早春の白球
春の日差しが雲に隠れた午後の事だった。先日までの好天から天気が徐々に変化して、今はどんよりとした曇り空になっていた。
新学期を控え、新年度初の練習が始まろうとしていた。山本第二中学校、通称山二はいわゆる弱小野球部だった。県大会出場どころか、郡大会で1勝したら皆が驚くという、その程度の学校だった。それでも部員は日々懸命に白球を追いかけていた。
「天気が悪いな~。雨にならなきゃいいけどな」
誠司がそうつぶやいた。小柄で日に焼けた姿はまさしく野球小僧だ。いがぐり頭をなでつけ帽子をかぶる。決して筋骨隆々としているわけではないが、スポーツ少年の引き締まった身体をしていた。
誠司が言うように天気はよくなかった。雨こそ降っていないものの、雲はかなり厚く暗ささえ感じるくらいだった。
「それでも今日が初練習なんだからしっかりやらねぇとな」
外に出てきた雄一が、隣から声をかけた。今年中学3年生になる彼は身長175cmと恵まれた体格をしており、4番ライトを担っていた。誠司と並ぶと頭一つ大きいような印象を受ける。バッティングは豪快で、芯にあたった時の打球は眼を見張るものがあった。
他の部員も集まり、ホームベース付近で待っていた。皆ひそひそと話している。肩が微妙に上下したり、視線をしきりに動かしたりしていた。彼らが落ち着かない様子をしていたのは新しく赴任する監督がどんな人物かを気にしてのものだった。
今年の3月、人事異動で前監督の山田先生が転勤した。今年56歳になるベテラン教師で、5年間監督を務めていた。教師としては安定感があり生徒や保護者からの評判も悪くなかった。ただ、野球部監督としては考えが古く時に高圧的になるところから評判は芳しくなかった。また彼の技術的指導は、表現はそれらしいものの必ずしも的を射ていないことがあった。実際のところ5年間で群大会突破が1度だけで、その時も県大会1回戦でコールド負けと散々な成績しか残せなかった。周囲からは選手の実力不足と同じくらい指導力不足が指摘されていた。
「まぁ監督が変わったって、俺らがやらなきゃ意味ないんだけどな」
田中が少し大きな声でそうつぶやいた。皆が釣られて笑った。ただその笑いは失笑に近いものでありどこか後ろ向きな響きがあった。
(そう、俺らがやらないといけないんだ。あんまりパッとしない俺らが、どこまでやれるんだろうな)
雄一はこう考え、周りにわからないように少しだけため息を付いた。
監督が変わったからと言って自分たちが急激に成長するというようなことを考えるような部員はあまりいなかった。雄一の長打力が目を引く程度で、他の部員は可もなく不可もなく、どちらかと言うとセンスのない選手が多かった。細かい技術もそうだが、チームワークも平凡だった。クラスでは仲が良かった。和気藹々としているという面ではこれ以上ない雰囲気のチームではあった。しかし、そこには厳しさがなかった。エラーに対して叱咤するような、改善点を率直に指摘しあうような、そういう活発なやり取りを通じて得られる強い絆というものは彼らにはなかった。仲良しこよしのぬるま湯集団。山二野球部とはそういうチームだった。
それでもこうして新しい出来事に心が揺れるというのは、彼らの純朴さの表れであったかもしれない。変化というものに心沸き立つその姿は、幼ささえ感じさせた。結局のところ、彼らはどこにでもいる中学生であった。
ふっとざわめきが消えた。職員室の方から人が歩いてきたのだ。スッキリしたシルエットの、赤と黒のジャージを着た男性だった。背は低いほうで、雄一より小さそうだった。170cmより低そうな背丈だったが、体つきはかなりがっしりしており、きびきびと歩く姿には風格のようなものさえ感じられた。
彼が近づいてくると姿がよりはっきりとしてきた。年はかなり若そうだった。髪がやや長めでテレビに出てくるイケメン俳優のようなシルエットだった。ワックスは使ってないようだったが、何か整髪剤はつけているのか非常によくまとまっていて清潔感があった。顔立ちは特に美男子というほどではないが、日焼けした精悍な顔立ちは人に良い印象を与えるものだった。
だが、彼の目を見た時、部員たちははっとして背筋を伸ばした。切れ長で少しつり上がった目は真っ直ぐ彼らの方を向いていた。目の前で家が倒れ火事が起き大勢の人が亡くなったとしても、ただひたすらにそれを見つめていそうな、そんなはっきりとした目であった。現実をありのままに見据えありのままに理解しそれでもなお立ち向かうような目であった。彼らが今まであったことのないような人間であることを、直感せざるを得なかった。
監督は短く挨拶をした。2年間高校で非常勤講師をしてきたこと。新採用でこの中学校に来たこと。野球は大学までやっていたこと。そんなことを話した。
雄一たちは喉が乾いているのを感じた。監督の声ははっきりとよく通り、耳だけでなく頭のなかまで響いてくるような気がした。高ぶることも臆することも気負うことも一切ない、落ち着いた声だった。ただひたすらに平常心で、自分と部員、話す人と聞く人、そのコミュニケーションの場に意識を集中しているようだった。雑念を一切感じない様には刃物のような鋭さを感じた。全身から格の違いがにじみ出るようだった。
