第16話 行動に抜かりなし
不思議と、覚悟していたほどの痛みも苦しみも感じなかった。代わりに、甲高い金属音が耳に反響し、周囲の音は一切聞こえない。音はただ深く、鋭く頭の奥まで突き刺さり、耳鳴りが止まらない。
(耳が……痛い……これが死ぬってことなのかな?)
そんな思いが一瞬脳裏をよぎるが、違う。自分はまだ生きている。恐る恐る目を開けると、ミザリカの振り下ろした巨大な大剣が目の前で止まっていた。正確に言えば、つい先程まで首元に突きつけられていた剣を受け止めているのは、艶やかで反りの強い黒い刀身だった。禍々しいその剣は折れも欠けもせず、大剣の重さを完全に受け止めている。
「な、なんで?なぜあなたが……私を助けるのですか?」
クミラは声が震えた。目の前で剣を構える少年――愁。彼は、自分が追い詰めようとしていた標的、本来なら敵であるはずの存在だ。それなのに、なぜ?
「なんでって言われましても……」
愁は一旦ミザリカを押し返すと、距離を取った。大剣を再び構えたミザリカに視線を向けながらも、困惑した表情でクミラの問いに答える。
「強いて言えば……手が届くから、ですかね?」
「手が届くから?それだけの理由で?私はあなたの命を狙っていたのに……」
「まあ、助けられるなら助けたい。それは自然なことでしょう?それに、あなたはユアちゃんの知り合いですよね。彼女が悲しむのは嫌ですから」
愁はそう言うと、再び迫り来るミザリカの攻撃を受け止め、鍔迫り合いに持ち込んだ。ミザリカの笑顔は凶悪で、その目には焦点がない。理性を完全に失っている様子に、愁は声をかける。
「なあ、あんた……わかってんのか?自分が何をしようとしてるか。あんたが殺そうとしてるのは、あんたの仲間だぞ?」
「ハハッ!殺シて……刺して……アハハハ!楽しいィィッのですわァ!!」
狂気に満ちた声で応えるミザリカ。彼女の言葉には理性もなく、ただの殺戮の衝動だけが残っているようだった。とはいえ、その動きには驚くほどの洗練があり、無謀な暴力ではない。愁は身を低くして大剣の一閃を躱し、隙を見てミザリカの腹部に蹴りを放つ。彼女の体は地面に叩きつけられ、苦痛に呻いた。
「クミラさん、どうしますか?あの人、説得は無理そうですが……」
愁はミザリカから視線を逸らさずにクミラに尋ねた。彼の問いはまるで、彼女がすべてを知っているかのようだった。
「えっと……」
クミラは一瞬迷う。ミザリカの今の状態を説明するには、勇者の力の秘密に触れなければならない。だが、目の前に広がる現実が、その迷いを吹き飛ばす。クミラは、すべてを打ち明ける覚悟を決めた。
「今のミザリカさんは……身に宿る聖気法力、つまり勇者の魔力とは違う力を限界以上に引き出し、暴走状態に陥った〈狂化〉状態です。きちんと力を御しきれれば、莫大な力をもたらす〈狂化〉ですが、力の制御を誤り、この状態になると、理性を失い、ただ攻撃的になります。意識を失わせれば、鎮めることができるかもしれませんが……」
「なるほど、了解しました。少し怪我をさせるかもしれませんが、気を失ってもらいます。援護をお願いします!」
愁は確信に満ちた声でそう告げると、起き上がろうとするミザリカに再び向かっていった。クミラも、すぐさま魔力を練り始める。焦ることなく、確実に束縛と睡眠を誘う術式を組み上げていく。指先が震えそうになるのを抑えつつ、呼吸を整えた。
「俺が隙を作ります。合図したら、お願いします!」
愁の声が戦場に響き、彼の剣が再びミザリカとぶつかり合った。まるで死を望むかのような、狂った彼女の斬撃。それでも愁は退かず、真っ向から受け止めている。その姿に、クミラは驚きを隠せなかった。自分たちの意図を的確に読み取る愁の洞察力に、彼がただの少年ではないことを改めて思い知らされたのだ。
クミラは深く頷き、魔力を集中させる。愁もまた、短く頷き返し、戦闘に意識を戻す。数えきれないほどの剣戟が交わされ、その音が夕日に照らされる森の空気を切り裂いて響く中、愁はミザリカの動きに僅かな癖を見抜いた。大振りの一撃を放つ際、彼女は一瞬、柄を握る手の力を緩めるのだ。加えて、彼女の攻撃はほとんどが大振りであり、その間に隙が生まれることを先の戦闘で察知していた。
(狙い所は……ここか?)
愁は少し後方に下がり、ミザリカを誘い込むように距離を取った。すると、予想通り、ミザリカは間髪入れず距離を詰め、大振りの斬撃を放ってきた。鋭く横一閃に振り抜かれる大剣。その勢いは凄まじいものの、軌道が読みやすいため、愁はすっと後方にさらに一歩下がり、攻撃をかわす。ミザリカの斬撃が空を切り、大剣の軌道を修正しようとしたその一瞬――
(……今だっ!)
愁は見逃さなかった。ミザリカの手が一瞬緩むその瞬間を狙い、全力で宵闇を振り下ろす。黒い刃が高く掲げられ、力強く大剣に叩き込まれる。甲高い金属音が響き、ミザリカの大剣は愁の剣と地面に挟まれた形となる。そのまま体勢を崩した彼女に向けて、愁は間をおかずに強烈な回し蹴りを放った。
「クミラさんっ!今です!」
愁の合図と共に、クミラは練り上げた魔力を解き放った。前に突き出した右手には、複雑な魔術文字が輝きながら浮かび上がり、魔法陣が形を成す。彼女はミザリカを見据え、強く、そして確実に言葉を紡いだ。
「対象を即時束縛せよ!」
瞬間、白い光の糸が現れ、ミザリカの体をがんじがらめに拘束した。彼女の体が地面に落ちる前に、クミラは光の糸を手繰り寄せ、ミザリカを自分の前へと引き寄せる。接近した彼女の額にそっと右手を置き、静かに、しかし力強く最後の呪文を唱えた。
「深い眠りを以て安息の界へと誘わん……」
クミラの右手に集められていた魔力が、静かにミザリカへと流れ込む。その瞬間、彼女の瞳から光が失われ、意識は深い眠りに落ちていった。ミザリカの体は、まるで糸の切れた人形のように動きを止め、その場に静かに横たわる。
クミラは息を整え、愁のいた方向に視線を向けた。しかし、そこに彼の姿はなかった。まるで風のように、彼は消え去っていたのだ。
「……抜かりないですね。してやられました。でも、悪い人ではなさそうです……」
クミラは微かに微笑み、愁のことを思い返した。彼は敵でありながらも、自分を助け、共闘してくれた。それに加え、何の見返りも求めずに姿を消す彼の振る舞いは、クミラの中に奇妙な安堵を残していった。
「さて、どうするべきか……」
目の前で眠るミザリカを見つめながら、クミラは次の行動を考える。彼女が目を覚ます前に、安全な場所へ連れ帰るのが賢明だと判断し、そっと彼女の体を抱き上げた。その動作には、優しさと決意が込められていた。ミザリカをしっかりと拘束したまま、クミラは〈飛行〉の魔法を発動し、空へと浮かび上がる。彼女は一度戦線を離脱し、アイラスグリフ王国の王城を目指して飛び立った。




