第078話 森都の会談・前編
「あーホントに疲れた」
ユートは迎賓館に戻ると、すぐに燕尾服を脱ぎ捨てていつもの鎧下に着替えた。
ゆったりとしたキルト地のこの服は鎧を着ていない時の普段着としても優秀であり、ユートはだいたいの場合、この鎧下を愛用していた。
「わたしもお腹が苦しかったのです」
それは食べ過ぎのせいだろう、と思ったが、言うと間違いなく涙目になられるし、少女を泣かせて楽しむ性癖があるわけでもないので黙っておく。
「それで、晩餐会はどうだったの?」
「特に何も。そういやエーデルシュタインってどういう意味なんだ?」
「ユートはちゃんと舞を見ていなかったのですね」
呆れたようにアナに言われたが、しょうがない。
緊張していた上に、ことあるごとにイリヤ神祇官がユートたちに話しかけていたせいでそれどころではなかったのだ。
「エーデルシュタインは大森林の創世神話の中で、石神という神様がエルフの一氏族に与えた名であり、“高貴なる石”の意味を持つ言葉なのです」
「へえ、いい名前じゃない」
「あのイリヤ神祇官もエーデルシュタイン一族、そしてわたしの母様もまたエーデルシュタイン一族なのです」
そこは聞いていた。
イリヤ神祇官から見ればアナは従姪孫、アナから見ればイリヤ神祇官従祖伯母という、縁戚関係にあるかないかわからないような遠縁だったが。
「へー、それはプラスにはなってもマイナスにはならないわよね。よかったじゃない。そしてユートが何もしていないのはよくわかったわ」
「とんでもないのです。ユートが傍についていてくれたからイリヤ神祇官とも普通に話せたのです」
そう言いながらアナはぶんぶんと金色の尻尾を振り回す。
エリアは興味なさそうにふーん、と言うだけで、ユートは別にアナは自分がいなくても、と思ったが、それ以上は何も言わない。
「明日からは勝負なのです」
アナはまた両拳を作っていた。
翌日、ユートたちはまた渡し船に乗って島に渡った。
交渉もどうやらここでやるらしい、ということはわかっていたが、どうも周囲に逃げ場のない島でやる、というのは精神的に圧迫される気がした。
「ユート、傍にいて下さい」
アナも圧力を感じているらしく、ユートのスーツの袖口を掴んでいる。
「大丈夫、俺はここにいるよ」
そう言いながら席に着くと、向こうからイリヤ神祇官もやってきた。
「イリヤ神祇官、昨日はお招きに預かり、ありがとうございました」
「なんの。アナスタシア殿もユート殿も楽しんで頂けたようで何よりじゃ」
イリヤ神祇官は鷹揚に手を振って応じる。
「ところでいよいよ本題に入りたいのじゃがな、同じエーデルシュタインの血を引く者同士、単刀直入にいこう。此度はなにゆえこの山深い地まで来られた?」
イリヤ神祇官がじろりとアナを睨めつける。
敵対的というよりはアナが圧力を感じていることを察して、更に圧力をかけようという意図なのだろう。
「は、はい」
アナはその意図を汲めていないのか、汲めていても腹芸を出来ていないのかまではわからないが、声が少し震えているのがユートにもわかった。
「我が父、ノーザンブリア国王トーマスの意を受けて参ったは、長年に渡る北方の小競り合いを止め、両国の長き友好を考えるためでございます」
「ふむ」
イリヤ神祇官はしかめっ面を作った。
「なるほど、確かにこのところ餓狼族が度々略奪しておると聞く。まあ冬だからしょうがないがの。しかし、わらわとしてはそのような野蛮なことは止めよ、というのはやぶさかではない」
「では!」
アナはすぐに喜色を露わにする。
「ところでの、戦いをやめて友誼を結ぶというのであれば、これまでノーザンブリア王国が奪った土地は返してもらえるんじゃろうの?」
アナが喜色を露わにしたとみるや、イリヤ神祇官はすぐに斬り込んでくる。
「それは……」
「餓狼族が飢えておるのは、そもそも王国の北方侵攻によって土地を奪われたからじゃ。まさかおぬしらは餓狼族に飢えて死ね、それが友誼じゃと言うつもりもなかろう?」
ぴしゃりとやり込められて、アナは顔色を悪くしているのが隣に座るユートにもわかった。
助け船を出そうかとも思ったが、ユートもイリヤ神祇官の言っていることが間違っているとは思えないのでなかなかなんと言っていいかわからない。
