とある男の話
目が覚めると知らない部屋のベッドに横になっていた。体は重く、思うように動かない。
周囲を見渡すが、視界がぼやけている。辛うじてベッドの左側に窓とテレビ台にテレビが置いてあること、右側には洗面台と扉が見えた。
なぜここにいるのか、思い出そうとするが記憶がない。つい最近まで自分は仕事をしていて、妻と平凡だが、充実した日常を送っていたのは覚えている。
ともかくここから帰らなければ。そう思ったとき、扉が開いた。視界がぼやけているため顔はよく見えないが女性のようだ。その女性は笑顔で話しかけてくる。
なんだ?うまく聞こえない。まるで違う言語、日本語ではないかもしれない。
「あんた誰だ?」
そう聞いたが、その返事はやはり聞き取れない。この女性は淡々と話をするが理解することはできなかった。
女性は一通り話終わると、笑顔でこの部屋を後にした。その笑顔は顔に張り付いたかのようで、不気味に思える笑顔であった。
「いったいなんなんだここは、明日も仕事があると言うのに。」
状況はわからないが、まずは外へでてみることにした。
重い体を起こし、扉へ向かう。扉を開くとそこには同じような扉が長く白い廊下に無数にあった。
「なんだこれは...」
まるでSF映画の研究所を彷彿とさせる廊下だった。唖然としていると、さっきとは別の人、男性のようだ。キャスター付の台にパソコンを乗せ、それを押しながら驚いたように近づいてくる。
その男性も話しかけてくるが何を話しているかわからない。
表情は少し怒っているようにも見える、自分が外には出ていけないようだ。
話が終わるとまた部屋へ引き戻されそうになる。
「まて! なにをするんだ! やめろ!」
抵抗するが男は一歩も引かない。貧弱そうだが、やたらと力が強かった。
そのまま部屋へ戻され、ベッドに横にされた。
「クソ! なんなんだこれは!」
訴えたが男は聞く耳を持たない。もう一度扉へ向かおうとしたが、疲労感と眠気が襲ってきた。やけに疲れやすい。
自分はそのまま眠ってしまった。
目が覚めると外は暗く、夜となっていた。腹部に違和感がある。
そこには体をベッドに張り付けるようにベルトがされていた。体を動かしても、起き上がることするできない。
「おい! 誰か! 助けてくれ!!」
大声で叫ぶ。すると昼間来た女性が扉から入ってきた。その笑顔は昼間よりも疲れている様子だった。
「外してくれ! 頼む!」
そういうと、女性はまた何かを話すが聞き取れない。
「だから何いってるかわかんないんだよ!」
大声を出すと、女性は怯えるようだった。声は小さくなり、より何を言っているかわからない。
女性はそこから逃げるように扉から出ていった。
しまったと思ったが、もう手遅れだった。いくら叫んでももう誰も来ることはなかった。
「先生、親父はどうなんですか?」
初老の男が医師に質問した。
「アルツハイマー型の認知症です。それと重度の難聴です。意志疎通をはかってますが、なかなかこちらの言うことを聞いてくれません。また、外へ出たり徘徊してしまいます。先ほど体幹抑制の同意書いただきましたので、今は体幹抑制ベルトで大人しくされています」
初老の男は肩を落とした。
「最近は俺が息子ってことも忘れちゃったみたいなんです。正直ショックです。それにまだ自分は仕事してるって思ってるみたいで、90間近のじじぃがなにいってんだか...」
男は寂しそうに話した。
「アルツハイマー型の認知症は進行性です。今のところ改善する薬はありませんが、進行を送らせることはできます。今後のためにも頑張っていきましょう」
医師は無表情でそう話した。