第17話 遠ざかる二人
クミラたちから何とか逃げ切った愁は、大森林の木々をかき分けながら全力で駆け抜けていた。足音を押し殺し、風のように軽やかに――それでも確実に村へと向かう。しばらくすると、眼前に彼の拠点である村の姿が現れた。村の様子は遠目からでも普段と変わらない、穏やかで落ち着いた雰囲気をたたえている。
(無事なようだな……)
愁は安堵しながらも、その静けさが逆に不気味に思えた。大森林の外で展開されている戦況を思い出し、自然と彼の顔には緊張の影が走る。慎重に〈気配探知〉を発動し、村の周囲、特にアイラフグリス王国方面を重点的に確認する。感知できたのは、非常に強力な存在が九名。そして、その九人には劣るものの、それでも十分に強大な戦闘力を持つ者が150名ほど。明らかに、王国は大森林に多大な戦力を投入している。
(これだけの戦力……だが、まだ村の場所は気づかれていないか)
今のところは、村に近づいてくる気配はない。しかし、それも時間の問題だろう。愁は気を引き締め、さらに警戒心を高めながら村へ足を進めた。
村の入口にたどり着くと、そこにはスフィア、ライト、そしてリリーニャの三人が待っていた。愁の姿を認めた瞬間、三人は安堵の表情を浮かべる。特にスフィアは、ふわふわの毛並みを持つ尻尾を嬉しそうに激しく振りながら、勢いよく愁に抱きついてきた。
「主様っ!よかった……心配したんだぞ!」
「ただいま、スフィア。心配かけてごめん。状況はどうなってる?」
スフィアの尻尾が愁の体に絡みつき、柔らかい感触が心地よい。普段なら、彼女は尻尾に触れると嫌がるのに、今日はそれどころではないようだ。その触り心地はまさに至福で、時間があればずっと撫でていたいほどだが、今はそんな時間はない。仕方なく愁はスフィアの肩に軽く手を置き、ゆっくりと彼女を引き離した。
「……ふぅ、無事でよかったぞ、主様……」
少し寂しそうにするスフィアに代わり、状況の報告をしたのはライトだった。
「外の状況についてはリリーから聞いています。現時点で、何者かに襲われたという報告はありません。村の住人たちにも自宅で待機してもらっています。スフィアさんの眷属たちにも森の偵察を頼んでいますが、すぐにここに到達する敵はいないと思われます。ただ、一つ問題がありまして……」
「問題?何があったんですか?」
ライトの表情は普段の冷静さを失っており、動揺と焦りが混ざった様子だった。言葉を詰まらせるライトに愁が問いかけると、やっとのことで彼は口を開いた。
「リアさんが……森に入ったまま戻ってこないのです……」
「リアが?どうして森に?」
「森に行く前、エリサさんと一緒にいたそうですが、料理に使う果物を取りに行くと言っていたようです。その後、リリーたちが戻ってきて今の状況を知り、急いで捜索に向かおうとしていたところ、愁さんが戻ってきたという次第です」
愁は眉をひそめた。村に戻る前、リアとは魔宝石を使って連絡を取っていた。遠距離での会話が可能なその魔宝石を通じ、帰ることを告げるとリアは喜び、「渡したいものがある」と楽しそうに話していた。それが果物を取りに行った理由だというなら、納得はできる。だが、この状況とタイミングは最悪だった。
「そうですか……外はかなり危険な状態です。俺がすぐに見てきます。ライトさんは、村の人たちにハンドベルを支給してくれませんか?使い方は簡単で、二回振るだけで結界が発動します。何かあった時はそれで身を守るように伝えてください。それから、スフィアとリリーニャ、村の人たちを俺が戻るまで守っていてくるかな?」
「わかった!でも、主様がいないと相手が多すぎて我らだけでは勝てないぞ。だから早く戻ってきてくれよ?」
「もちろん。出来るだけ早く戻るよ。それに、今から〈真界〉を発動させて守りを固める。この結界がある間は外には出られなくなるが、上位の結界だから、しばらくは外部からの攻撃に耐えられるはずだ。時間稼ぎにはなる」
スフィアは納得して頷いたが、隣にいたリリーニャは不安そうに愁を見つめていた。
「璃里、大丈夫?」
「あ……うん!少し怖いけど……愁くん、またいなくなっちゃうの?」
リリーニャの目には、わずかな恐怖と不安が見て取れた。しかし、愁は彼女に微笑みかけ、優しく答えた。
「大丈夫、すぐに戻るよ。だから村のみんなをお願いね」
