第072話 北方へ・前編
「まずはメンザレに行くニャ」
そう言いながらレオナは地図上のメンザレを指差していた。
馬車はメンザレまでしか使えないらしいので、サマセット伯爵家の御者が、ユートたちの馬車をレビデムまで戻すためだけについてきてくれており、ユートたちは荷台でのんびりとすごすことが出来る。
意外なことに馬車の振動はそこまで激しくはない。
街道が整備された石畳の道であることが原因か、それとも何か工夫でもしているのかわからなかったが、歩いて行くよりはよっぽどマシだった。
「ユート、聞いてるかニャ?」
レオナがユートをじろりと見ていた。
どうやらユートがショックアブソバーでもあるのか、と考えている間に何か説明していたらしい。
「あ、ああ」
「絶対聞いてなかったニャ。もう一度言うニャ。メンザレからは苦難の川に沿って遡るニャ。そして、だいぶ上流から死の山に入ってあとは縦走ニャ」
「苦難の川って死の山まで続いてるの?
エリアがそんな感想を漏らす。
「わたしも苦難の川の源流はわからない、と傅育官に習ったのです。レオナはすごいのですよ」
アナですらこうなのだから、ことさらエリアが無知というわけではなく、苦難の川もまた源流は死の山である、ということは王国人にとっては初めて知ることだったようだ。
「あちきがすごいわけじゃないニャ。ただ多くの妖虎族が、命を賭してこの死の山に挑んで伝えてきたことニャ」
「あんたたち、そんなずっと死の山に出入りしてるの?」
「そうニャ。北方大森林は貧困の森と言われるくらい、生き物が住むのに過酷な森ニャ。獲物を得るには死の山に挑むしかなかったニャ。あちきの山の中の勘や鎧通しを使った戦い方もそこで学んだものニャ」
レオナは少しだけ瞑目する。
恐らく、先人の労苦を少しだけ偲んだのだろう。
「そっか……あたしたちは魔の森でなんであんなに魔物が出るんだろうって思ってたけど、それも贅沢なことだったのかもね」
「それはそれで苦労ニャ。ポロロッカに遭っているから魔の森の方が楽なんて言うつもりはないニャ」
それでその話を打ち切るとレオナは再び北方への登山ルートに話を戻す。
「死の山に入ってからが問題だニャ。基本的に魔物は回避する方がいいニャ。もちろん食糧にする最低限は除いて、だけどニャ」
「あんたに任せたらいいのよね?」
「もちろんあちきに任せろニャ。死の山を北に進んだ後、本当ならすぐにあちきら妖虎族の集落ニャ。でも死の山のルートはともかく、妖虎族の集落は教えるわけにはいかないニャ」
「わかってるのです。わたしたちと獣人たちは潜在的な敵対関係なのです」
「難しい言葉知ってるニャ。まあそういうことニャ。北方のうち西部ははあちきらが住む北方大森林で、北方首府ペトラは北方全体で見ればだいぶ東にあるけど、そこまで山中を歩くニャ」
問題はないか、とレオナが辺りを見回す。
「わたしはもちろん頑張ります!」
「今更文句はないわよ」
アナが握り拳を作っている横で、エリアがこんな無茶を考えたサマセット伯爵に少し不満のありそうな言葉を吐く。
「まあそういうな。こいつが成功しないとエレル冒険者ギルドの存続に関わる問題だろ? それに俺は帰ってきて結婚するんだ。絶対成功させないとな」
ユートは内心それは死亡フラグ、と思っていたが、それを口に出すほど愚かではない。
「そうね! セリーちゃんの為に頑張りましょう!」
「おい! そこは俺のためにじゃないのかよ!?」
エリアは何故か勝手に納得しており、他に何か言い出す者もいなかったので、レオナが言い出したルートで進むことになった。
メンザレまで二週間ほどかかって到着する。
