先生とユピテル
「君は大切な人が死んでしまったら悲しいかい?」
ユピテルは作業の手を止めて、彼の顔をまじまじと見た。
日当たりの良い窓際。お気に入りのイスに座り、本のページをめくっているのは彼女の雇い主であるメリル・コーナー教授だ。ユピテルはただ、先生とだけ呼んでいる。
大きな丸眼鏡の向こうの眉間にしわを寄せ、口元はへの字を描いている。自身の立場と常がこんな表情のため、良く年かさに見られるが、実際は三十にも到達していない。
ユピテルはカップにお茶を注ぎ、メリルの前に置いてから言った。
「もちろんです。先生はそう思わないのですか?」
メリルは本を読む時、よくこのような質問をしてくる。始めの頃は戸惑ったが、今では休日の午後の習慣となっていた。
「この小説の登場人物たちは恋人で、彼らに与えられた最後の選択肢は二つに一つしかなかった。自身が死ぬか、相手が死ぬか」
「まあ……」
ユピテルは口に手を当てて本の内容に同情した。最近は恋人たちが死別するような悲恋物が巷では流行っている。けれど、ユピテルはそれが苦手だった。
現実にはたくさんの悲しみが溢れている。病による死別。戦争による死別。どうにもならない現実の中で今日もどこかで涙を流す人々。
それならばせめて物語の中でぐらい幸せな結末を迎えてもいいのではないかと。
「君は平行世界というものを知っているかい?」
メリルは唐突にそんな言葉を持ち出した。初めて聞いた言葉にユピテルはおうむ返しする。
「へいこうせかい?」
「そう。未来は常に分岐している。僕がこのカップを右手で持つか、左手で持つか。仮に慣れない左手で持ったとして、もしかしたら手を滑らせてカップを落としてしまうかもしれない。本の上に落として、駄目にしてしまうかもしれない。もしくはいつも通り普通に飲み終えるかもしれない」
そう言うとメリルは右手でカップを持ち、口元に持っていくとこくりと一口飲んだ。
「うん。君の入れる紅茶は今日もおいしい。いつもありがとう」
「ふふふ。どういたしまして」
ふたりは微笑みあい、メリルは話を続けた。
「それらは可能性のある未来だけれど僕が進めるのは、どちらかの世界。僕は今回、右手でカップを持つ事を選んだけれど、では選ばなかった世界は存在しないのか。
右手でカップを持った僕と左手でカップを持った僕。同時には存在しないけれど、分岐した未来の先にはどちらもが存在している。
世界は枝分かれして別々の未来が続いていく。
つまりここでいう平行世界は選ばなかった未来も存在するという事なんだ」
ユピテルは考えるように頬に手を当てて首を傾げると、分かったというようにぽんと手を叩いて、こう言った。
「では先生が左手でカップを持った方の私たちは今頃先生がお茶をこぼして慌てているかもしれないんですね」
「……そういう事だ。平行世界が存在する。それなら、人が死ぬというのも悲しい事ではないと思うんだ」
「なぜですか?」
ユピテルは優しい口調で訊ねた。メリルはぱたんと本を閉じると、題名をなぞるように表紙を撫でながら言った。
「この本の登場人物たちは互いが互いにとって大切な人で、けれど最後にはどちらかが死ななければならない。分岐点はたったの二つだけ。けれど、こうも考えられるだろう?自身の生きる世界からその人は失われるかもしれないが、もう一方の世界では自分が死んで相手は生き残る。二人が歩む道が交わる事はなくとも、別々の世界で生きていける」
「確かに、そう考えれば少しだけ救われる気もしますね」
ユピテルはあっけにとられたようにそれだけ言った。けれど、しばらく考えてから『でも』と言葉を続けた。
「大切な人が死んだらやっぱり悲しいです。その人が大切であればあるほど、できるだけ長く時間を共有したいと思いますし、失った時には大きな穴がぽっかりと空いて、ぜったいに代わりになるものなんてないんです。もしも本当に平行世界があるのだとして、そこで大切な人が生きているのだとしても、その人も大切な人を失って悲しんでいると思います。悲しみが増えるだけの世界なら私はないほうがいいと思います。……うまく言葉にできないんですけど」
困ったようにユピテルは笑った。メリルは考えるように顎に手を当てて、もう片方をすっかり冷めてしまったカップに伸ばす。それに気づいたユピテルは慌ててカップを取り上げて入れ直しますと言うと扉へと向かった。
メリルが大丈夫だからと引き止める前に、ユピテルは振り返り返った。言い忘れていたというように、言葉を紡ぐ。
「それに、私は先生が死んでしまったら、とても悲しいですよ」
その言葉にメリルが固まっている間に、ユピテルはさっさとキッチンに行ってしまった。メリルはふうと息を吐き出し、両手に顔を埋めると、見えなくなってしまった背中に向かってぽつりと呟いた。
「……僕もだよ」
指と髪の合間に見える耳は赤い。
ユピテルが戻ってくるまであと数分。その間にメリルは平常心を取り戻さなければいけない。
これは、とある休日の昼下がり。
論理と感情の狭間で迷子になっている先生と、そんな先生のお世話をしている少女のお話。