(25くらいの人だろ? なんでこんなに……)
雄一はただただ圧倒されていた。決してどこにでもいるような人ではなかった。たぶん、金メダリストにでも会ったら、同じような気持ちを感じるのかも知れない。
「ではこれから練習を始める。準備運動をしたらすぐに守備位置に付くように。実戦形式で打撃練習をする」
彼らは一瞬戸惑った様子を見せたがすぐに返事をしてとりかかった。監督が何を考えているのかはわからなかったが、自分たちを試すような気がした。上等だ、誰かがそう独りごちたような気がした。純朴な彼らは、ただ新しい指導者にいい格好をしたいと思い、いつも以上に張り切った。グラウンドを白い塊がとたとたと行ったり来たりした。
準備運動が一通り終わる頃、監督の姿を見た誠司が驚いたような声を上げた
「監督、投げるんすか!?」
皆の視線がブルペンにいる監督に注がれた。監督はいつの間に用意したのか、ボールのカゴをおいてネット相手に投げ込みをしていた。セットポジションから左足をゆっくり胸の位置まで持ち上げて、そして左足をピンと伸ばしながらお尻を落とし、流れるような体重移動する。左足が着地した瞬間、軸足を内側にぐいっとねじり一気に下半身が回転してパワーを作り出す。体幹が下半身の急回転により最高度にねじられていき、そして連動して一気に元に位置に戻ろうと力が開放され上半身の切り返しが始まる。それに合わせるようにリードしていた左手を巧みに折りたたみ右腕の投球動作につなげていく。全身のパワーが伝わった右腕は肩の内旋・前腕の回内と急激に動作して一気にリリースまで至った。放たれたボールは唸りを上げてネットに吸い込まれていった。
監督の投げるボールは恐らく130km/hは出ていたのではないか。素人では絶対に投げられない、本格的なボールだった。170cmに満たない身体であれだけの速球を投げるというのは、相当鍛え込んでないと難しいはずだった。現役時代はどれほどのものだったのか。部員たちの頭にはテレビで見る高校球児の姿が思い浮かんでいた。
監督は1カゴ分投げ終わると、控え選手に守備につきレギュラー陣がまずは打席に立つように指示した。そして雄一が打席に立った。
雄一はゆったりと左打席に入り、左手でバットの真ん中を持ち、右足で足場を三回蹴った。そしておもむろに右手でバットの端を持ち反時計回りにぐるっと回しながら右手をピッチャーに向けて突き出してバットを立てた。色々なプロ野球選手を真似てするようになった彼なりの儀式だった。そしてバットを下方に回しながら左肩口に持ってきて構えに入った。非常に堂々とした強打者めいた構えだった。
(まずは軽く腕試しに投げてくるだろうな。真ん中辺りに来るだろうから、思いっきり振っていこう。俺がどんなバッターか早く知ってもらおう。でも本気で投げられたらちょっと手がでないかもしれない……)
雄一の頭を様々な考えが巡った。そして監督がセットアップからゆったりと投球動作に入り、流れるような力感あふれるフォームでボールを投げた。速球が唸りを上げて、雄一の顔面近くに飛んできた。雄一が尻餅をついた。キャッチャーがボールを弾いた。そしてグラウンドが騒然とした
監督のボールは120km/h後半でインコースの雄一の顔の高さを通り過ぎた。横に関してはストライクゾーンをやや外れた程度だったが、高さは明らかに顔のあたりだった。もし公式戦でこのボールが投げられたら、状況によってはひょっとしたら含むものを感じたかもしれない、際どいボールだった。
「マジかよ……あんなボールから入るか?」
田中のいうことはベンチに控える部員たちにはもっともなことに思われた。普通バッティングピッチャーは相手の打ちやすいところに投げるものだ。バッターが気持よく打っていき、最後の数球実戦を意識した厳しいボールを投げる。それが常識だった。
監督は、しかし平然としていた。慌ててボールを追いかけたキャッチャーから返球を受けると、ロージンをぽんぽんと二回はたき、サインを出してセットポジションに入った。
雄一は混乱したまま立ち上がった。左肩にバットを担ぎそのまま構えた。そして微動だにしなくなった。彼の立ち姿からは緊張だけが伝わってきた。
そして2球目が投げられる。力感あふれるフォームから内角をえぐるボールが放たれた。内角高めのストライクゾーンぎりぎりのところを突いた。雄一は先のボールの残像が司会をよぎり、一瞬固まった。その一瞬のためらいの間にボールはミットに吸い込まれていった。
雄一は明らかに動揺していた。これは一体何なんだろう。自分は今何をしているんだろう。脂汗が背中に流れる。監督の背後を守る守備陣も内心の動揺を隠せなかった。これだけ緊迫感のある勝負を彼らは感じたことがなかった。彼らが出場するのはほぼ練習試合のみであり、セカンドを守る誠司のみが代走や代打で公式戦に出たことがあるくらいだった。火花が散るような勝負の場に自分たちがいることに、彼らはむしろ恐怖を感じていた。
(雄一、一体俺はどうしたら良いんだ? これどうしたら良いんだ?)
