第076話 エリアの想い
結局、ウェルズリー伯爵やハミルトン子爵との非公式の会談は最後のアナの言葉で終わることになった。
すなわち、ユートたちとともにアナが北方大森林に赴き、エルフ族や妖虎族、餓狼族と休戦条約なりを結んで北方軍が西方に赴く間の北方の安全を確保する、ということが非公式の会談の結論、ということだ。
「アナ、大丈夫か?」
それはいくつもの意味だった。
長年にわたってなされていなかった北方大森林の諸族との講和が出来るのか、まだ疲労が抜けきっていないアナが果たして長旅に耐えられるのか、何よりも姉であるアリス王女の命運を賭けたウェルズリー伯爵との会談で気を張りすぎて精神的に疲労していないか、そんな意味が籠められていた。
「ユートは優しいのですね」
アナはそう言うと、頭を差し出してくる。
「撫でて下さらないのですか?」
そうせがまれてオレンジがかった金髪の頭をゆっくりと撫でる。
時折、狐耳に手があたり、柔らかい感触が掌を通じてユートの脳に届く。
「ふふふ、こうやって頭を撫でてもらえるのっていつ以来でしょうか。第一王子はわたしと話をしませんし、姉様はいつもお忙しそうで撫でてもらえなかったのです」
「お父さん――陛下は?」
「父様は姉様以上に忙しいのです……思い出しました。三年前、母様がお亡くなりになる時以来なのです」
恐らくそれ以来、周囲には傅育官やメイド、執事のような家人たちはいても、真に心を開けるような者はいなかったのだろう。
「メリッサ茶も母様が好きだったのです。わたしの好きなものは母様の好きなものなのかもしれませんね」
そう言ってアナは寂しそうに笑った。
「アナ……」
「ユート、大丈夫なのです。それはわたしの中に、母様の血が流れているということなのです。わたしの中に流れている母様の血が、必ず今回の交渉を成功させてくれるのです」
自分に言い聞かせるようにそう言っている姿をユートは直視することが出来なかった。
「北方大森林について、かニャ?」
応接間から客間に通されていたエリアたちと合流したユートは、ウェルズリー伯爵たちとの話し合いの結果を伝える前に北方大森林について教えてくれ、とレオナに言って困惑されていた。
慌ててウェルズリー伯爵たちとの話し合いの結果を伝えると、エリアやアドリアンは自分たちの守備範囲外のことだ、と賛成とも反対とも言わなかった。
レオナは難しい顔をしていたが、ともかくそれしかない、ということは理解したらしく、重い口を開き始めた。
「まず大森林は貧しい森ニャ。木の実もほとんど採れない上に、狩りで食べていくのも厳しいニャ。その大森林に大勢の獣人が住んでいるせいで食糧はいつも足りてないニャ。その足りない食糧をどうするかの違いで、大森林に住まう諸族は大きく三つに分かれているニャ」
レオナの大森林についてのレクチャーが始まる。
「一つ目はあちきら妖虎族ニャ。妖虎族は大森林に食糧が少ないなら死の山で魔物を狩ればいいと考えてるニャ。二つ目は龍蹄族ニャ。龍蹄族は争いを好まないから大森林の奥にある小さな平野を耕して暮らしているニャ。そして最後があちきらも会ったあの餓狼族ニャ。餓狼族は足りないなら人から奪えばいいと考えているニャ」
龍蹄族というのがどのような獣人なのかはわからなかったが、少なくとも大きく派閥が三つあることは理解出来た。
「エルフ族というのは?」
「エルフ族はちょっと違うニャ。えっと……どこから話せばいいかニャ……北方大森林の三部族全ては石神様の御子だニャ。その石神様を祀り、三部族をまとめているのがエルフ族だニャ」
「ふーん、じゃあそのエルフ族が王族みたいなものなの?」
いつの間にかエリアが興味津々に聞いており、エルフ族について質問し始める。
「王様ではないニャ。例えばゲルハルトの父親は餓狼族どもの族長で、エルフ族は部族のうちのことには何も口出しはしないニャ。ただ、石神様の言葉をあちきらに伝え、大森林全体で何か問題が起きたときに三部族をまとめる役割だニャ」
「ああ、神官みたいな部族なのね」
「そういうことニャ」