その間に手持ちの食糧は全部使い切ったのでもう二週間分をメンザレで購入し、馬車を御者に任せる。
「ここからが本番ニャ」
メンザレを出るときにそう言ったレオナの言葉は脅しでも何でもなかった。
「結構……川筋を登るのって……しんどいのね」
エリアが途切れ途切れに息を吐きながらユートに話しかけてくる。
その吐息が、妙に色っぽく聞こえて、ユートは思わず返事が出来なかった。
「どうしたのよ、ユート?」
アドリアンが余計なことを言うせいだ、と頭をぶんぶんと振ってエリアの方を向き直る。
「いや、ちょっと息切れしそうだっただけだ。てかアナは大丈夫か?」
「はい! レオナに身体の使い方を教えてもらったので大丈夫です!」
元気よくそう言っていたが、顔には少し疲労の色が見える。
「レオナ!」
「ちょっと休むかニャ? ちょうど昼だニャ」
先頭を行くレオナは息一つ切らさずにそう振り返った。
まあ彼女は斥候としての仕事があるので、荷物はかなり軽めにしてあるし、身体能力以外にもそこら辺の差もあるのだろう。
「どうする? 狩りをしようか?」
「それがいいニャ。食糧は出来るだけ温存したいニャ」
ユートの提案にレオナが乗ってきたので、すぐに二人で狩りに行く。
とはいえ、ここらへんは魔の森ではないらしく、狩れるのは魔物ではなく普通の動物だった。
「野ウサギが三羽ニャ」
そう言いながらレオナが苦難の川の水を使って巧みに捌いていく。
その間にアドリアンが火を熾してくれていたので、焼き上げて食べる。
「麦はいらないわよね?」
「昼はやめとくニャ。食糧は出来るだけ節約する方がいいニャ」
昼食を摂り終えると、すぐに出発して川筋を登り始める。
意外なことにアナは血抜きした野ウサギの肉に塩を振って焼いただけ、という野趣溢れる食事を、珍しがって美味しそうに食べていた。
夜まで歩くと、川筋にテントを張って野営の準備をする。
「もっと山側に入った方がいいんじゃないか?」
その場所を選んだ時、アドリアンが不思議そうにそうレオナに聞いていた。
野営をする時に水場の近く、ただし急な増水による鉄砲水に備えてある程度距離を置くか、高さのある場所を選ぶのが基本だからだ。
「それは危険ニャ。あちきら妖虎族もこのあたりまでは来てないから、どんな動物がいるのかすらわかってないニャ。増水とどっちが危険、となると森に入る方が危険ニャ」
このあたりは王国は立ち入るメリットがないから立ち入らないし、レオナたち妖虎族もこんな遠くまで狩りにこなくとも魔物を狩れるので前人未踏の森となっているらしい。
「そうか。じゃあしょうがないな。ただ雨が降ってきたらすぐに退避するぞ?」
「それはもちろんだニャ。じゃあ今日の夜の火の番を決めるニャ」
「人数がお姫さんを除いて五人だから、一人でいいか。というかアーノルドのおっさんは見張りとか出来るのか?」
「ははは、西方軍に来てからはともかく、南方軍で軍陣にあったころはしょっちゅうでしたよ」
アーノルドがそう笑い飛ばすので、四人で分担して一人は完全に眠る、ということにする。
五日に一度、見張りをしなくてよい日が出来る、ということだ。
「わたしもやります!」
アナはそんな風に張り切っていたが、八歳の少女に見張りをやらせたところで危険極まりないだけだ。
レオナのような感覚があるならば大丈夫かもしれないが、あれは元々の獣人の種族特性に加えて幼い頃から死の山や北方大森林で戦ってきたが故の感覚なのだろうし、それをアナに期待するのは無茶だった。
夕食に干し肉を少し入れた大麦のオートミールを啜り、少し取れた野ウサギの肉を頬張って終わる。
野営ではこんなもの、とユートはわかっていたが、それでも味気なさに少しばかり嫌気がさすこともある。
