第075話 アナスタシアの決意
北方首府ペトラまではおおよそ一週間の距離だった。
気付けば十一月と冷え込む時期になっていたが、ハミルトン子爵はアナがいることもあって最高級の箱馬車を用意してくれたので寒さを感じることもなかった。
「これ、もうちょっと着くの遅かったら凍死してたかもね」
エリアがそんな縁起でもないことを言う。
何メートル級の山なのか、日本でも登山の経験がなかったユートには皆目見当も付かないが、山頂はもっと冷え込んでいたし、雪が降ってもおかしくなかっただろう。
もしゲルハルトと会ってなかったら、空腹で雪の中歩くことになっただろうし、エリアの言う通り行田折れていた可能性も十分にあると気付いて少し背筋が冷える思いだった。
「もう大丈夫なのです」
「いや、まだわかんねーだろうが。ウェルズリー伯爵がこっちについてくれないと同じことだぞ?」
「わたしの仕事はレイモンドが納得するまで交渉することなのです。レイモンドがうんと言わなければ帰れないのです」
「それって……」
ウェルズリー伯爵がうんというまで帰れない、というのは恐らくアリス王女に言い含められているのだろう。
つまりアリス王女はサマセット伯爵や再建途上の西方軍とともにタウンシェンド侯爵と戦うことになるだろうし、それで王女派が敗れたとしてもアナが北方で王位を狙えという意味なのではないだろうか。
「姉様はたぶんそう考えているのです」
アナもまたそれを肯定していた。
「早くウェルズリー伯爵を説得して帰らないとな」
「大丈夫なのです。タウンシェンド侯爵も姉様を討つとなるとさすがに根回しが必要ですから、兵を起こすのは来春と思うのです」
アナの分析なのか、それともアリス王女やサマセット伯爵も含めた現状認識なのかはわからないが、ともかくとして来春までにウェルズリー伯爵が北方軍を率いてこちらの味方をしてくれないと厳しいものとなるのは確実だった。
「リミットは、あと二ヶ月くらいか?」
「そうですね。一月末までにここを出発すればタウンシェンド侯爵に先んじれるかと思うのです」
ウェルズリー伯爵の説得に二ヶ月と考えれば時間的には余裕があるように感じる。
まあウェルズリー伯爵が絶対に嫌だと言えばどうしようもないが、サマセット伯爵が言っていた、ポロロッカを口実に、タウンシェンド侯爵派の者を軍務卿につけるために左遷されたならば反タウンシェンド侯爵である王女派に加勢してくれる可能性は十分にあるだろう。
そんな会話をしているうちにペトラに着いた。
捧げ剣で出迎えてくれる衛兵たちには騎乗して馬車に付き従っていたハミルトン子爵が軽く手を挙げて礼をしていた。
北方総督が騎乗して随伴しているこの馬車には一体誰が乗っているのだろうと衛兵たちはいぶかしんでいるだろうし、もしかしたら危険なのではないか、すこし迂闊だったかとも思ったが、もうどうしようもない。
門を潜ると街並みが見えてくるが、西方と同じような黒い木の梁や柱を通した建物が建ち並んでおり、やや西方と違うのは屋根に強い傾斜がつけられており、建物そのものもその強い傾斜のせいで少し高いことだった。
「へえ、随分と西方と似ているな」
「こっちも煉瓦がないですからな。まあ総督府の庁舎は煉瓦造りですが」
アーノルドが指差した先には、赤煉瓦で建てられた三階建てくらいの大きな庁舎が目に入ってきた。
西方総督府の庁舎より一回り大きいくらいであり、西方よりも北方の方が人口も多く栄えているのか、と思ってしまう。
「総裁殿、庁舎が大きいのは北方軍のせいですな」
アーノルドがユートの内心を読んだのか、解説してくれる。
「軍?」
「そうです。北方は常に戦いが絶えません。ですから軍の規模が西方に比べて大きく、その為に司令部も入っている庁舎が大きくなってしまっているのです」
なるほど、と思っているうちに庁舎の門が慌ただしく開かれてユートたちを乗せた馬車が通り、馬車を止める停車場につけられる。
すぐにハミルトン子爵が自ら馬車の扉を開き、アナに手をさしのべ、そのままエスコートするようにして応接間まで案内された。
「まこと申し訳ありませんが、ここで少しお待ち下さい」
ハミルトン子爵はそう言うと急ぎ足で戻っていく。
恐らくウェルズリー伯爵を呼びに行ったのだろう。
「そういえばウェルズリー伯爵とハミルトン子爵ってどっちが偉いんだ?」
ユートはふと気になったのでアナに訊ねてみる。