レオナの説明を聞く限り、今回のように休戦なり不可侵なりの条約を結ぶならば餓狼族に言うべきなのか、エルフ族に言うべきなのかというのは非常に難しいように感じる。
「なあ、レオナ。もし不可侵なりを結びたければゲルハルトのところに行くべきか?」
「たぶんゲルハルトはうんと言わないニャ。そんなことをすればあの餓狼族どもは飢えてしまうニャ」
「じゃあエルフ族のところに行って……」
「エルフ族もたぶんうんと言わないニャ。三部族のそれぞれのあり方には口を出さないのが大森林のルールニャ」
レオナにそう言われてユートははたと困ってしまった。
長年の北方大森林のルールを、いきなりやってきたユートたちがどうこう言って変わるものでもないだろうし、何よりも飢えるという切実な問題の前には、例えエルフ族が餓狼族に何か言ったとしても――それこそ石神のお告げとして言ったとしてもまず聞かないことは明らかだった。
「弱ったなぁ……」
第一歩でつまずいた、そんな印象すら受けてしまっている。
「餓狼族の方はともかく、妖虎族の方はどうなの?」
「妖虎族はまあたぶん大丈夫ニャ。あいつらはもともと人間には関心がない馬鹿どもだから、交渉しなくても攻めてこないニャ。エルフ族や龍蹄族も外のことには関心はないから同じだニャ」
「じゃあゲルハルトの父親だけどうにかすれば……」
「ゲルハルトの父親は病気に臥せっているニャ。だからゲルハルトさえ説き伏せればどうにかはなるニャ」
一応とはいえ会ったことのあるゲルハルトが交渉相手、という有利な点も見えてきたが、それでも根本的なところである餓狼族の食糧問題は解決していない。
「餓狼族も妖虎族と同じように死の山で狩りをするのは無理か?」
「それも難しいニャ。餓狼族どもはあちきらと違って獲物を集団で狩るような戦い方が得意ニャ。それにあちきら妖虎族に加えて餓狼族どもまでが死の山で狩りをする、ということになったらたぶん死の山の獲物が狩り尽くされるニャ」
「獲物が狩り尽くされるのはわかるが、集団で戦うのが得意ってのは……ああ、死の山の狩りには向かないか」
「死の山は足場が悪い上に通れないところが多すぎて集団で追いかけ回したり囲んだりするには不向きニャ。それにあちきらとあいつらは別に助け合う仲間というわけでもないニャ。あちきらの縄張りにあいつらが入ってきたら絶対に喧嘩になるニャ」
「そういやレオナもさっきから餓狼族って言ってるもんな」
「あいつらもあちきらのことを妖虎族って言うからお互い様ニャ」
レオナとの会話でも解決の糸口を見いだせなかったユートは頭を抱えた。
狩りもダメ、たぶん餓狼族に農業をやらせようにも畑になるような土地が少なくて龍蹄族もそこまで裕福ではないような言い方をしていたのでこちらも不可能だろう。
はあ、とため息を一つつく。
「ユート、ちょっとしたアイディアがあるんだが」
驚いたことに言い出したのはアドリアンだった。
そして、その感情はユート一人のものではなかったらしく、全員がアドリアンに視線を注ぎながら誰も何も言わない。
「おいおい、俺だって今回の一件にセリルと結婚できるかがかかってるんだぞ?」
「あら、アドリアン、初耳よ!?」
「この一件が終わったらユートは爵位持ちになるだろ。その時に従騎士にしてもらって、セリルの親に挨拶に行くつもりだ」
「でもさ、セリーちゃんが妊娠してるのに放置して仕事にかまけてるあんたにセリーちゃんの親は激怒してるかもしれないわよ?」
エリアの冗談とも本気ともつかない言葉にアドリアンは顔を青くしている。
「あはは、冗談よ、冗談。多分セリーちゃんの親も安心するでしょ? 正直セリーちゃん、ずっとアドリアンのことしか見てなかったし、アドリアンは狩人と武器のことしか考えてないし、このままずっと独身なのかと思ってたんじゃないかしら」
「へっ、知らねぇよ」
「それで、アドリアンさんのアイディアって?」
話が変な方向に進んでいるのをユートが修正すると、アドリアンはにやりと笑った。
「餓狼族まるまるギルドに入れちまえばいいじゃないか」
