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母親は忙しい

「冬華……さん?」


 僕は恐る恐る、名を紡いだ。

 反応を伺おうと覗き見た彼女の顔は、僕の見間違いでなければ朱色に染まっていたように見えた。


「……さんは、いりません」


 ボソッと呟かれた一言。

 僕にはハッキリと聞こえた。


「えっと、冬華?」


 戸惑いを孕んだ声だったという自覚はある。

 しかし、それに彼女は――冬華はさらに頬を染め上げる。


 そして、それに応えるようにして、彼女も小さく口を開く。


「ひいら……じゃなくて、奏……くん?」


 新鮮な響きだ。

 照れたように呼ぶ、その初心な感じがまた、僕の心を強く惹く。

 辿々しく、慣れない呼び方に“萌え”というものを感じた。


 キュンと、胸の奥が高鳴った。



「青春だね〜」


 しかし、陽気な水穂さんの声が僕たちを一気に現実へと押し戻す。

 ニマニマとした笑みを貼り付けたまま、彼女は僕と冬華の間で視線を巡らせる。


 不覚を取った、と冬華は思わずたじろいだ。

 まあ、実の親にこんな光景を見られるのは、たしかに恥ずかしい。


 僕だったら半日はベットにうずくまって引きこもりをしているところだ。


 だが、彼女は赤面しながらもそこまでの動揺はない。

 意外だ。

 いや、内心では羞恥を爆発させているのかもしれない。

 それを外に出さないだけで。


 彼女はなんでもない風を装いながら、ソファに腰掛けた。


「ひ……奏くんも、座ったらどうです?」


 まだ呼び慣れないのか、どもりながらも僕を呼ぶ。

 ぽんぽんと隣を叩いているのは、そこに座れということだろうか。

 僕はそう解釈して、大人しく冬華の隣に腰を下ろした。


 水穂さんの顔に、より一層笑みが広がる。


 彼女が何やら口を開こうとしたところで、ヴーヴーと携帯に着信が。

 開きかけた口をつぐみ、面白くなさそうに携帯を手に取って耳元に当てる。


「もしもし」


 社会人特有の電話の時は声のトーンが一段階どころか二段階ほど高くなる現象を垣間見た。

 これが営業用の声、か。


 しばらくは「ええ」とか「はい」とか相槌を打ったりだったが、それからややあって、水穂さんの叫びが反響。


「い、今からですか!? いやでも、今日は休み……いえ、あの……はい。分かりました」


 何やら慌ただしい。

 ワタワタと必死になっている水穂さんは初めて見るかもしれない。


 どうしたのだろう、と僕は電話を切ったところを見計らい声をかける。


「どうしたんですか?」と。


 すると、水穂さんは意気消沈、といった重く、疲れたような顔でポツリと呟いた。


「今から、仕事行ってくる……」

「え……?」

「人が少なすぎて手が回らないから、今すぐ来て、って……」


 なんでも、クリスマスイブってことで、客足が多く、予想よりも人手が足りない状況になってしまっていたらしい。

 なんとも間抜けなことだが、そこで水穂さんに白羽の矢が立ったのだとか。


「でも、断ればよかったんじゃ……?」

「それは……無理よ。うちの上司、こういうの断るとネチネチネチネチ嫌味言ってくるし……だから彼女の一人も出来ないで、クリスマスイブにまで仕事してるのよ」


「寂しい男よね」とため息をつきながら、水穂さんは支度を始める。


 部屋を移動して仕事用のキッチリとした服に着替えて、さらに仕事用のバッグを手に持つ。

 これだけで、印象は一児の母からバリバリの女性会社員へと早変わり。


「それじゃあ、私は仕事に行ってくるけど、二人はクリスマス楽しんでね……食べ物は一通り準備しておいたから」

「あ、はい。ありがとうございます」

「えっと……お母さん、頑張って」


 水穂さんは苦虫を噛み潰したように眉をひそめ、苦笑する。

 しかし、すぐにその微妙な顔を引っ込めてニヤリと笑う。


「あ、そうだ奏くん、もしなんだったら今日はうちに泊まっていってもいいわよ? 部屋は空いてるところあるし……なんなら冬華の部屋でも」

「ちょっと、お母さん!?」


 水穂さんの声にかぶせる形で白月さんが絶叫した。


「冗談よ、冗談」


 さっきまでの複雑な顔は何処へやら。

 水穂さんは朗らかに笑った。


「今日はまだ時間もあるし、家でご飯食べるだけじゃなくて、外に出てみるのもいいかもしれないわよ?」

「え、でも、これどうするの?」


 これ、とは大量に用意されたご馳走。


「食べ物は残してもしばらく持つし、というか、二人だけであんな量食べれるはずないから残しといて。いざとなったらご近所に配ればいいしね」


 なるほど、と思った。

 そういう手もあるのか。

 余ったら近所の人に、という発想は僕にはなかった。

 というよりも、そこまで近所付き合いのない僕には余り物を渡すような仲のいい隣人などいないので、そこまで至らないのは当然か。


「ま、そこらへんは二人で相談して決めてね。……それじゃあ、いってきまーす」


 嵐が過ぎ去るかのように、水穂さんは足を進める。

 バタンと、扉が閉まった。


ふむ、ブラックかな?

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