞳に浮かぶ涙はただの恐怖や悲嘆ではない。その奥に宿っていたのは、誰かを守りたいと願う純粋な衝動。アルバートは、その視線に釘付けになった。


(……この娘の目は、絶望も怒りも映していない。ただ、まっすぐに、未来を見据えている)


 心の奥に、熱のようなものが走った。

 

 これまで命令には疑問も持たず、ただ粛々と従ってきた。正義を語るつもりもなかった。ただ、剣を振るってきた。だがこのとき、初めて迷いが生まれた。少女の叫びに心を揺らされている自分に、アルバートは戸惑っていた。


「強くなりたいのか?その身も魂も、すべて賭けてでも」


 問いかける声には、無意識のうちに熱がこもっていた。

 

 少女は、一瞬だけ瞬きをし──その後、しっかりと、真っ直ぐに頷く。


「つよくなりたいです!」


 その答えに嘘はなかった。心の奥底から湧き上がる衝動が、その声に宿っていた。まるで闇の中でひときわ輝く星のように、少女の瞳は希望を映していた。


 アルバートの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。


「……なら、俺と契約を結べ」


 剣を構え直しながら、静かに語る。


「魔族には、他者と契約を結ぶことで、力の行使や自由意志を委ねる仕組みがあると聞いた。つまり、お前のすべてを俺に預けるということだ。そうすれば、俺が責任を持ってお前を鍛えてやる」


 その契約は──奴隷契約に等しい。契約者は、自らの生命すら管理者に握られ、逆らうこともできない。死の命令すら拒めぬ。常識的に考えれば、受け入れるはずもない提案だった。


 だが、少女はほんの一瞬も迷わず──まるでそれが当然の選択であるかのように、力強く叫んだ。


「それでもいいです!つよく、つよくなれるのなら、それでも!」


 その瞳に映るのは恐れではない。覚悟だった。アルバートは、それが単なる命乞いではないことを直感していた。


「……わかった。なら、ここでお前を殺すのはやめにしよう。これからは俺と共に来い。俺が、お前を導いてやる。お前──名は?」


 剣をゆっくりと下げ、鞘に収める。

 

 少女は一瞬ぽかんとした後、ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。


「わたしはユアです!これからよろしくおねがいします、おししょうさま!」


 そう言って深く頭を下げるユアの姿に、アルバートはほのかな希望を見た。

 

 その場でユアは契約の儀式を行い、正式にアルバートの支配下に入ることとなった。その瞬間、彼女の身から漂っていた魔族特有の気配は霧が晴れるように消え、残されたのはただの人族の少女の反応だけとなった。


 後日、アルバートは王に報告した。ウォルタスの町で偶然見出した才能ある孤児を弟子に迎えたい、と。


 王の許しを得て──あれから、四年の月日が流れた。


 ユアは成長した。


 やや我が儘で、口が達者になったが、訓練には一切の弱音を吐かず、驚くほどの吸収力で剣の腕を磨いてきた。剣の才にも恵まれ、まだまだ粗削りながらも将来性は十分すぎるほどだ。


(ユアは、ほんとうに手がかかるが……成長したもんだな)


 そんな回想に耽っていると、いつの間にか料理が運ばれてきていた。

 

 立ち上る湯気の中に、香辛料の刺激的な香りが鼻を擽る。その芳ばしさに現実へ引き戻されていたアルバートの隣から、小さな声が聞こえる。


「お師匠さま?食べないんですか?」


「ん?ああ……すまない。少し考えごとをしていた」


 ユアはわがままだが、食事の際は必ず彼を待っている。礼儀や感謝の言葉も欠かさず伝えられる──そういうところは、ちゃんとしている。


 そんな彼女の姿に目を細めながら、アルバートは静かにフォークを取る。


「……それじゃあ、いただこうか」


「はい!お師匠さま、いただきます!」


 ふたりの手が同時に動く。

 

 皿の中から立ち上る湯気は、まるで積み重ねた時間を祝福するかのように、柔らかく彼らを包み込んでいた。




◆◇◆◇◆◇




 その後、食事を終えた一行はギルドや街の兵士たちへの聞き込みを行った。得られた情報は決して豊富とは言えなかったが、それでも陛下が言及した男の姿を騒ぎの最中に目撃した者は複数いたため、無駄な労ではなかったと言えるだろう。