子爵のハミルトンが北方総督で、伯爵のウェルズリーが北方軍司令官という関係だといまいちどちらが上なのかわからないのだ。
八歳児にものを教わることになるが知らないのはしょうがないし、アナも八歳とは思えないほど貴族については勉強しているらしいことがこの二ヶ月弱の間にわかっていた。
「爵位は関係ないのです。例えば男爵が王立士官学校を卒業して部隊に配属されても、上官の従騎士より立場が上だったらめちゃくちゃなのです」
アナはそういうとにこやかに笑って胸を張って見せた。
確かにその通りだ、と納得せざるを得ない答えだ。
「それにハミルトン子爵は爵位こそ子爵ですが、先の南方戦争で総軍司令官として挙げた功績から一代に限って侯爵の席次を賜っているはずですよ」
「名誉侯爵みたいな感じ?」
「ですね。ですから、宮廷席次も役職も高いハミルトン子爵の方が偉いのです」
そう言っているうちにハミルトン子爵が戻ってくる。
「お待たせ致しました。殿下、こちらへどうぞ」
「わかりました。ユート、エスコートをお願いするのです」
お願いされてもどうしていいか困ったが、案内してくれるハミルトン子爵にアナがついていくので、その後ろを付き従っていく。
アーノルドもまたユートの後ろから付き従ってくるが、エリアたちはどうやらここで待つようだ。
勅使として正使のアナ、副使のユート、そしてユートの従騎士で事実上の副使のアーノルドはともかく、立場上は平民に過ぎないエリアたちはさすがに通してもらえないらしい。
ユートたちが大広間に通されると、既にウェルズリー伯爵らしい男が直立不動で待っていた。
ウェルズリー伯爵は“雷光”などという仰々しいあだ名をつけられていることから、ユートは軍人然とした男かと思っていたが、会ってみれば細身で色白、頭も茶色の巻き毛で、軍人というよりは官僚と言った方が似合いそうな男だった。
ウェルズリー伯爵はアナが入ってきた途端、拝跪して礼をし、案内してきてくれたハミルトン子爵もまたその横で同じように拝跪の礼をする。
「苦しゅうない。お役目ご苦労である」
アナはいつもとは違う、王女様の声色でそれに応じる。
「面を上げよ。陛下より勅諚を賜り、はるばる北方まで来た故、心して聞かれよ」
「はっ」
ハミルトン子爵もウェルズリー伯爵も再び頭を下げる。
「奉勅! ノーザンブリア王国第二王女アナスタシア、畏れ多くもここに勅を奉ず。朕病に倒れるを奇貨とし佞臣蠢動、朕が意に反し第一王女アリスを害さんとす。ブラッドリー及びレイモンドに命ず。第一王女アリスに従いて朕が意に反する君側の奸を討つべし」
アナは一息に言い切った。
そして勅諚を上席であるハミルトン子爵に手渡す。
ハミルトン子爵はすぐに玉璽に目を走らせ、そこに真物の玉璽が捺されているのを確認してウェルズリー伯爵に渡し、ウェルズリー伯爵もまたそれを確認する。
沈黙が場を支配する。
その沈黙の意味は明らかだった。
ウェルズリー伯爵もハミルトン子爵もこれが偽勅である可能性は高いことはわかっていて、それでもどうするべきなのか考えているのだ。
いくら偽勅といえども明確な証拠もなく偽勅と言ってしまえば今度は不敬罪に問われる可能性もあるし、だからといってこの王位継承戦争で負け組についてしまった場合、よくて北方総督や北方軍司令官という地位を追われ、悪ければさらし首だろう。
「ふむ、まさに大御心というやつですな」
ウェルズリー伯爵がその沈黙を破る。
「君側の奸を除くため勅命を得て戦う。男児の本懐に尽きるものです」
それが心の底から言っていないことは腹芸に慣れていないユートにすらわかった。
「しかし、残念ながらそうもいかんのですよ。ここは北方ゆえ獣人との戦いが日常。陛下より北方軍の軍権を預かるものとして、陛下の臣民を危険にさらすわけには参りません」
餓狼族の脅威を前面に押し出しての拒否だった。
「レイモンド、陛下の勅を受けて軍を興さぬ、というのか?」
軍においては特に勅命は絶対視される。
軍の頂点が国王であり、そして命令を絶対とする組織だからだ。
ましてアーノルドは事前にウェルズリー伯爵のことを軍人気質で命令を絶対とする男、と評していた。
その男のまさかの拒否に、アナはじろりとウェルズリー伯爵を睨めつけ、ウェルズリー伯爵もまた傲然と――少なくともユートにはそういう風に見えた――アナに視線を返す。
アナの視線と、ウェルズリー伯爵の視線がぶつかり合う。
