第240話 海が見たくて
万事休す。
その土煙が、歩兵の集団の蹴立てるものと気づいた時、ユートの脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。
ユートたちはすでに四十人を切っている。
この少人数で歩兵の集団と殴り合いをすれば、確実に負けるだろう。
ここまで追い詰めたのに、結局ローランド国王は逃げおおせ、画竜点睛を欠く結果となってしまうのか、と呆然とすらした。
「ちょっと、ユート……」
エリアがユートに心配そうに声をかけた。
すでにローランド国王を討つか捕らえるかして戦争を終わらせることが出来なくなった。
だから、もはやここからどうやって生きて還るのか、に焦点は移っているはずだったが、ユートはどうにも気持ちの折り合いをつけられなかった。
ユートは一千近い兵でローランド王国王都ローランディア乗り込んで、今や四十を切る兵しか残っていないのだ。
ここまでの道のりで物言わぬ骸となった者たちは全て無駄死にだったと認めなくなかった。
「ユート……」
「エリア……」
生気のないユートに一段と心配げにエリアがユートの眼をのぞき込んだ。
蠱惑的な栗色の瞳には、ただユートが心配だ、という色しかなかった。
いや、そんな目をされても、とユートは思った。
「ユート、エリア、何してるニャ?」
レオナの声が響いた。
「だって……」
「合流するニャ!」
「え?」
「あのむさい長髪に見覚えはあるニャ?」
そう言われても、ユートもエリアもまだ遠い歩兵の姿など肉眼で捉えることは出来ない。
しかし、“むさい長髪”と言われただけで誰かわかった。
「よう、ユートにエリア。遅れちまったな」
ほこりまみれの“むさい長髪”を風にたなびかせて、葉巻をくゆらせている男がそこにいた。
槍を武器とする、武器マニアの、頼れる兄貴分――アドリアンだった。
「アドリアンさん!」
「あんた、今まで何やってたのよ!?」
声にすら嬉しさが乗ってしまったユートと、歩兵がアドリアンと気づいて騙したわけでもないのに騙されたとでも思ったのか怒り出すエリア。
しかし、その声にはいずれも安堵の成分が強くあった。
「ローランド国王は捕らえたぜ。大手柄だろ?」
アドリアンの言葉にユートは苦笑いを隠せない。
ここまで追い詰めたのはユートたちなのだが、あのままいけば逃げられていたかも知れない。
そう考えればアドリアンの大手柄であるのは論を待たなかった。
「でもどうしてこっちに来たニャ?」
ユートたちが王都ローランディア近づいたのは東側からであり、ここは西側――
普通に考えれば、アドリアンがこんなところにいるわけがなかった。
「それがな、あの後、イエロ海兵隊長と敵を食い止めようとしたんだが、騎兵にだけスカされてな。後はイエロ海兵隊長に任せて俺は騎兵を追っかけたんだが、ローランディアには入らずにこっちに来てよ……」
アドリアンが少しだけ決まり悪げに笑う。
「それに向こうは騎兵の脚、こっちは怪我してる俺の足に合わせた結果見失っちまったんだよ。それで、必死に探していたら、ちょうど偉そうなおっさんが向こうから馬でやってくるし、ルーテル伯の騎兵の一員だろうと捕まえたら、よ」
その言葉を聞いて、ユートは必死に吹き出すのを我慢していたが、レオナは吹き出していた。
「それ、完璧に運じゃないのっ!」
混ぜっ返すようなエリアの言葉にユートも思わず吹き出し、レオナは大笑いし、そしてその笑いはそこにいた冒険者たちにも伝染していった。
「そちがエーデルシュタイン伯爵とやらか」
すでに後ろ手に縛られていた男が、尊大にユートに話しかけてきた。
尋問をしているはずなのだが、どう聞いてもその口調はユートがローランド国王に謁見を受けているようにしか聞こえなかった。
「エーデルシュタイン伯爵とやら、朕は騎士道に則り、扱われることを求めるぞ。そちの剣に賭けて誓え」
その尊大な態度は、二百の兵に囲まれてのローランド国王の精一杯の虚勢だったのか、それとも生まれながらの王故にそうした言い方しかできないのかわからなかったが、ともかく愉快ではないのだけは確かだった。
同行していたアドリアンはすでにこめかみのあたりをちりちりされていたし、エリアもふてくされたような表情を作りながら怒りをかみ殺しているのがユートにはわかった。
「ローランド王」
「なんじゃ?」
「すでに虜囚であるのに、そんな要求が受け入れられると思っているのか?」