 しかし──その人物が事件の最中に外へ出るところを見た者は、一人として存在しなかった。どうやら、騒動が収束した翌日、何事もなかったかのように城門から出て行ったらしい。その男はこの街では見かけぬ風貌で、もし再び姿を見せればすぐに目立つはずだ。だが、今のところその姿は影も形もない。


 日は傾き、夕暮れが街を朱に染めていた。祭りは本格的に始まり、通りは人であふれ返っている。こうなると、人を探すどころではなかった。


「今日の任務はここまでにするか。人も多いし、また明日にした方がいいだろう。祭りも始まったし……約束通り、祭りを楽しみに行こうか」


 その言葉を聞いた瞬間、ユアの顔がぱっと明るくなり、まるで跳ねるように嬉しそうに飛び上がる。


「やったー! お祭り、お祭り! 早く行きましょう、お師匠さま!」


 小さな手にぐいと引かれ、アルバートは彼女に導かれるようにして祭の会場へと足を向けた。


 煌びやかな灯籠が空を照らし、甘い香りや香ばしい煙が風に乗って漂う。にぎやかな笑い声や太鼓の音が重なり合い、街はまさに祝祭の熱気に包まれていた。ユアは目を輝かせながら、あれこれと出店に目を奪われ、手当たり次第に遊び尽くしていく。その姿はまるで無邪気な小動物のようで、見ている側まで自然と口元がほころぶほどだった。


 やがて、一通り遊び尽くして少し息をついたユアが、ある屋台の前でぴたりと足を止めた。


「お師匠さま!これ、食べたいです!」


 彼女が指差した先にあったのは、ほかほかと湯気を立てる蒸し芋に、たっぷりとバターが乗った一品。地元で採れた旬の芋を使い、塩ゆでしてから熱々のうちにバターを落とすという、素朴ながらも後を引く味わいで、若者を中心に人気を集めているらしい。


「店主、一ついただこう。その子に渡してやってくれ」


「おお……!これはこれは、勇者様……」


 店主に銀貨を手渡し、アルバートが一歩下がると、ユアはうれしそうに芋を受け取った。


「ありがとうございますっ! お師匠さま!いただきますっ」


 手の中の芋は湯気が立ち上るほどの熱さで、ユアはふーふーと息を吹きかけながら、慎重に冷ましていた。その無防備で愛らしい姿を見つめているうちに、アルバートの胸の奥が、ふと、ざわめく。


(……また、か)


 説明のできない、しかし確かに存在する違和感。最近になって、ユアを見ているときにだけ覚えることのある、不思議な感覚。何かが胸の奥で目を覚ましかけているような、得体の知れぬ予兆。


 そんな中、不意に別の『気配』が彼の意識を掠めた。


 鋭く顔を上げ、視線を巡らせる。雑踏の向こう、路地裏の入り口。そこに黒い外套をまとった男たちが、ひとりの亜人族の少女に魔法をかけ、眠らせて連れ去ろうとしている姿を見つけた。


(最近、この街で相次いで報告されている亜人誘拐事件か……!)


「ユア! 問題発生だ。ついてこい!」


 鋭く言い放つと同時に、アルバートは男たちが消えた路地裏へと駆け出す。その背にユアは一瞬呆気に取られたように立ち尽くし、慌てて小さく叫んだ。


「あっ!お師匠さま、どこに……って、もう行っちゃった……。追いかけなきゃ!お芋、まだ食べてないのに……!」


 片手に芋を握ったまま、ユアは小さな足を懸命に動かして、アルバートのあとを追う。


 一方そのころ、先行していたアルバートはすでに路地裏に入り、目撃した男たちの行方を追っていた。だが──信じがたいことに、奴らの姿は忽然と消えていた。


(……確かに、このあたりを走っていたはずだ)