さすが“雷光”の異名をとるウェルズリー伯爵の視線は厳しかったが、アナもまたそれに負けていない。
ひりつくような緊張感が大広間に漂った。
「レイモンド、少し落ち着かんか」
たまらずハミルトン子爵が割って入った。
それは幼いアナを庇っただけでなく、勅使をにらみ返すなど、それだけで不敬罪に問われてもおかしくないウェルズリー伯爵も庇う意図だったのだろう。
「総督閣下、小官は北方軍司令官としての任務を述べたに過ぎません」
「まあ勅使殿も副使殿も長旅でお疲れのところである故に粗末ながらも食事を用意させております。お召し上がりになられませんかな?」
ウェルズリー伯爵の言葉を無視してハミルトン子爵がそう続ける。
「わかりました。ご馳走になりましょう。供の者たちにもよろしく頼みますよ」
「はっ! ではこちらへ」
その後は食事となったが、ユートは食事の味などわからなかった。
アーノルドはいちおう貴族ということで席に着いていたが、エリアやアドリアンたちはどうしているんだろう、とちょっと不安に思う。
「ユート殿、供回りの方にも食事は出しております故にご安心を」
そんなユートの内心を察してかハミルトン子爵がそう言ってくれたが、問題はそこではない。
食事をしながらも時折真剣で斬り合うようなアナとウェルズリー伯爵の会話だった。
アナは八歳児から王女様にクラスチェンジしているようで、上手くウェルズリー伯爵をいなし、時折突っ込んだ話もするが、ウェルズリー伯爵もまた人生経験豊富――アーノルドと同い年としたら今年五十になるはず――であり、アナに言質を取られるようなことはない。
そうしているうちに食事も終わってしまった。
「ティータイムなどどうですかな?」
ハミルトン子爵が気をつかってお茶を勧めてくれる。
彼の立ち位置はよくわからないが、アリス王女の傅育官をしていたこともあり心情的にはアリス王女やアナ寄り、といったところなのだろうか。
「紅茶か?」
「何かご要望でも?」
「北方に来たからにはメリッサ茶を」
メリッサ茶、というのが何かわからなかったが、アナの言い方を考えるに北方の名産のようだった。
ハミルトン子爵は頷いて執事にその旨を伝える。
「では、こちらへ」
しばらくして執事がティータイムの用意が出来たことを告げに来ると、ハミルトン子爵は三度案内してくれる。
そこは一面ガラス張りであり、庁舎の庭園が見えるそう大きくはない部屋だった。
ティールーム、というやつだろうか、と思いつつ、日本どころかこの世界に来てからも体験していなかった、貴族的な食事、貴族的なティータイムに少しばかり尻込みする気持ちが出てきていた。
ああ見えてサマセット伯爵はざっくばらんな人物だったのだな、と今更ながらの感謝が出てくるほどだった。
そんなユートの内心を知ってか知らずか、アナはちらりとユートの方を見ると、庭園を一望できる一番真ん中の席に座った。
「ユート、わたしの隣へ」
王女様モードのわらわからわたしに戻っている、と思ったがアナはにっこりと笑う。
「ティータイムは立場や役職は関係なく、腹蔵なく話せばよいのです」
なるほど、日本の茶室のようなものか、と思う。
そして同時にハミルトン子爵はこれを狙ってティータイムを提案したのか、と理解するとともに、やはりハミルトン子爵はアリス王女に組する気が十分あると判断した。
「レイ、久しぶりだな」
同期生と言っていたアーノルドがウェルズリー伯爵とにこやかに話し始める。
「サイラスですか。そういえばポロロッカの責任を取って軍を去っていたのでしたね」
「そっちも作戦部長から北方軍だろう。お互い難儀なことだ」
そう言いながら笑い合っている。
さきほど棘のある言葉を返してきたとは思えないほど妙に丁寧なものの言い方をする人だった。
「で、どうなんだ? 北方軍に飛ばされたことを根に持っていないわけではないだろう?」
アーノルドが鋭く斬り込んでいく。
ここら辺は同期生であるという前提がなければ出来ない会話だ。
「まあ腹蔵なく言えば、だ。さっきのが本音です。ジャスティンはともかくとしてタウンシェンド侯爵には不満はありますが、それ以上に北方の領民が大事です」
「つまり、獣人の脅威がある限り、北方軍を動かすことは出来ない、ということか」
「そういうことになります」
アーノルドの言葉にウェルズリー伯爵が頷いた。