そんな食事をなぜかアナは喜んで食べていたが。
「ユート、起きるニャ。交代の時間ニャ」
アドリアン、エリア、レオナと続いて最後の見張り番となっていたので、起こされる。
もう初秋という頃合いの夜明け前だけあって、少しばかり肌寒かったが、鎧を着ているのでむしろそっちの方がありがたかった。
かわりにレオナが毛布に潜り込み、ユートは焚き火の傍でぼんやりと座っていた。
見張りといっても魔物とは違って野生の動物はそれなりに火を恐れてくれているし、今日狩りをした感覚から言ってもそうそう動物はいないようだった。
「ユート、寒いですね」
ふと声を掛けられてびっくりする。
アナだった。
「何をしてるんだ!?」
「わたしも見張りがしたいです」
「寝とけ。明日歩いてるうちに倒れられる方が困るんだ。レオナ以外はみんな食糧やらを担いでいるから、アナを担げるような余裕はないんだ」
「もうぐっすり寝ましたよ。お子様ではないのです」
アナがそう言ってぷんぷんと怒っているが、その姿はどう見てもお子様だった。
「それに、わたしだけが特別扱いで、みんなに守ってもらうのは申し訳ありません」
「八歳児と俺たちと一緒にするな」
「わたしもレディーなのですよ? それに傅育官には魔法も習っているから役に立ちますよ!」
「魔法?」
「はい! 火魔法、風魔法、水魔法、土魔法全部それなりに使えますよ?」
四種全部とはまたすごい、とユートは素直に感心する。
ユートは周囲には火魔法を使えるセリルしかいなかったし、それ故に他の魔法は試したこともなかった。
ポロロッカの時に一緒に戦った法兵小隊長ワンダ・ウォルターズが王国軍の法兵は全種類使えると言っていたので、彼女に他の魔法を教えてもらおうかと思っていたのだが、ポロロッカ直後の人事異動で彼女は王都の方に転属となって果たせていない。
「それは、すごいな。俺は火魔法しか使えないしな」
「でしょう? だからわたしも戦いたいのです!」
「それはダメだ」
そう言われてしゅん、となってしまうアナ。
「いいか、アナは俺たちの護衛の対象で、勅使なんだぞ? 万が一にでも怪我させるわけにはいかない」
「わたしが王女だから、ではないのですね」
「まあそれもあるけど、単に一緒に戦うって依頼なら怪我することも織り込み済みだしな」
「――ありがとうございます。じゃあかわりにユートに魔法を教えます」
「俺に?」
恐らくユートはあっけに取られた顔をしていただろう。
「ユートは火魔法しか使えないのでしょう? ならわたしが水魔法や風魔法や土魔法を教えるのです!」
そう言い始めて、ユートは苦笑しながら八歳児に魔法を教えてもらう羽目になっていた。
そうしているうちに時間が過ぎ、空が白み始める。
ユートは魔法の練習を止めて朝食の準備をする。
「ユート、朝日が綺麗です!」
アナがそう叫ぶ声が聞こえた。
東の空に、今まさに太陽が昇らんとしていた。
「王都から見た朝日よりももっと綺麗です! 星空も朝日も王都だけではわからないことばかりなのです!」
アナの大騒ぎに、エリアたちも目覚めたらしかったが、その微笑ましい姿を温かく見守っているだけだった。
翌日も同じように歩きづめた。
苦難の川はどんどんか細くなっていって、死の山がいよいよ近づいているのがわかった。
「もうそろそろ死の山ニャ」
レオナが振り返って全員にそう告げる。
アドリアンとエリアの顔に、緊張が走ったのがわかった。
ユートもそうだが、レオナ以外の三人はいくら魔物との戦いに離れているとはいえ、初めて戦う場所となると出てくる魔物の種類も違っていたりするだろうし、緊張するのは当然だった。