誠司も困惑していた。この練習がどういうルールのもと行われるのか、自分のところにボールが来た後どう処理するべきか、ファーストに投げれば良いのか、監督に返せば良いのか、バッティング練習の時はバッターの傍らにボール拾い専用の選手が立っていたりもした、そういうことが頭をめぐり、パニックまでは行かないものの、強いプレッシャーを感じていた。その程度のこと、守備につくときに一言確認しておけばよかった。緊張感無くふんわりと守備についたことに、誠司はいまさらながら気がついたのだった。
誠司の動揺をよそに、監督は投球動作に入っていた。3球目は外角の中程の高さだった。ベルト付近の高さのボールに雄一は反応した。踏み込んで一気にスイングする。しかし、高さは打ち頃でもコースは絶妙だった。雄一のバットは空を切り、パシーンと小気味の良いミットの音が鳴り響いた。鋭い速球に雄一は対応できない。
それでも一度スイングをしたことで雄一にも多少余裕が出てきた。バットを掲げ背伸びをし、再び反時計回りにバットを回して突き出した。まだ心臓の鼓動は強く響いていたが、それでも立ち向かう気持ちが少しづつ回復してきた。
そして4球目、監督はあの力感あふれるフォームでぶんと腕を振った。ボールはやや真ん中寄りのインコース。監督の初めて投じた甘いボールだった。いける、そう思ってスイングした瞬間、ボールが消えた。キャッチャーがミットを下にして身体で受け止めるような姿勢をして、なんとかボールをキャッチしたのだった。その瞬間雄一は気がついた。
「フォークボール……」
監督はフォークボールを投げたのだ。中学生相手に、しかも練習で。雄一の中にふっと怒りが湧いてきた。理不尽だと思った。これは練習であり、ピッチャーはバッターに打たせるべきではないか。少なくとももう少しやさしいボールから初めて行くべきではなかったのか。他の部員も、何か不服なところを感じているようだった。理解の追い付かない状況に、苛立ちのようなものが湧き上がってきたように思ったその時だった。「ストライクバッターアウッ!」監督が叫んだ。
グラウンドは明確な判決をつきつける声に静まり返った。落ち着いた、しかしきっぱりとした、強い声だった。
「えっこれは練習じゃないんですか?」
不意に口をついた言葉は、その場にいた部員全ての思いを代弁するものであった。戸惑い困惑し、意味不明な状況に対して出た本心であった。その瞬間、初めて監督の顔にはっきりとした強いものが現れた。
「甘えるな! 投手と打者が一対一で対する、それは全て真剣勝負だ! 練習を練習だと思うから状況の把握が出来ないのだ。勝つためには常に実戦だと思え! 甘さを捨てろ! そして今すぐそこをどけ!」
雄一は驚いて後ずさりした。監督の目を見た。そこには有無を言わさぬ強い目があった。その目からは夜明けの太陽から発せられる熱線のようなものが感じられた。その目を見た雄一はそしてそのままベンチに下がらざるを得なかった。次のバッターは田中だった。田中は肩をこわばらせながらバッターボックスに入った。守備陣はもはや迷っている暇などないかのように息を詰めて守備位置についた。今まで山二野球部に無かったものが生まれつつあった。
それから二時間後練習は終わった。結局監督は部員23人全員打席に立たせ勝負した。打者23人で15三振。外野までボールが飛んだのは一度しか無かった。ついでに監督はピッチャー二人をマウンドに立たせて対戦した。合計20球程度投げさせ、ヒット13本、ホームラン3本のめった打ちにしてしまった。そしてその後、ひたすらノックをした。監督はノックがたいへん上手で、取れるか取れないかの絶妙な打球を打ち続けた。
「良いか、私は選手としては決して一流ではなかった。今日のプレーを見て君たちは衝撃を受けたかもしれない。しかし全国を視野にいれるのならば、たとえ中学生でも先生くらいの選手は存在するんだ。目標を上げなさい。高いところを目指しなさい。ぎりぎりまで自分を追い込むことで初めて見えてくるものがある。私は教師としてその高みを君たちに見せたい」
部員たちは大きな声で返事をした。へとへとに疲れ、身体は今まで感じたことのないほど重かった。しかし、そこには快いものがあった。
(俺たちは変われるのだろうか? 監督の言うような高みを見れるのだろうか?)
雄一は頭の片隅で考えた。今まで考えたことのないようなことであった。彼は頭を振った。疲労で頭が働かなかった。もっと落ち着いて考えたかった。しかし彼の胸には、すでにこの道が正しいことへの確信めいたものがあった。頭に不安が登るたびに高鳴るような高揚がそれをかき消した。
片付けを終えた部員がホームベースのところに一列に整列した。息を吸い込み大きな声で終わりの挨拶をした。
「ありがとうございました!」
泥だらけの塊から発せられた透き通った声は、いつの間にか晴れ上がった春の青空に吸い込まれて響き渡っていった。