WORLD CREATOR
「──もう、お別れなんだね……」
震える声と共にそう呟いたのは、妹の愛音だった。悲しみに濡れた瞳がこちらを見つめているのがわかるのに──愁はもう、声一つ発せられなかった。
喉が塞がれたかのように、息がうまく通らない。体は重く、腕も、指先も動かせない。唯一残された感覚は、かすかに残る視界と聴覚、そして胸元に感じる微かな体温──それだけだった。
(……もう七年か。短かったな)
日本有数の巨大企業──八乙女財閥。その跡取りとして生を受けた少年、八乙女 愁は、生まれながらにして『選ばれた者』であった。
英才教育と恵まれた環境の中で、愁は卓越した知能と才能を発揮し、財閥の次期当主としての道を何一つつまずくことなく歩んでいた。将来を嘱望される存在。周囲はそう口を揃えた。
しかし──それは、たった一つの病によって音を立てて崩れ去ることとなる。
愁が十歳を迎えた頃のことだった。
もともとよく転び、つまずきやすかった彼の様子を不審に思った家族が精密検査を受けさせた結果、『ある特異な病』が発覚したのだ。
その病は極めて稀で致命的。脳以外の身体機能が急速に衰え、数ヶ月のうちに自力での生命維持すら困難になるという、非情な現実を突きつけられた。
医学の粋を尽くしても、治療法は存在せず、希望は失われたように思えた。だが──彼の両親は、最先端の技術に賭ける決断を下す。
それは、当時空前のブームとなっていたフルダイブ型VRデバイスを用い、愁の『脳』だけを生かし、仮想世界での延命を図るという極限の選択だった。
現実の肉体は完全に機械制御へ移行し、意識はバーチャル世界へと移される。こうすることで、余命半年と宣告された命は、理論上『五年から十年』まで延ばすことが可能となった。
あれから、現実の肉体を失い、脳だけで生き延びて七年。
そのすべてを費やした仮想世界での旅は、どこまでも鮮やかで、そして温かかった。
──『WORLD CREATOR』。それは、ゲーム開始と同時に自動で決定されるステータスやスキル、プレイヤーの選択が世界を形作るほどの圧倒的自由度を誇る仮想世界の名だ。
地球の半分に匹敵する広大なマップには、無数のダンジョン、種族、文明が存在し、人間、亜人、魔族、エルフ、ドワーフ、果ては神話に登場するような存在までが命を持って生きていた。
その第二の世界で愁が選んだのは、『物を創る者』──クラフター職だった。
彼の並外れた創造力と緻密な構成力は、ゲーム内でも遺憾なく発揮され、限られた能力と素材の中から、最大限の成果を引き出し、建築から道具作成、武具強化に至るまで、彼は職人として頂点を目指して邁進した。
そして、世界に五つしか存在しない冠位のひとつ──『クラフトマスター』の称号を手に入れ、ギルド『Infinity Quest』を創設し、仲間たちと共に国『ゼニス』を築き上げた。
その国は世界の頂点に立つ十人のプレイヤーによる強国連合との戦争を制し、ついには世界序列一位の栄誉を手に入れ、その名は、ゲーム内における“神話”として語り継がれることになる。
──そして、時間は過ぎ、彼が十七歳を迎えたある日。
愁はその長き冒険の旅路の終わりに立っていた。命の終わり──最期の瞬間を、六人の仲間たちが取り囲んでいる。
手を握りしめ、声を詰まらせながら泣くのは、最愛の妹、八乙女 愛音。本当ならば彼女の頭を撫で、笑いかけてやりたかった。けれど今は、それすら叶わないのがもどかしい。
その隣では、両手を静かに組み祈るように見守る女性がいる。父が用意してくれた人工知能AI搭載のメイドにして世話係──朔夜。今や彼女は、感情という“人の心”すら宿していた。
ベッドを挟んだ向かい側には、愁がクラフトマスターの特権である〈生命創造〉の権能により生み出した二人の元領域守護者たち。
ひとりは、かつて『絶界深淵領域 真闇城』を守護していた吸血姫──ミーシャ。
いつもは冷徹な態度を崩さぬ彼女が、今だけはそっと愁の髪を撫で、母のような温もりを与えていた。その掌から伝わる微かな体温が、愁の心をやさしく溶かしていく。
もうひとりは、理知と威厳を備えた神龍の如き存在──『神龍守護領域 紅城ハザル』の守護者、ヴルムヴィード。
彼とは数え切れぬほど物を作り、知識を交わし合った。ある意味では兄のような存在だった。
「愁……すまない。君を救うことができなかった」
(……ヴルムヴィード、君があまり謝るからさ、かえってこっちが申し訳なくなるよ。でも、そういうところが君らしいよな)
彼は愁の命を少しでも延ばそうと様々な研究を続けていた。だが、それは間に合わなかった。その無念を何度も口にしていた彼の誠実さに、愁は感謝しかなかった。
そして、枕元にはふたりの若者がいた。
ひとりは、かつて愁に憧れて弟子入りを志願した少年──ぽるぽ太、こと、柳生 蒼太。
今では個人世界序列四十五位の実力者。けれど泣き虫な性格だけは変わっておらず、今も大粒の涙を零していた。
もうひとりは、海外から同じく仮想世界にやってきた少女──フレンダ・スカーレット。
現実では愁とは違う病に倒れ、愁と同じように脳だけで生きていた。
二年前、彼女がこの世界に迷い込んだとき、愁が手を差し伸べたことが出会いとなり、彼女もまた数々の冒険を共にする盟友となった。
今や個人序列二十三位のトッププレイヤー。気丈で勝ち気な彼女が、今は泣き崩れて愁の名を呼んでいる。その涙がどこまでも純粋で、心からのものだと伝わってくるだけに──愁は逆に嬉しかった。
(……最高の仲間たちだ。本当に、ありがとう)
この六人が、ギルド《Infinity Quest》の中心メンバー。
そして、彼らで築き上げた王国『ゼニス』は、愁の遺志を継ぎ、ミーシャが統治者として守ると誓ってくれた。
──『Zenith』は、不動の頂点。その名のとおり、彼らの魂が灯した火は、きっとこの世界が終わるその瞬間まで消えることはないだろう。
(俺は、なんて幸せ者なんだ……。こんなにも優しい人たちに囲まれて、最期を迎えられるなんて)
……でも、それでも。
(これが本当に“最後”なら──)
愁は、かすかに残った力を振り絞り、声にならぬ声を吐き出した。
「──笑って……くれよ」
その一言に、皆がはっと顔を上げた。驚きとともに、すぐに優しさが満ちる。
泣き顔を笑顔に変え、六人の手がそっと愁の胸元の手に重ねられ、重なった手の温もりが、微かに残った神経を通して、愁の心に染み渡る。
「……あり、が、とう……」
掠れる声とともに、脳裏を駆け抜けるのは数え切れぬほどの思い出。仲間と笑い、悩み、戦い、泣いたすべての瞬間が、春の桜の花びらのように舞い散りながら意識の奥に消えていく。
──その時。愁の瞳に映った最後の光景は、悲しみではなく──六人の『笑顔』だった。
それは「さようなら」ではなく、「また会いましょう」という再会を願う言葉と共にあった。
「どうか、貴方の旅が永遠でありますように──」
ミーシャの祈りと共に、彼女の頬を伝う涙が一粒、愁の頬に落ち、ゆっくりと頬を伝う。
『八乙女 愁』という少年が求めた、永遠に続く冒険の旅──『Infinity Quest』。その物語が終わることなく、再び始まることを願って。