「そもそもおぬしはなぜ我ら大森林の民と王国を休戦させたいのじゃ? 確かに餓狼族が略奪しておるが、そんなものは冬になれば毎年起きていたことじゃろう。それを今更になって友誼を結ぼうとは、何か裏でもあるのか?」
「……わたしは……」
イリヤ神祇官に強く言われて、アナは自信なさげに答える。
「……エルフ族――エーデルシュタイン氏族とノーザンブリア王家の血を引く唯一の者です。母なるエーデルシュタイン氏族、そして父なるノーザンブリア王家が争っている姿など見たくはないのです」
「アナスタシア殿は現実が見えておらんのではないか。もっと有り体に申せば青い青い。仲良くしたいのはわかるが、目の前に飢える者がいても握手が出来るわけがない」
まくしたてるようなイリヤ神祇官の勢いにいつしかアナは言葉を失っていた。
「ふむ、つまり餓狼族が飢えから解放されない限り、友誼を結ぶことはありえない、というのですな」
ユートはことさら尊大な空気を作ってイリヤ神祇官に話しかけた。
言っている内容は特に意味は無いが、ともかくアナが茫然自失となっている間に妙な言質を取られるわけにはいかない。
「その通りじゃ。我らは石神様のもとに集まった大森林の仲間ゆえにの。アナスタシア殿はどうも考えあぐねているようじゃが、そなたはいかがか?」
「なるほど……」
ユートはそう言いながら頭をフル回転させる。
今、大事なのは失言して言質を取られないこと、そして王国側から持ちかけたのをいいことに餓狼族のためという大義名分を掲げて勢いづいているイリヤ神祇官の勢いを殺すこと。
「仰りたいことはわかりました。確かに不当に奪われたならば、それは返すべきでしょう。そして、同時に当方から返して頂きたいものもあります」
「ほう、我らが何かをかすめ取ったというのか?」
「ええ、餓狼族は略奪をしていますから」
「なるほど、確かに餓狼族にとっても言い分はあろうが、正当な略奪なぞは存在せんの。そなたが言うように略奪した食糧を返せというのはまあわからんでもない」
方や金で買える食糧、方や金では買えない北方屯田領、その交換ならば呑もうとイリヤ神祇官は言うのだろう。
「いえ、違います。私が言うのは、略奪の際に奪われた王国臣民の命です。友誼を結ぼうと言いながら餓死しろというのは筋が通らないと先ほどイリヤ神祇官猊下も仰ったこと。これは王国臣民を命を奪っておきながら友誼を結ぼうというのは、やはり筋が通らないことでしょう」
無理難題もいいところであるのはユートも理解している。
しかし、ともかくとしてイリヤ神祇官の勢いを止めるためのとっかかりと、アナが立ち直るまでの時間が欲しかっただけだ。
「ふむ、なるほどのう……」
今まで押せ押せの強気な交渉に出ていたイリヤ神祇官が少し口ごもる。
「お互いに解決せねばならない問題は多いようじゃの。まあそれがわかっただけでも成果はあった、と考えるべきかの」
「なるほど、それは前向きな考え方ですね」
ユートがイリヤ神祇官にそう合わせたところで、少し休憩を取ることになった。
「ユート、ごめんなさいなのです」
イリヤ神祇官が用意してくれた控え室に戻ったアナはすっかりしょげ返っていた。
「気にするな。あそこまで強きに出られてたたみかけるとは誰も予想してなかっただろ?」
「そうなのですが……でもユートが助けてくれなかったら……」
間違いなく無様を晒していただろうし、場合によっては妙な言質を取られて北方屯田領の領有権争いが起きることになり、アナどころかアリス王女の政治的な大失点に繋がっていた可能性もある。
とはいえ、ユートはアナを責める気にはなれなかった。
なにせアナは王族として育てられたとはいえ、まだ八歳の少女に過ぎない。
はっきりとした年齢はわからないが、アナの祖父母と従姉妹ということはあのイリヤ神祇官は間違いなくアナより数十歳は年上、場合によっては七十の大台に届く年齢かもしれない。
そんな老獪な政治家相手に、交渉でやり合って致命的な失点を避けられただけでも褒めてやらなければならない、と思っていたのだ。
「アナ、そんなしょげるなよ。ここまで別に何かマイナスなことがあったわけじゃないだろ?」
「……ユート! そうですね、別に何か交渉で変な約束をしたわけでもないのですね」
「そうそう、だからまだまだ挽回できるさ」
「はい!」