「当たり前であろう? そちも騎士ならば、作法の一つも学んでおろう」
かみ合わない会話に、ユートは困惑しかなかった。
捕虜に対する騎士道に則った扱い、というのは要するに自国の同階級の者と同じ扱いを求めるということだ。
まさかここでローランド王をアリス女王と同じ扱いなど出来るわけもない。
もちろんローランド王も厳密にアリス女王と同じことまでは求めないだろうが、これから帰りの行軍があるのにそんな約束をしてしまったら厄介なことになりかねない。
「おい、ユート、俺はイエロ海兵隊長やアルトゥルのおっさんたちを収容してくるわ」
これ以上いれば爆発しかねないと思ったのか、アドリアンがそう小声で告げてローランド国王から離れていった。
「ほれ、早く誓わんか」
まだ言いつのるローランド王の言葉に、ユートはこれ以上会話を続けることのメリットも感じなかった。
「見張っておけ」
それはローランド王に向けられたものではなかった。
すぐ側にいた二人の餓狼族に、ローランド王を委ねると、監視しておくことと一切口を利かないことだけを厳命してローランド王から離れた。
アナやアルトゥルたちと合流するのはすぐ出来た。
ローランディアに残った連中も国王を捕虜としたことで散発的に抵抗していた王都の警備兵や近衛兵たちが降伏し武装解除したので、合流することが出来たし、夜までにイエロ海兵隊長の部隊とも合流できた。
「まさかやっちまうとはな」
イエロ海兵隊長はそうあきれたように言っていた。
決死の――というよりもほとんど必死の任務だったが、成功する確率などあってないようなものと思っていたらしい。
ユートもその見解に特に異議は唱えなかった。
過去の歴史を振り返ってみても、窮地に追いやれての起死回生の作戦など、大体の場合は無駄に終わるのだ。
「で、よ。ユート卿、国王は?」
「あっちでゲルハルトの部下に見張ってもらってます」
「そうか。連れて帰れそうか?」
「なんでも騎士道に則った扱いを求めるとか言ってました」
ちっ、とイエロ海兵隊長は舌打ちした。
「面倒な奴だな」
イエロ海兵隊長はこれでもノーザンブリア王国の王立士官学校出なので、貴族の礼儀作法や騎士の心得も学んでいる。
「別にこのまま連れて帰ってもいいだろうが、よ」
イエロ海兵隊長が吐き捨てるように言った。
ここでユートがローランド王に対して騎士道に則った処遇をすることを誓わなければ当然ながらローランド王国の臣民や将兵のノーザンブリア王国に対する感情は悪化する。
国王が敬愛されているかどうかは別として、国王は一人の個人にしてローランド王国を代表し、象徴しているのだ。
それが牛馬のごとく扱われたかもしれないという予断の入り込む余地が残るだけで対ノーザンブリア王国感情の悪化は否めないだろう。
特に、この戦いは勝ち戦になりかけたにも関わらず、ユートたちの王都ローランディア強襲という奇策の前に国王が捕虜になったのであり、それによる敗戦はローランド王国の貴族から平民に至るまで受け容れがたいと感じていることもそれに拍車をかけているはずだ。
「だからといって、騎士道に則った扱いってのも……」
「まあな」
帰路を考えれば、当然ながらそこまでの厚遇は出来ない。
「ならば一人の騎士として遇すればいいのではないでしょうか?」
いつの間にか話を聞いていたアナがそんなことを言った。
「騎士たる者、ひとたび戦場に立てばは階位爵位の高低に関わらず、戦友として戦うと聞きます。国王であっても騎士たることには変わりはなく、騎士として扱うのは失礼にはあたらないと思うのです」
アナの言葉にユートは苦笑いしていた。
「なんと……騎士として扱うというのか」
アナの言葉をそっくりそのままユートがローランド王に伝えると、ローランド王は一瞬だけ驚いた表情をして、すぐに表情を戻した。
「まあそちの顔を立ててやろう。ところで朕の家族はいかがしておる? 騎士たる者、無礼は働いておらぬであろうな?」
ぬけぬけとそんなことを言うローランド王にとうとうユートも愛想が尽きた。
その“朕の家族”とはルーテル伯との戦いの直後、このローランド王が見捨てて逃げたあの王族たちのことだ。
さすがにこの言い草にユートも怒りに我を忘れた。
気づけば、目の前にローランド王が転がっていた。
鼻と口からは血を流しており、ぐったりとしている。
「ユート、やめろ!」
後ろから羽交い締めにしているのはアドリアンだということがわかった。