「先立っても獣人どもに略奪されたばかり――救恤策はハミルトン子爵がどうにかしてくれますが、軍の方でもより警戒を強めねばなりません。奴らは冬になれば食糧がなくなるのか略奪がひどくなる傾向にありますし」
ウェルズリー伯爵の言葉にユートは眉をしかめる。
おそらくそれはゲルハルトがやったことだろうし、レオナの話を聞いている限り、北方大森林は貧しい森だから冬になれば食糧が不足して略奪に頼らざるを得ないのもまた事実なのだろうということがわかるからだ。
さすがに北方の領民がどうなろうが出兵しろとは言えなかった。
「まあ私と少数の部隊ならば出せないことはありませんが、サマセット伯爵が望むのはそんなことではないでしょう?」
そう言いながらちらりとユートの方を見る。
サマセット伯爵が全ての絵図を描いているのも理解しているし、サマセット伯爵の狙いが指揮官の確保だけでなく数的不利の挽回というのもあるのを把握しているようだった。
「そうですね。ああ、もちろん何もないよりはウェルズリー伯爵に来て頂く方がよいのですが」
ここは腹を割って話すべきと判断してユートも返事をする。
指揮官不在よりは、数的不利は挽回できなくともウェルズリー伯爵だけでも確保する方がよっぽどマシだ。
「しかし、数的不利――しかもポロロッカで散々な目に遭った上にもともと警備兵主体で戦闘向きではない西方軍でしょう? いくら私でも中央軍にクリフォード侯爵領軍相手では勝てませんよ。特にクリフォード侯爵領軍の精強さはよく知っています」
「勝てないいくさはやらない、ということですか?」
「ええ、そうです。戦いというものの大半は、戦う前には勝敗は決しているのです。そして、戦う前に決した勝敗をひっくり返すのはいかな名将でも不可能です」
ウェルズリー伯爵が言いたいのは戦略で負ければ作戦や戦術で挽回することは不可能、ということらしい。
「では、北方軍を出せる環境になれば、レイモンドは姉様の味方をするのですか?」
アナがようやく口を開いた。
「それはもちろん。私とて王国軍人――喜んで勅命を奉じて陣頭に立ちましょう」
「わかったのです」
アナはそういうと、ユートの方を向き直る。
「ユート、ごめんなさいなのです。もう一度わたしに力を貸して下さい。ユートの力が必要なのです」
「……えっ?」
「レイモンドは言いました。北方軍を出すには、獣人がいるから不可能だ、と。それならば獣人がこなくなればよいのではないですか?」
「……まさか皆殺しに!?」
ユートはアナがなんていうことを言い出すのか、と驚いていた。
「それこそまさか、です。レイモンドやブラッドリーが出来ないことをわたしがユートの力を借りたくらいで出来るわけないのです。でも、ユートにはゲルハルトとの縁があるのです」
ようやくアナが言いたいことが朧気ながら見えてきた。
「つまり、獣人との講和、ということですか?」
「そうです。その為にはレオナやゲルハルトと交友のあるユートの力が必要なのです」
ゲルハルトと交友がある、といってもあの死の山で会っただけだし、レオナに至ってはアナもまた交友があるはずだ。
果たして自分が力になれるのか、とユートは悩んだが、アナは構わず言葉を続けた。
「それに長年の王国の課題であった、北方大森林との関係を改善できたならば姉様の政治的な得点にも繋がるのです」
「でも、危険ですよ?」
正直、ユートの中には既に危ない橋をなんども渡っているのに、これ以上渡りたくはない、という気持ちもあった。
それを抜きにしてもゲルハルトはともかく、他の餓狼族はどう出るかはわからないし、レオナがいるとはいえ、妖虎族もどう出るかはわからない。
個人的な友情は感じてくれているかもしれないが、あの略奪隊を率いていたゲルハルトも恐らく餓狼族の中でそれなりの立場なのだろうし、そうなると友情よりも餓狼族の利益や立場を優先しなければならないだろう。
「危険は承知なのです。でも、姉様を王位に就けるにはこれしかないのです。そして母様は北方大森林エルフ族の出。北方大森林の血を引きながら、王国の王女でもあるわたししか、この仕事は出来ません」
それに、とアナは続けた。
「わたしは、こんなウシャンカを被りたくはないのです。北方で、獣人と人間がいがみ合うのは見たくないのです。だからユート、力を貸して下さい」
そこにいたのは八歳の少女だった。
しかし、それはアナスタシア・ノーザンブリアという名のカリスマだった。
ユートはその言葉に魅入られ、頷くしかなかった。