アーノルドは柔和な笑顔を絶やすことはなかったが、それでも心のうちは戦場に赴く時と同じような気分になっているであろうことはよくわかった。
唯一、アナだけがどんなところなのだろうかという興味津々の笑みを浮かべていた。
「どういう順で進む? レオナが先頭だよな?」
「次はアドリアンさんでお願いします。で、中衛で僕とエリア、その後ろにアナを置いて、最後尾はアーノルドさん、でどうでしょう?」
戦闘力が全くないと言ってよいだろうアナを出来るだけ守る形だった。
「側面から魔物が現れたらエリアが迎撃してくれ」
「ユート、あんたはしっかりアナを守るのよ?」
「もちろんだ」
ユートを指差すエリアにユートが笑い返した。
気の置けない仲間同士の、心地よい連帯感だった。
そして、ユートの指示通りすぐに順番を入れ替えて、より慎重に進んでいく。
翌日も、その翌日もまた同じだった。
「きっついわね」
息苦しそうに、隣を歩くエリアが呟く。
既にメンザレを出発して二週間が経過しており、死の山もだいぶ高いところまで登ってきていた。
尾根を伝って山頂から山頂に渡り歩くいわゆる縦走をしている為、いつまで経っても高度が下がることはなく、こうした高山が初めてのエリアは軽い高山病に近い症状になっているようだった。
既に十月も半ばであり、高山ということもあって気温も下がり、なかなかに辛い環境となっていた。
「そろそろ東へ山脈が延びるあたりだニャ。ようやく半分、というところだニャ」
レオナがそんな絶望的な情報を与えてくれる。
「食糧、保つか?」
予想よりも死の山の魔物が少なくなっていたこともあり、もとより二週間分しか用意していなかった手持ちの食糧はどんどん減っていっている。
「どうにか保たせるしかないニャ」
「今日は早めに野営の準備をして狩りの時間を多めに取ろうぜ!」
アドリアンの提案に全員が力なく頷いた。
そして、更に一週間が経過した頃だった。
「とうとう大麦が尽きたわ」
野営の途中にエリアが疲れた声でそんなことを言った。
既に干し肉は尽きており、もちろんパンなどあるわけもない。
野菜など最初から持ってきていないので、レオナは途中から生肉を食べるように指示していた。
アドリアンやアーノルドはともかく、アナはこれをものすごく嫌がっていたし、エリアも嫌そうな顔をしていた。
ユートも嫌だったが、ビタミン不足を防ぐための知恵なのだろうと我慢して鉄臭い生肉を夕食の時に頬張っていた。
「魔物を狩ればどうにかなるニャ」
レオナは平然とそんなことを言っていたが、エリアの目からは珍しく活力がなくなっている。
「エリア、大丈夫だ」
「何が大丈夫なのよ!?」
エリア自身もそう怒鳴って、それが八つ当たりとわかっているのだろう。
ぷい、と横を向いてしまった。
そんな雰囲気の悪いまま、最後のオートミールを摂って眠る。
「(ねえ、ユート。本当にたどり着けると思ってる?)」
隣の毛布からそんな声が聞こえてくる。
ユートにしか聞こえないように小声で言っているらしい。
「(あと一週間、今が一番苦しいときだろ?)」
「(本当にあと一週間で着くの? あたしにはもっと距離があるように思うわ)」
「(何言ってるんだ? レオナを信じろよ)」
「(信じようとしても、不安なの!)」
エリアの言葉に、ユートはこっそり起き上がってエリアの毛布に近づく。
そして、毛布から出している頭を撫でてやる。
「(ユート……)」
「(大丈夫。レオナはこれまでもずっと共に戦ってくれた仲間だ。大丈夫。俺は信じてる)」
ユートがそう言うと、エリアは何も言わず、顔の半ばまで毛布に潜り込んだ。
しばらくしたら、エリアはすうすうと寝息を立てていた。