「ユート、落ち着いて!」
見ればエリアも右手にしがみついてユートを止めてくれている。
二人ともようやくユートが我に返った、と思って少し力を抜いた。
「――びっくりさせないでよ。突然ローランド王に殴り掛かるんだもん」
「いや、だってな……」
「わかってるわよ。でも一応こんなのでも王様なのよ。殴ったら問題になるのはわかるでしょ」
確かにそれはそうだ。
「まあしょうがないのです。突然ローランド王が乱心してユートに掴みかかろうとしたのですから」
アナが淡々とそういう。
正当防衛、ということだろう。
「ああ、俺も見たぜ」
イエロ海兵隊長までが話を合わせ、さらにゲルハルトもレオナも賛同する。
そのまま、殴り倒されたローランド王を放置して、全員から笑い声が上がった。
「わしが殴っておればよかった」
アルトゥルは冗談交じりにそんなことを言っていたが、丸太のようなアルトゥルの腕で殴られれば恐らくローランド王は首の骨を折っていただろう。
ふと見ると、海が見えた。
「海だな」
「そうね。早く帰らないとね」
ユートの何気ないつぶやきに、エリアがそう言った。
「あの海の向こうに、レビデムやエレルがあるんだし」
思えば遠くにきたものだ、とユートはふと思った。
この海が見たくて、戦争をしていたのかも知れない、とユートはふと思った。
なぜかはわからなかったが、ユートはこの戦争が始まって以来、初めての爽快感を感じたような気がした。
その後は案ずるより産むが易し、意外なことに簡単にノーザンブリア王国まで帰ることが出来た。
これはルーテル伯が戦死したことで指揮系統に混乱が生じたこと、その混乱を収めるべきローランド王は虜囚となっており、ピエール王太子は戦場にいるせいで混乱が収まらなかったことが大きな理由だった。
近隣の貴族は王都ローランディアに異変が起きていることは察知できたが、情報が流れても、まさか王都に兵を向けるわけにはいかない。
ローランド王国軍の主力がノーザンブリア王国に出征中に王都に兵を向ければ、間違いなく謀反の疑いをかけられるからだ。
そのようにして周囲の貴族たちが手出しできない中をユートたちは悠々と船に戻ることが出来た。
あとは、そこから発見されないようにノーザンブリア王国まで戻るだけだった。
戻った後、ユートは凱旋してきた英雄として迎え入れられ、そして同時にお役御免となった。
ローランド王を虜囚とした以上、彼と宰相ハントリー伯爵、外務卿ハミルトン子爵を中心とした七卿たちが和平交渉をするだけだからだ。
ローランド王としても死にたくなければ交渉に応じざるを得ず、解放された後、ローランド王国で自分が命を失わない程度のマイナスに止めなければならない。
交渉はそれなりの時間をかけて行われたが、その間に前線のローランド王国軍、特にピエール王太子に対してはすでに父王や王族が虜囚となっていることは通達され、同時に即時停戦を強要していた。
この頃になればすでにローランディアが強襲されたことはピエール王太子以下全員が知るところとなっており、停戦は受け容れられた。
最終的にはノーザンブリア王国本土、すなわち両アストゥリアスより北からローランド王国軍は撤退すること、旧南方植民地はおおむね中間線で分割すること、旧南方植民地はノーザンブリア王国、ローランド王国ともに軍を入れてはならない地域とし、お互いに監視団を派遣することを条件とした講話が結ばれることとなった。
あと一息のところでノーザンブリア王国を征服し損ねたばかりか、武のルーテル伯、文のラファイエット侯をはじめとする諸貴族を失いながら、得るものなく帰途につかねばならなかったピエール王太子の無念は強かったとユートも聞いている。
次期国王たるピエール王太子がノーザンブリア王国を征服し損ねたと思っていることは、もちろん後の世代の危険な因子ではあったが、その因子が発現するまでにはまだまだ時間があるだろう。
それならば国王が虜囚となって王室の政治的権威が低下しているローランド王国より、王位継承戦争に勝ち、今また第三次南方戦争に勝ったことで政治的基盤は万全となったアリス女王の下、ノーザンブリア王国がその国力を増すことは明らかだった。
そして、ユートにとって何よりも重要なことは、その第三次南方戦争において、起死回生の強襲を成功させたエーデルシュタイン伯爵ユートは、まさに救国の英雄となった、ということである。