そのアドリアンの突拍子もない言葉に、ユートたち三人はもちろん、アーノルドやアナですら言葉に詰まった。
「あいつらの問題は食糧がないことだろ。じゃあ食糧を買えるようにしてやりゃいいじゃねぇか?」
「王国が売る、ということなのですか?」
「そうだ。不可侵を約束するなら、その約束の中に食糧を売ることやギルドへの加入を許可することもいれちまえばいい」
ふむ、とアナが腕組みをする。
どう見てもおしゃまな少女に見えて可愛らしいはずなのだが、その姿は王族の一員が王国の将来を考えているようにしか見えない。
顔を上げて、ユートの方を見据える。
「ユート、餓狼族――獣人を入れることは構わないのですか?」
「別に構わないぞ。というか既にレオナがいるのに、ゲルハルトたちを拒否する理由もない」
「なるほど、わかったのです。それを彼らには提案するのが一番ですね」
アナの言葉で、ようやくどうやって北方大森林――というよりも餓狼族と不可侵条約を結ぶか、というユートたちの会議が終わった。
「エルフ族と龍蹄族の住む森都まではおおよそ三週間くらいのはずだニャ。馬車も使えるから気にせずにいけるニャ」
「馬車が使えるの?」
「それくらい使えないと物のやりとりもできないニャ。餓狼族どもやあちきらが使っている武器とかも全部森都で作られている物だニャ」
そのレオナの言葉を聞いてエリアはにんまりと笑う。
「じゃあもっと快適な旅になりそうね」
「そうも言ってられないぞ。森都まで三週間ってことは往復で六週間。俺たちに残されてる時間は二ヶ月強――つまり八週間から長くて十週間だぞ?」
「あ、そういえばそうか……」
「まあでもよっぽどのことがない限り間に合うニャ」
レオナはそう言うが、ユートは楽観視していなかった。
もしかしたら妖虎族や餓狼族の村も巡る必要があるかもしれなかったし、そうなると残り四週間程度でどうなるかは予断を許さないからだ。
「ふむ、時間が足りないならばハミルトン子爵に頼んで替えの馬を用意してもらえばよいでしょう」
「詳しく教えて下さい、アーノルドさん」
「二頭立ての馬車ならば馬をもう二頭連れて交代すれば良いのです。そうすればスピードを出しても馬は潰れません、飼い葉が多くかかりますが、北方大森林ならばともかくそこに至るまでの北方屯田領内であれば四頭分くらい買うことは容易いでしょうし」
「お金で解決できるならするべきですね」
ユートの言葉に一同は頷いた。
そして、そこからはめいめい手分けしての旅の準備だった。
ユートとアナはハミルトン子爵に掛け合って馬車や輓馬を用意してもらうことになり、その間に必要な食糧の類はエリアたちがペトラの街で買い集めることになった。
「ユート、あんたがちゃんと資金持ってきてくれて助かったわ」
「何かあった時に頼れるのは金だからな」
そんな守銭奴じみた会話をしていたが、冒険者としては極めて常識的なことだったりする。
見知らぬ土地で武器や防具が損傷したり、食糧がなくなったりした時に頼れるのはただ通貨だけであり、いざという時のために金貨を一枚、防具や靴の中に仕込んでいるような者もいたりするくらいだった。
「まあそれでも馬車を買うとなったら俺が持ってきた金貨じゃ全然足りなかったけどな」
意外なことに一番難航したのは馬車を手に入れることだった。
別にハミルトン子爵が馬車を貸すことを拒んだわけではなく、王女であるアナを乗せる為に貸すのであれば総督府の総督専用馬車でないとならないと言って聞かなかったのだ。
だが、総督専用馬車は箱馬車であり荷物の積載量に劣るものだったし、ユートとしては幌馬車を希望していたのだが、そこでハミルトン子爵と交渉する羽目になり、同じ馬車工房で作られた幌馬車に総督専用馬車の足回りを移植してせめて乗り心地だけでもアナにふさわしいものを、という結論にいたったのだった。
お陰で二日ほど無駄にしてしまったが、ハミルトン子爵から馬車を借りる以上、ハミルトン子爵の立場も考えなければならず、それ以上無理も言えなかった。