リリーニャは、小さな体で精一杯の強がりを見せた。
「うん!わかった!任せて!」
それでも、その笑顔の裏には不安と恐怖が消えない。リリーニャの様子を見守っていたライトは、彼女の頭をそっと撫でながら、愁に向き直った。
「愁さんが留守の間、村のことは私たちにお任せください」
「いつもありがとうございます、ライトさん。それじゃあ、俺はリアを探してきます」
愁が踵を返し、村の外へと向かおうとしたその瞬間、彼の袖をスフィアがそっと掴んで引き止めた。振り返ると、スフィアは不安と焦りを浮かべた表情で愁を見つめている。彼女のエメラルドのような美しい瞳が微かに揺れ、心配を隠しきれない様子だった。
スフィアは、自身の眷属を通じて森の中の状況を感じ取っていた。彼女は、そこに潜む脅威を誰よりも理解している。森の奥には、愁でさえ危険とする強者が蠢いているのだ。そんな場所に、愁が向かおうとしている――その不安と恐怖を抱えつつも、スフィアは愁を止めることができない。彼が誰であり、何を成すべきかを理解しているからだ。ただ、無事に戻ってきて欲しいと強く願うばかりだった。
「主様……待ってるからな!」
「はいよ。それじゃあ、行ってくる!」
愁は軽くスフィアの頭を撫で、優しく微笑むと、素早く村の外へと踏み出した。
◇◆◇◆◇◆
〈真界〉の発動は単純だ。作成者である愁が常時展開している待機状態の〈真界〉に、魔力を流し込むだけで完全に発動する。愁は村の境界を出た途端、すぐさま〈真界〉を発動させるため、すべての魔力を注ぎ込んだ。すると、透明であった結界が一瞬にして可視化され、淡い光のドームが村全体を覆う。
「……よし、発動したな」
発動の直後、愁は強烈な倦怠感に襲われた。全身の魔力を放出した反動だ。しかし、時間はない。愁は素早くMP用のポーションを取り出し、一気に飲み干す。冷たい液体が喉を通り、まるで体の中心から力が湧き上がってくる感覚が蘇った。それと共に、体を覆う倦怠感も徐々に和らいでいく。
(さて……まずはリアの場所だ)
愁は気配探知を使い、村の周辺を確認した。だが、リアの反応はまったく感じられない。近くの木々に果物を取りに行ったはずなのに、彼女の存在が消えている。
(これだけの範囲で感知できないってことは……まさか、誰かに連れ去られたのか?)
愁の脳裏に嫌な予感が過る。リアが自力でこれほどの距離を短時間で移動するのは不可能だ。もしや、何者かによって拐われた可能性があるのでは――その考えが愁の中で急速に現実味を帯びてきた。
「くそっ……!よりにもよってこんな時に……」
怒りが込み上げ、愁の胸の奥に不安が渦巻く。深く息を吸い込み、吐き出すことで焦りを抑え込もうとする。そんな時、ふと愁の頭に一つの記憶が浮かんだ。
「……ん? そういえば……」
愁が思い出したのは、数ヶ月前の冬、リアの誕生日を祝うために王都へ行った時のことだ。街中で迷子にならないようにと、彼女に追跡用のアイテムを持たせていたのだ。それがまだリアの手元に残っているなら、彼女の居場所を特定できるかもしれない。
「そうだ……あれがまだ使えるなら……!」
愁はすぐさま、対となる追跡アイテムを『エンドレスボックス』から取り出した。それは直径三センチほどの小さな球体で、上部には細い紐がついており、下部には針のような突起がついている。愁はその紐を持ち、地図の上に球体をぶら下げた。すると、球体がゆっくりと揺れ、突き出た針が一点を示す。
「……見つけたぞ!」
針は絶えず少しずつ動き続けている。リアが今も動いている証拠だ。そして、示されている方向は――王都の方角。
「これは……王都に向かっているのか?」
まだリアは大森林の中にいるが、進む先は確実に王都への道だ。このまま王都に到達してしまえば、追跡は困難になるだろう。もし相手がただの盗賊なら容易に対処できるが、今回は違う。相手はアイラフグリス王国の手の者――それも、国王直属の騎士である可能性が高い。
(今の俺じゃ国と戦うには力も情報も足りない……だが、最悪の事態を避けるためには、ここでリアを救い出すしかない!)
幸い、まだ距離はそこまで離れていない。今なら、まだ追いつける――そう確信した愁は、〈縮地〉のを発動させ、その場から一気に駆け出した。空気が切り裂かれる音が響く中、愁は疾風のごとく森の中を突き進む。
(リア……待ってろ、今行く!)