ちょっとだけアナが元気を取り戻していたが、それが心底思っているのか、それとも空元気なのかまではユートにはわからなかった。
「総裁殿、部屋の周りを確認しましたが、怪しげな者はおりませんでした。アドリアン殿、エリア殿と周囲の警戒にあたります」
アーノルドが顔を出してそう告げる。
イリヤ神祇官が用意した控え室、ということは、どこかからユートたちの会話が聞かれているかもしれない。
だから周囲を探索してもらっていたのだが、どうやらそんな卑怯な真似をするつもりはないようだった。
「なあ、アナ。次にイリヤ神祇官はどう出ると思う?」
「ユートの最後の言葉を考えると、餓狼族の略奪で死んだ臣民たちに対する賠償を提案するのではないでしょうか」
「賠償するから北方屯田領は返せ、ということか?」
「そうなのです。それでも長い目で見ればプラスになるはずなのです」
なるほど、と思う。
「もうちょっと無理難題を言って、様子を窺うか?」
「でもユート、交渉がまとまらないと困るのです。イリヤ神祇官たちは別にまとまらなくとも構わないと思っているのか、それともわたしたちが交渉をまとめないと困ると思ってるのかどっちかなのです。でもわたしたちはまとまらないと……」
不可侵条約がまとまらなければウェルズリー伯爵は北方軍を西方に転進させられないし、そうなるとアリス王女やサマセット伯爵は少数でタウンシェンド侯爵やクリフォード侯爵の軍勢を迎え撃たなければならなくなる。
それはすなわちユートたちを含めた王女派の負けということだ。
「ちょっとアドリアンさんたちに相談してみるか?」
「はい……」
とはいえ、アドリアンやエリア、或いはアーノルドであってもこうした国家を代表した交渉の経験があるわけではない。
大隊長という高級軍人だったアーノルドはともかく、アドリアンやエリアは所詮は西方の冒険者に過ぎないのだ。
「ふむ、難しいな」
アドリアンが腕組みをする。
「肝心なのってあっちはあたしたちがなんで交渉しに来たか知ってるかどうか、よね」
「つまり、王国で後継者争いが起きていて、王女派が劣勢を補うために北方軍を欲しがっているから不可侵条約を結びたいって事情を知っているかどうかってことか?」
「そうよ。それを知ってるなら向こうは足元を見れるわ。アナはどんな条件でも呑まないといけないことを知ってるんだから」
確かにそうだ。
もしそうやって足元を見られたらユートたちにとって相当苦しい交渉となることを覚悟しなければならない。
というよりも、ユートの頭では北方屯田領を一時的に手放すか、または手放すと口約束して反古にするくらいしか思いつかない。
「わたしも知らないと思うのです。ここから西方は相当遠いですし、普段から西方に間諜を入れておく理由も余裕もあるようにも思いません。ペトラには間諜がいてもおかしくないですが、ペトラで得た情報だけでわたしたちが来た理由を突き止めて、強行軍でここまで来たわたしたちより早く伝えられているとは思えません」
アナの理屈は確かに正しいような気がする。
「ユート、あんたはどう思うの?」
「あくまで感触だけど、知らないんじゃないかなぁ、とは思う」
「どうして?」
「いや、なんとなく、だ。イリヤ神祇官の会談への入り方とか見てても、そこまで突き止めていたならもっと強気で来たんじゃないかと思う」
あくまでユートの感触だが、イリヤ神祇官の性格を見る限り、もし王国の争乱を知っていたならばそれを最初に落とす爆弾として、そのままアナが混乱する隙に一気呵成に交渉を進めてきそうな印象があった。
もちろんユートよりも何倍も生きているのだから、そこまで単純ではなく老獪にカードを切るタイミングを伺っているだけかもしれないが。
「ユート、あんたはそう感じたのね」
「ああ、そう感じた」
ユートの言葉にエリアが頷く。
「なら、それが正しいと信じなさい。ユートの勘、アナの知恵、どっちもがイリヤ神祇官は事情を知らないって思ってるんだから、それが正しいの。直接言われるならばともかく、そうじゃないなら知らぬ存ぜぬで動揺しないことが何よりも大事よ」
エリアが後押しするように言う。
「わかった」
「わかりました」
「じゃあ知らない前提で、どう交渉するか、よね」
「どっちでもいいと思ってる奴を相手に、条件を呑まずに席に着かせないといけねぇんだよな?」