 亜人の少女を抱えたまま走るには、そう遠くへは行けない。そう判断したアルバートは、気配を研ぎ澄ませて周囲を探る。すると──わずかに、かすかな物音と少女の声が、少し離れた空き家の方角から聞こえてきた。


「あそこか」


 ためらうことなく、アルバートはその空き家の扉を一気に蹴り破った。


 突如現れた彼に、室内にいた男たちは目を見開き、間の抜けた表情でこちらを見た。今にも少女に手をかけようとしていたその姿は、言い逃れの余地などなかった。


「貴様ら……いったい何をしている。その子を放せ」





◆◇◆◇◆◇





 男たちを退け、亜人の少女──リアを救出したアルバートは、後から駆けつけたユアに彼女の保護を託し、男の口から出た名──町の貴族、エブハン伯爵の屋敷へと向かった。


 その屋敷は町の西端、高台に構えられていた。切り立った崖に寄り添うように佇むその建物は、灰色の石造りの外壁に囲まれ、まるで周囲を威圧するかのような厳重な趣を湛えている。屋敷の敷地を囲む鉄柵の隙間からは、鋭い眼光を放つ私兵たちが絶え間なく巡回しており、その様子はまさに『外敵を拒む砦』の如し。


 アルバートは正門前に立ち、衣の下から取り出した王家の紋章入りのネックレスを兵に示す。


「第二階位勇者、アルバートだ。急を要する。エブハン伯爵に取り次いでもらおう」


 兵士は目を見開き、すぐさま腰を折って応じた。


「はっ!承知いたしました!」


 勇者は王の直属──貴族すらもその威光に従う存在。ましてや国から与えられた第二階位の勇者である以上、呼び出しを拒むことなど常識では考えられない。


 やがて重々しい門が開き、そこに現れたのは宝石を贅沢に身に纏い、脂ぎった笑みを浮かべる一人の男──エブハン伯爵であった。その背後には数人の近衛が控え、慎重に間合いを取っている。


「これはこれは、勇者アルバート殿。かような遅い時刻に、いかがなされましたかな?」


 エブハンの声は穏やかに響くが、その奥底には何かを隠すような胡乱さが滲んでいた。


「王命により、この町に現れたとされるある男を追っていた。その過程で、亜人誘拐の現場に偶然出くわし、犯人を取り押さえた。そいつが白状したのだ。誘拐は、貴殿の命によるものだとな」


 言葉の鋭さを隠すことなく、アルバートは正面から切り込んだ。しかしエブハンは顔色一つ変えず、唇の端を歪めて薄ら笑いを浮かべる。


「ほほう。それはまた愉快な話ですな。だが、盗賊の言など、鵜呑みにするには信憑性に欠ける。まさか、勇者ともあろうお方が、卑しき賊の口車に踊らされているのではあるまい?」


「当然、盲信はしていない。だが、貴殿の屋敷地下に囚われている者たちや、物陰に潜む複数の気配……これらはどう説明する?何かを『隠している』のではないか、エブハン伯爵?」


 その声音は静かだったが、内に秘めた怒気は空気を震わせるように鋭く、重い。


 アルバートは門をくぐる瞬間、既に〈気配探知〉を発動していた。屋敷の構造、潜む人数──囚われた者の存在も、伏兵の待機も、すべて彼の目には明らかだった。


 その一言で、エブハンの顔に初めて緊張の色が走る。


「……さすがは勇者の称号を戴くお方。だが知ってはならぬことに触れてしまったようだ。残念だが、このまま帰すわけには参りませんな」


 エブハンの指先がひらりと動いた瞬間、物陰や屋敷の奥から私兵や盗賊風の者たちがぞろぞろと現れ始めた。鉄の匂いを孕んだ剣、鈍く光る斧。それらを手に、獣のようにじりじりとアルバートへと迫ってくる。