彼の眼は鋭く、ただ一つの目標――リアの救出に向けてまっすぐに向かっていた。
◇◆◇◆◇◆
──遡ること1時間程前
リアは愁からの連絡を受けたその瞬間、心が弾むような足取りで食堂の厨房へと向かっていた。心臓が高鳴り、喜びが全身に広がる。彼の帰還を心待ちにしていた日々がついに報われるのだ。
厨房に到着すると、エリサが昼食の準備をしている光景が目に入った。大きな鍋では、刻まれた野菜と肉が煮え、立ち上る湯気と共に、食欲をそそる香りが室内を満たしている。リアは思わずその美味しそうな香りに、お腹がきゅっと鳴るのを感じ、笑みを浮かべた。
「エリサさん、お疲れ様です!」
「リアちゃん、どうしたの?」
エリサが柔らかな笑顔で振り返る。
「愁さまから連絡があったんです! 今日戻るって!だから、前に作ったカップケーキを焼いて待っていようかなと思って……」
リアの声には隠しきれない興奮が滲んでいた。胸の中の期待が溢れそうだった。エリサはそんな彼女の様子に、目尻を優しく下げながら微笑む。彼女が愁を待つ気持ちが手に取るように分かるからだ。
「そうですか、それは素敵ですね。おいしいケーキで愁さまを迎えなきゃですね。今はスープを作っているだけだから、好きに厨房を使っていいですよ。分からないことがあったら何でも聞いてね?」
「ありがとうございます! それじゃあ、厨房をお借りしますね!」
リアはすぐにカップケーキ作りに取り掛かる。彼女の手際は確かで、混ぜる、量る、混ぜ合わせるという一連の動作が、まるで舞踏のように流麗だった。前回よりも上手く仕上がった生地を見つめ、リアは小さな喜びの笑みを浮かべる。
「愁さま、喜んでくれるかな……」
しかし、カップケーキの生地を型に移し、焼こうとしたその時、ふと思い出したのは森で見つけた果物のことだった。先日、村の人たちと食料を調達しに行った時に見つけた、甘酸っぱい赤い果実――それを使えば、さらに美味しいカップケーキができるのではないかと考えたのだ。
(あの果物を添えたら、もっとおいしくなるはず……! そんなに遠くないし、すぐに取ってこれるよね?)
リアは一旦生地を置いて、スープをかき混ぜていたエリサの元に駆け寄った。
「エリサさん! あの森で見つけた果物、覚えていますか?」
「あの赤くて甘酸っぱい果実のこと? 覚えてますよ、とても美味しい果肉の果物でしたね」
「それです! あの果物をケーキに添えたいと思って、今から取りに行こうと思います!」
「えっ? ちょっと、リアちゃん、一人では危ないですよ? 行くなら誰かと一緒に──」
エリサが引き止める声も届かないまま、リアは軽やかに厨房を飛び出していった。彼女の中では、早く果物を取りに行かないと、愁の帰還に間に合わないという焦りがあったのだ。
◇◆◇◆◇◆
森に入ると、リアは目的の木を目指して駆け足で進んだ。村から十分ほどの距離にある果物の木に、彼女は数分で到着した。木には赤い果実が鈴なりに実っており、風に揺られ、太陽の光を受けてきらめいていた。
(どれが一番美味しそうかな……?)
リアは少し息を整えながら、果物を見上げ、慎重に品定めを始めた。愁が喜ぶ姿を想像し、気持ちは急いていたが、どうせなら一番美味しい果実を使いたい。その思いが彼女を急がせると同時に、品定めにも集中させていた。しかし、この場所は村の結界の範囲外であり、幻術も施されていない。リアはそのことに気づかず、色鮮やかな果実に気を取られていた。
ようやく、彼女は最も鮮やかで、美味しそうに見える果実を選び取り、満足げに微笑んだ。手にした果実は、大きすぎず小さすぎず、実がぎっしりと詰まっている。
「これが一番美味しそう……それと、これとこれ!」
リアは他にもいくつかの果実を摘み取り、持ってきた袋に丁寧に詰め込んだ。全ての準備が整った時、リアは満足げに袋を抱えて村へ戻ろうとした。
しかし、ふとした瞬間、背筋が凍るような違和感に気づく。振り返ると、森の影にひとりの男が立っていた。いつからそこにいたのか、彼女にはわからない。男は白い服を纏い、微笑んでいたが、その笑顔はどこか冷たく、ぞっとするような狂気を感じさせた。
「やぁ、お嬢さん。やっと見つけた。君を探してたんだよ」
「え……? あの、あなたは……」
リアの声は震えていた。目の前の男が笑みを浮かべて近づいてくるが、その目は笑っていなかった。まるで冷たい氷のような目で、じっと彼女を見つめている。
「僕はハルア・アルニトス。アイラスグリフ王国の勇者のひとりだよ。今日は君を連れて行くために来たんだ」
「わたしを……? なぜ……?」
リアの背後に冷たい汗が流れ、恐怖がじわじわと胸を締め付ける。ハルアは優しい言葉を投げかけるが、その眼差しは全く別のものを物語っていた。
「ごめんね。そこまで教えてあげる義理はないんだ。ただ、君には眠ってもらうしかない」
ハルアは一歩、また一歩とリアに近づいてくる。リアは後ずさるが、すぐに背後の木に追い詰められてしまった。
「……誰か、助け──!」
リアが助けを呼ぼうとした瞬間、ハルアの姿が一瞬で消えた。そして、次の瞬間には彼の手が彼女の口を塞ぎ、そのまま強引に木の幹に押し付けられる。
「んっ……! うぐっ……!」
背中に痛烈な衝撃が走り、呼吸が乱れる。さらに、口と鼻を押さえつけられ、リアは呼吸ができず、意識が徐々に薄れていく。視界が暗転し始め、彼女の中で唯一強く浮かぶのは、愁の姿だった。
(愁さま……!)
リアの心の中で愁を呼ぶ声が響くが、声にはならず、その願いは誰にも届かない。彼女の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。