アドリアンが横合いから軽くまとめる。
「そういうことですね」
「うーん……」
ここに立ち入ると獣人たちから裏切り者扱いされて問題になりそうなので迎賓館で留守番をしているレオナ以外の五人が腕組みをして考える。
「とりあえず強気に出てみるのが一番ではないですかな?」
アーノルドがそんなことを言う。
「軍で言えば威力偵察という考え方があります。小規模な部隊で実際に戦ってみて、相手がどの程度の数で、どの程度の練度と戦意なのか、ということを探る方法です。交渉も同じことでしょう」
「つまり、敢えて強気に出て、相手が席を立とうとするポイントを見極めることでどこに交渉の妥結点を置いているのか探ってみる、ということですか?」
「その通りです」
そこまで話した時、イリヤ神祇官からの使いがユートたちにそろそろよいかと声を掛けに来た。
「アナ、ユートを信じなさい」
エリアがアナにそんな言葉を投げかけているのを背中で聞きながら、再びユートは議場へと戻っていった。
「ユート殿、先ほど貴殿が言われたこと、エルフ族の神官たちと話し合うたぞ」
席に着くなりイリヤ神祇官がそう話しかけてきた。
「そうですか」
「うむ、それでな。さすがに命を返せというのはしかねることじゃ。これは当然であろう?」
まあ当然だろうな、とユートも思う。
もともとアナが押し込まれていたのを救うために苦し紛れに出した無理難題なのだ。
「まあ、そうですね」
「そうよのよう。ゆえに、略奪の被害者には相応の賠償をする、ということでどうじゃ? 現実的なところと思うがの」
確かに現実的だ。
でもそれではまたイリヤ神祇官に主導権を握られてしまう。
「なるほど、賠償は確かに必要でしょう。しかし、それだけではないのでは?」
「無論、謝罪もしよう」
「いえ、大事なのはなぜそんな無法な略奪が起きたか、でしょう。餓狼族が略奪したのならば、餓狼族の族長以下、責任ある立場の者は相応の処罰があって然るべきかと」
アーノルドが言ったように無理難題で少し押してみることにする。
とはいえ、内容はこじつけや曲解ではなく、各族長の権力が強いためにイリヤ神祇官がうんと言い難いだけなので、こちらから交渉を投げたとは思われないだろう。
「……それならば無法にも北方侵攻したのであるから、ノーザンブリア国王にも相応の処罰あって然るべき、ということじゃな?」
イリヤ神祇官は餓狼族の族長を処罰することは難しい、という弱みを見せないようにそう言ってすごんで見せる。
こちらの出した無理難題に、向こうもまた無理難題で応じてうやむやにしようというのだろう。
「それはおかしいのです。ノーザンブリア王家とエルフ族の間では北方侵攻のあと、一度講和が成されて、我が母ニコラシカが嫁いだのでしょう。それならば、その時点で父の罪は消えたと考えるべきでしょう」
アナが久々に口を開いた。
「見解の相違じゃな。わらわはそれで許したと思ってはおらぬ。餓狼族の族長以下を縛り首にしてまで王国と不可侵条約など結ばなくてもよい」
イリヤ神祇官はそう言い捨てると席を立とうとする。
どうするべきか。
ユートは悩む。
押すか、引くか。
引けば結局は賠償だけで止め、そのかわりに北方屯田領を手放さなければならなくなる。
もちろん汚いと言われても、王位継承戦争が終われば不可侵条約を破って北方屯田領を手放さないという選択肢もあるとユートは考えていたが、一時的にしろアリス王女の失点になりかねない。
一方で、押す――つまり武力をもって結論を出そう、というような発言をするならば、最悪はここで交渉が終わってしまうだろう。
間違えば二度と交渉をする機会はないかもしれないし、そもそも次の交渉の機会を待ったら恐らく北方軍の転進は間に合わないだろう。
どちらがいいか――
ユートは逡巡して、ちらりと隣のアナを見る。
アナは真っ直ぐな瞳でユートを見ていた。
そして彼女は頷く。
それは、ユートを信じている、という意思表示とわかった。
ここで安全策を採ってもアリス王女に失点させてしまえば、王位継承戦争で貴族の支持が得られず、結局負けてしまうかもしれない。
中途半端な安全策を採ってリスクを減らしても、最終的にユートたち、いや王女派に必要なリターンはない。
ユートは博打を打つ決断をした。