「これは……ずいぶんと手荒な歓迎だな。勇者に剣を向けるということは、それ相応の覚悟があると見てよいのだろう?」


「ふふ……さすがの勇者殿も、この人数ではどうにもなるまい。だが我々には、さらに奥の手があるのです」


 エブハンが高らかに腕を掲げた瞬間、アルバートの足元から淡い光が走る。複雑な文様が地面を這い、直径三メートルほどの魔法陣が展開された。


 直感が警鐘を鳴らす。アルバートは即座に跳躍しようとしたが、身体が石のように動かない。


「……なっ……!?」


 筋一本、指先ひとつ動かせない。魔法の行使すら封じられ、力が四肢を巡らない。まるで己が自我ごと、空間に閉じ込められたようだった。


「それはですねぇ、勇者殿。その術式は、人族の勇者を封じるためだけに設計された特別製なのですよ!ふははははっ!」


 腹を抱えて笑うエブハンの声が、嫌に甲高く響く。


「この結界の中では、外部からの干渉は一切通じない。もちろん中からもね。術式が完成すれば、二十八の魔刃が内部を切り裂き、捕らえた者を八つ裂きにするのです!お覚悟を──勇者アルバート!」


 アルバートは全力で聖気法力を練り、術式の破壊を試みる。しかし、幾重にも組まれた結界は微動だにせず、魔力の通り道すら閉ざされている。唯一残された手段であった〈重力魔法〉さえ発動せず、完全に詰みの状況。


(なんなんだこの術式は……!全く通じない!?)


 焦燥が胸を焼く。眉間に深い皺を刻んだアルバートの表情から、いつもの余裕はとうに消えていた。


「おやおや?焦っているぞ、焦っている!あの勇者が……ふふ、術式は本物だった!あの魔族には感謝せねばなりませんなぁ!」


 狂気に満ちた哄笑が、夜の冷たい風を引き裂き、戦場に不気味な余韻を残す。エブハンの笑い声は、月光すら怯えさせるような禍々しさを孕んでいた。


「魔族だと……?」


 アルバートが低く呟いた。声に含まれるわずかな怒気に、エブハンは勝ち誇ったように眉を吊り上げ、嘲弄を含んだ声で答える。


「冥土の土産に教えて差し上げましょう。その術式は、魔族が『対勇者用』に構築した代物。人族にもエルフ族にも、手出しすらできない精巧な術式なのですよ。分かりますか?今この場にいる誰にも解除できないということです。さあ、そろそろ八つ裂きの時間ですな。さようなら、勇者アルバート。貴方は……知りすぎた」


 術式が最終段階へと達し、アルバートの周囲を半透明の球体が包み込む。淡く脈打つそれは、まるで生きているかのような不気味さを醸し出していた。球体の内側、闇のように黒ずんだ刃──二十八枚もの刃が、次々と虚空から浮かび上がり、アルバートを狙って収束してゆく。


 ──そして、刃が到達する刹那。閃光にも似た速さで、誰かが不可侵領域に踏み込み、アルバートの目前に身を投げ出す。すべての刃は、その者の身体に深々と突き刺さった。


「……っ!」


 返り血が噴き出し、生温かいそれが、アルバートの視界を赤く染めた。その場に釘付けとなった彼には、何が起きたのか理解できない。だが、何度も、何度も、斬撃の音だけが鼓膜を打ち続けた。


 やがて、音が止む。術式が終息し、不可侵の力が消失すると同時に、アルバートの身体に自由が戻った。


 目を擦り、ようやく確保した視界。その中に倒れていたのは──


「……ユア……?なぜ、お前が……」


 膝をつき、震える手で少女を抱き寄せる。その身体には数え切れぬほどの深い裂傷が走り、血が滝のように流れ落ちていた。


 喉元にも傷があり、彼女は声を発することすらできない。だが、意識はまだ残っていた。弱々しくも微笑み、かすかに首を縦に振るその姿に、アルバートの胸が締めつけられる。


「ユア……一分だ。一分だけでいい、耐えてくれ。それまで……絶対に死ぬな。すぐに治療してやるから!」


 ユアは頷き、アルバートはそっと彼女を地面に横たえる。そして、背を向けた。


 その視線の先、私兵や盗賊たちに囲まれたエブハンがいた。


「なっ……なぜだ!なぜそのガキが貴様の代わりに八つ裂きになってる!……まさかっ、あの小娘、魔族なのか!?そうでなければ説明がつかんっ!」


 エブハンの叫びに、アルバートはゆっくりと目を向けた。


 空気が変わる。微風さえ凍てつくような気配。彼の瞳に灯ったのは、烈火にも等しい『殺意』だった。その一瞥で、エブハンも、私兵たちも、言葉を失う。その場にいた全員が、本能で理解した──この男の敵意に触れたならば、『確実に死ぬ』と。