そして、いよいよ明日出発という晩だった。
ユートはふと客室にあるバルコニーに出ていた。
アナは別室――たぶん総督の部屋と同等がそれ以上の部屋――だったが、エリア、アドリアン、レオナも同じ部屋になっている。
アーノルドも同じ部屋でよかったのだが、どうやら正騎士である主人と、家人である従騎士が同じ部屋で寝泊まりするというのは礼儀としてはあってはならないことらしく、彼もまた別室へと案内されている。
あちらはあちらでユートたちが旅の準備をしている間、部屋に王立士官学校の同期生であるウェルズリー伯爵が訪ねてきていたらしく、もし今回の会談をユートたちの味方をするように説得してくれているようだった。
「ねえ、ユート。雪が降ってきたわ」
後ろからエリアが声を掛けてくる。
エリアはそのままユートの隣にやってくると、身を乗り出すようにしてバルコニーの手すりに身体を預ける。
「ああ、そうだな」
ユートは短く答えた。
確かに空からは白い雪が舞い落ちてきている。
とはいえ、雪の量はさほどでもない。
北方は既に冬まっただ中で寒かったが、海は遙か東にある東海洋か、あるいははるか北の方までいかないとない関係であまり雪は降らないようだった。
それでも今のように全く降らないというわけでなかったし、レオナは大丈夫と言っていたがもし死の山のルートが雪で通れなくなればお手上げだった。
「早く片付けないと、な」
「そうね。そういえばユート、去年の今頃は大変だったわね」
そういえば去年の今頃はベゴーニャの起こした西方冒険者ギルド事件で飛び回ってた頃合いだった。
「もう一年も前なんだな」
「早いものよね。あんたと出会ったのはもう二年半も前だしね」
「そういえばそうだな」
この二年半、まさに激動の二年半だった。
冒険者になって、エリアと一緒に狩人をやって、護衛をやろうとしたらポロロッカに巻き込まれ、そしてポロロッカを収めたあとに冒険者ギルドを設立しようとしたらタウンシェンド侯爵の横槍からベゴーニャが西方冒険者ギルド事件を起こしていたし、本当に思い出せば様々なことがあった。
「ユート、ありがとう」
「うん? どうした?」
「あたしはあんたがいなかったら、今も傭人やってたわ。本当はアドリアンのパーティに入れてもらえばよかったんだけど、セリーちゃんがアドリアンのこと好きなの知ってたし、お邪魔虫になりたくなかったから」
「そうか。でも俺もエリアがいなかったら傭人にすらなれてなかったかもしれんしお互い様だな」
「あんたはなんかすごい星の下に生まれてるわよ。多分、あたしがいなくても誰か仲間を見つけて、今みたいに周りを巻き込んで何か大きいことやってたに決まってるわ」
エリアの評価の高さが痛かった。
正直、行き当たりばったり、成り行き任せて気付いたらここまできている、という気持ちしかない。
ま、でも自分で頑張って得たものなのだから胸を張ろう、と思い直す。
「あの二人、結婚するのね」
「ああ、よかったよな」
「そうね。本当にセリーちゃん、よかった」
そして、バルコニーの手すりに身体を預けて外を見ていたエリアが不意に振り返る。
「ね、ユート」
じっとエリアがユートの目を見つめた。
「あんたさ、あたしの……ううん、違うわ」
エリアが意を決したように口を開き、そして、言い直す。
「ユート、あたしはあんたが……」
そう言いかけた時、不意にバルコニーに続くドアが乱暴に開けられた。
「エリア、ユート、外は寒いから早く中に入るニャ! 長旅で疲れてるのにそんな寒いところにいたらすぐに風邪引くニャ!」
レオナだった。
一瞬にして空気が凍った。
エリアがあの後に何を言いたかったのは、ユートもわかっていたし、レオナも雰囲気を見て内心でしまった、と思っているのだろうがどうしようもない。
エリアは硬直した表情を見せていたが、すぐに柔らかい笑顔を作った。
「そうね、風邪ひいたら大変だし、大仕事の前に他のことで集中乱してもいけないわね」
エリアの言葉で、空気は再び解け出し、三人は部屋に戻っていった。
雪はしんしんと降り積もっていた。