遠く異境も同じ空
「空の港とは上手いことを言ったものだね。どこの誰が名付けたのかは知らないが、素直に賞賛を贈らずにはいられない。ならばあの鉄の翼どもは、さしずめ大空という海原に漕ぎ出す船というわけだ」
「お前がポエムに興味があるとは知らなかったよ」
「何を言うんだい。音楽も詩も広義では芸術だ。問題あるまい」
「問題はないけどな」
俺は半目でミツキを見やる。ミツキはいかにも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)とした態度を保とうとしているが、
「怖いんだろ。バレバレだぞ」
「…………」
言うとミツキは明らかに顔をひきつらせた。口角がひくついている……バレてないとでも思ってたのか。それでなくとも顔色が悪いし、声音も端々(はしばし)が震えてるしな。
「全く君はデリカシーというものが足りないね……乙女の弱いところへ容赦なく切り込むとは」
「そいつぁ失礼した。けどお前が飛行機苦手とは知らなかったな」
「別にいいじゃないか。誰だって不得手はあるさ」
ふんとそっぽ向くミツキ。そーですかと応じつつ時計を見る。まだ時間はあるな。
空港だ。そして搭乗口前。俺がここにいるのはミツキの送り出しというわけだ。
「しかしフランスとはまた遠いな」
「はは、そうだね。寂しいかい?」
俺は軽く肩をすくめた。ちぇ、とミツキはまたそっぽを向く。
「手続きは終わってるんだろ? しかも全額大学負担とは豪気だな」
「そうだね。あとは私が行くだけだ。まあうちと向こうの音大の協定だしね」
留学だ。俺ではなく、ミツキの。バイオリンで特待を得ているミツキはその才能が認められ、フランスに留学しつつ国際コンクールに出場するらしい。
普通に文系大学に通う俺には世界の違う話だが。
「さて。フランスはパリと日本との時差は約8時間。距離にしておよそ一万キロだ。そして留学は2年間」
悪戯っぽく笑むミツキ。何が言いたいと視線で促すとふふと笑い、
「ちゃんと待っていられるかい? 若い身空に2年は長いよ」
「なに、過ぎ去ってしまえばすぐさ」
「それは過ぎ去ってから言う台詞だよ。それまでが辛いんだろう。大丈夫かい?」
「心配か?」
「心配だね」
即答しやがった。さらに両腕を大げさに広げて、
「いくら私が魅力的でも、それだけ間が開けば君は手近な女の子を襲いかねないからね」
「そんなわけがあるか」
「なんだ、私は魅力的ではないのか?」
「え、いやそっちでなく……」
急にしおらしくなって上目遣いになるミツキ。
悪女め。
俺は視線を逸らして曖昧に濁す。
「不安だな、実に不安だ。私の居ぬ間に女遊びが酷くならないか心配だ」
「なるかよ」
「それじゃあ絶対浮気しないって約束してくれる?」
「ああ、するよ。するする」
「ずっと待っててくれる?」
「待つ待つ」
「他の女の子とイチャつかない?」
「しないしない」
「他の女の子に触れたら駄目だよ? 話も駄目だよ?」
「いやそれはちょっと……てかお前キャラ違うだろ」
「だって不安なんだもん」
もんって。
くそ、ちょっと可愛いじゃないか。
「私が帰ってくるまで、ちゃんと待っててくれるって約束してくれる?」
「さっきも言ったろ。待つよ。待つ待つ」
「それじゃあ、私が帰ってきたら結婚してくれる?」
「するよ、するする。結婚する――あ? なんだって?」
慌てて訊き返すももう遅い。見ればさっきまでのしおらしい様子など露ほどもなく、満面に笑み。
「よし、これで言質はとったね。ちゃんと録音もしておいたから。約束破ったら針十万本だ」
「桁が……」
ボイスレコーダーをちらつかせる。全て確信犯か。
悪女め。
「ちょっと待ってくれ」
「嫌なのかい?」
「嫌じゃないけど……」
「ならいいだろ」
時間だね、とミツキは踵を返して保安検査場へ向かう。見れば確かにもう搭乗口に入らないといけない時間だ。
「あ、おい」
「夏休みにでも遊びにおいでよ。屋根は貸すよ。お金は君持ちだけどね」
「ちょっと」
「大丈夫だよ」
肩越しに振り返ってミツキは笑う。何が、と見ると、
「西洋のイケメンにもなびかないから」
「いやそうでなく」
「はは、君のお陰で飛行機も余裕で乗れそうだ。礼を言うよ」
ミツキは本当に嬉しそうに、上機嫌で踏み出した。
「それじゃあ、また必ず会おう。――楽しみにしているよ」
軽く手を振って、ミツキは荷物を引き取って歩き始めた。あっさりとした別れはさすがミツキらしい。
呆然と見送っていると、保安場を通過したミツキが振り返ると頭上で大きく手を振り、
「それじゃあまた後で! 向こうに着いたら連絡するよ!」
係員も苦笑じゃないか。俺も思わず笑ってしまいながら、軽く手を振り返す。
全く、とミツキの背を見えなくなるまで見送って、俺は苦笑をさらに深めた。
「親に何て言えばいいんだよ」
俺の方が空を飛んでいるような気分で、俺は頬を掻いたのだった。