「お……お前たちっ!勇者を殺せっ!殺した者には大量の金貨を与える!さっさとやれ!」


 金に目が眩んだ私兵たちが動き出そうとしたその時。アルバートが、一歩、前に出た。


「貴様ら……もはや、容赦はしない」


 言葉と同時に、地に踏み下ろされた足が、硬質な『金属音』を響かせる。土の上ではあり得ないはずの音。その一瞬、アルバートを中心に『白い波紋』が空間を侵すように広がっていった。


 白。純粋にして絶対的な支配の色。それは見る間に戦場を包み込み、敵対する者たちを空間ごと呑み込んでいく。


 ──〈空間支配〉。アルバートが発動させた、異能の領域。その内側に取り込まれた者は、例外なく、アルバートの許可なくして『何ひとつ』行動できない。


「エブハン伯爵。貴様には話がある。それ以外は──すべて、消えろ」


 次の瞬間。剣が──抜かれなかった。


 ただ、「キン」と小さな音が鳴っただけだった。にもかかわらず、領域内にいた五十を超える私兵と盗賊たちの首が、一斉に宙を舞った。血飛沫が咲き乱れ、地は真紅に染まり、まるで紅蓮の花園のように変貌する。だが、その中心に佇むアルバートだけは、一滴の血も浴びていない。


 支配領域が解かれ、自由を得たエブハンは、その場に崩れ落ちる。全身から力が抜け、腰を抜かし、唇を震わせた。


「いっ、一体……何が……剣を抜いてもいないのに……」


 震えきった声。恐怖に染まりきった問い。その問いにアルバートは、冷たく、吐き捨てるように答える。


「貴様のような卑しい男に、私の剣が視えると思うな。私は剣を振るっていないのではない。貴様に、視えていないだけだ」


 言葉の最後と同時に、アルバートは手をかざし、〈重力魔法〉を発動する。漆黒の重力球がエブハンの頭上に生まれ、そのまま押し潰すように落下した。


 悲鳴を上げる間もなく、エブハンは地に崩れ落ち、そのまま気を失った。


 ──静寂が、再び場を包み込む。ここまでで、約四十八秒が経過していた。


 アルバートは息を切らせながら駆け寄り、ユアの小さな身体を優しく抱き上げる。腕の中の彼女は、見るに堪えないほど痛ましい姿だった。喉元は鋭利な刃で斬られ、呼吸は細く苦しげに途切れている。両腕も脚も深く裂け、まるで今にも千切れてしまいそうだった。血の匂いが鼻を突き、冷たく湿った感触が手のひらから伝わってくる。


「待ってろ、ユア……今、神水を飲ませてやるからな!」


 勇者にのみ一つだけ与えられる『神水』──それは、神の雫と呼ばれるほどに貴重な奇跡の水であり、いかなる傷も瞬時に癒やすとされている。その瓶を震える手で開き、ユアの唇に近づけた瞬間だった。


 ユアのかすかな手が、拒むように瓶を押し返した。


「……どうした、ユア?早く飲むんだ!」


 声を失ったユアは、喉から音を出すことすらできない。それでも彼女は、自らの魔力を振り絞り、〈念話(テレパス)〉の魔法を使ってアルバートに訴えかけた。


(お師匠さま……その神水は、もしもの時に、お師匠さまが使うためのものです。私なんかに使っちゃ……駄目です)


「なにを……馬鹿なことを言ってるんだ!飲むんだ、ユア!でなきゃユアが死んでしまう!」


(もう……体に力が入りません。きっと……私はもう……死んじゃうんです。お師匠さま……今まで迷惑ばかりかけて……ごめんなさい。でも……最後に、お師匠さまの役に立てて……よかった……)


「ふざけるな、ユア!そんなことのために、君はここにいるんじゃない!あの時、強くなるって言ったのは……あれは嘘だったのか?こんなときに良い子でいる必要なんてない!我が儘でいい……私は、ユアの『本当の気持ち』が聞きたいんだ!」


 怒鳴る声に、涙が滲む。アルバートの眼差しは、何よりも真剣だった。


 ユアは、潰れかけた肺からわずかに息を吐き出しながら、閉じかけた瞼の奥で必死に意識を繋ぎ止めていた。栗色の瞳からこぼれ落ちる涙が、血に濡れた頬を伝って地面に落ちる。


(……死にたくない。まだ……死にたくない。ほんとは……お師匠さまと、もっと一緒に居たいです……)


 その想いが、心の奥から堰を切ったように溢れ出す。


 アルバートに救われてからの日々が、ユアの胸の奥で色鮮やかに蘇っていた。あの優しい笑顔、励ましの言葉、共に過ごした日々──どれもが宝物だった。だからこそ、自分のために神水を使わせたくなかった。けれど、それでも、まだ傍にいたいという想いのほうが強かった。


「……そうだ。それでいい。ユアには、まだもっとたくさんのことを知ってほしい。いろんな経験をしてほしい。……それに、教えたいことも……まだ、山ほどあるんだ」


 アルバートはそっと神水を口に含むと、ユアの唇に自身の唇を重ね、ゆっくりと口移しで与えた。


 ただ飲ませるだけでは、力が入らない彼女はむせてしまうかもしれない。だが、この方法なら、神水を無駄にせず、確実に届けられる。


 透き通った神水がユアの喉を通った瞬間、まるで命の灯火が再びともされたかのように、彼女の身体に変化が現れる。破れた皮膚が少しずつ癒え、裂けた腕や脚もゆっくりと元の形を取り戻していく。


 呼吸が安定し、頬に僅かな血の気が戻った頃──


「ユア?具合は……どうだ?」


 ユアは目をゆっくりと開け、小さく微笑んだ。


「……はい。大丈夫です。……声も……出せるようになりました……」


 その声は、か細くも確かな光を帯びていた。


「よかった……まずはこのまま、宿へ戻ろう。……後のことは、それからでいい」


 そう言って、アルバートはユアを背中に抱き上げる。柔らかな重みと、まだ微かに残る体温が彼の背中に伝わってくる。


 歩き出したアルバートのすぐ側で、ユアが小さな声でぽつりと呟いた。


「……お師匠さまに……キス、されちゃった……」


 その声は細く震え、恥じらいの色を帯びていた。しかしその中には、隠しきれないほどの『幸福』が滲んでいた。


 しかし、突然のユアの思わぬ言葉に、アルバートはふと足を止めた。


「お、おいユア?あれは……助けるために仕方なくしたんだ。人工呼吸のようなものでな……」


 動揺を隠しきれない声音で弁明するアルバートに、ユアはむすっと頬を膨らませ、可愛らしく抗議する。


「それでも女の子にとって、はじめてのキスってすごく大切なものなんですよ?責任、取ってくださいっ!」


 そう言ってそっぽを向いたユアの頬は、薄紅に染まり、どこかぷいっとした態度の中にも乙女の羞恥が透けて見えた。


(……はあ。拗ねたか。これはしばらく機嫌、直らないな)


 アルバートは内心で頭を掻く。たしかに医療行為とはいえ、年頃の少女に対して無神経すぎたかもしれない──そんな一抹の後悔が胸をかすめる。だが、もう過ぎたことだ。ここで拗らせても始まらない。何とか場を収めようと、アルバートは小さく息を吐き、ひとつ提案を口にした。


「悪かったよ。償いに何でもひとつ、言うことを聞いてやる。これで手を打たないか?」


 すると、横を向いたままのユアが、ふくれた声で聞き返してきた。


「……本当に、なんでもですか?」


「ああ。私にできることであればな」


 その返事を聞いた途端、ユアはくるりと振り向き、勢いよく告げた。


「じゃあ私を、お師匠さまのお嫁さんにしてくださいっ!」


「ああ、わかった……って、はあっ!?今なんて言った!?」


 あまりに衝撃的な言葉に、アルバートは思わず聞き返す。だが、返ってきたのは、彼の希望的な聞き間違いを、あっさり打ち砕くものだった。


「だーかーらーっ!私をお嫁さんにしてくださいって言ったんですよっ!」


「ユア……お前、本気で言ってるのか?」


「もちろん、本気ですけどっ?」


 そのあまりの真剣さに、逆にどう返せば良いのかわからず、アルバートは黙って歩き出した。


「ちょ、ちょっとお師匠さま!?無視ですか!?さすがにそれはひどいですよ!すっごく恥ずかしかったのに……乙女の告白を無視だなんてっ!」


 背後でばたばたと足音を立てながら、ユアは必死に抗議の声をあげる。


(……まったく、自分で『なんでも言え』なんて言うんじゃなかったな)


 心の中で嘆息しつつ、アルバートは現実逃避気味に肩をすくめた。そして気を取り直して、少しだけ柔らかな声で応える。


「……そうだな。もう少しユアが……魅力的な大人の女性になったら、その時は……考えてやってもいい」


 とたんに、ユアの顔がふくれ上がる。子ども扱いされたことが気に入らないらしく、今にも飛び跳ねそうな勢いで叫んだ。


「むーっ!もうっ!わかりましたっ!今はそれで我慢しますっ!でも私、ぜーったい魅力的な女性になりますからね!知らないうちに誰かにとられても知りませんからね!」


「はいはい……まったく。ユアはほんとに騒がしいな……」


 だが、その元気な声が聞こえることが、どこかほっとするのも事実だった。


「……まあ、そのくらい騒げるなら安心だな」


 そう呟いたアルバートの言葉を最後に、ユアは再び口をつぐんだ。拗ねたのか、それとも照れ隠しなのか──静けさの中でふと、彼の腕を掴むユアの手に、ぎゅっと力がこもる。


 そして、再び耳元で囁くように──彼女は、真っ直ぐな思いを届けた。


「お師匠さま……助けてくれて、ありがとうございました。……私、お師匠さまのこと、大好きです……」


 その声には、心からの想いと、揺るぎない信頼が込められていた。


 背中に触れるユアの鼓動が、まるで小鳥の羽ばたきのように速く打ち鳴らされる。それはまさに、彼女の『心そのもの』が伝わってくるかのようだった。


「……助けるのは当たり前だろ。私にとっても、ユアはもう──大切な存在だからな」


 アルバートの言葉に、ユアはまた、そっと腕に力を込めた。


 そのまま彼女を抱えたアルバートは、足を兵舎へと向ける。道中、淡く照らす月光が二人を包み込む。宿へ帰るその前に、やるべきことがあった。


「地下に囚われていた者たちを解放、保護し、エブハン伯爵を捕らえて牢へ拘束しておいてくれ。私も明日、牢に向かう。処遇はそのとき判断する」


 兵士たちはすぐさま敬礼し、的確に命を受ける。


「了解しました、アルバート様。至急、手配いたします!」


「すまないな。連れが戦闘で負傷していてな、治療を優先したい。あとは頼んだ」


 そう告げ、兵舎を後にする。そしてようやく予約していた宿にたどり着き、静かな部屋に入ると、アルバートはユアをベッドにそっと寝かせた。屋敷からの帰り道──すでに眠りについていたユアは、今は深く安らかな寝息を立てている。まるで、守られた子どものように穏やかな顔で。


「……まったく、世話の焼ける弟子だ」


 呆れたように呟きながらも、その声音はどこか優しい。ユアの髪をそっと撫で、彼も隣のベッドへ腰を下ろす。


 明日から、また任務が待っている。だが──以前とはもう、違う。任務が全てだった日々は終わった。今は、守るべき存在がいる。帰る場所がある。そして、自分がその『帰る場所』にならねばならない。


 ──もう二度と、彼女を泣かせぬように。


 アルバートは静かに瞳を閉じ、改めて心に誓う。己を鍛え直し、さらに強くなると。誰よりも頼れる存在となり、何よりも大切な少女を、確かに守り抜くと。


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