第239話 最後の血戦・後編
「……いかぬわ」
座り込み、苦しげな息の下でルーテル伯はそう言葉を絞り出した。
ユートの一撃を受けた頸甲と肩当てのあたりからは鮮血が噴き出している。
頸動脈は大丈夫だろうが、右肩の関節まで達する深手なのは間違いなかった。
「本来ならば自決するべきところだろうが、この腕ではそれもかなわぬ」
そう言いながらちらりと周囲を見た。
先ほどまで火炎旋風で散々叩かれ、それでも士気を保っていたのはルーテル伯の存在があったからのようだった。
しかし、そのルーテル伯がユートの剣の前に斃れた今、もはやその士気は土台から木っ端微塵にされたのだろう。
ローランド国王がいるにも関わらず、後方の弓兵から後ずさりをし始めて、そして一人逃げ、二人逃げし始めている。
「手数をかけて申し訳ないが、我が頸を打ち落としてくれんか」
一瞬、ユートは逡巡した。
火治癒をかければ、と思ったのだ。
見る限り、肩関節は治らないだろうが、出血さえ止めれば死にはしないだろう。
ルーテル伯は手強い相手であった。
恐らくあの猛獣部隊を編成したのも、ローランド王国の武を担う彼であろうし、ユートたちの猟兵戦術を見れば、それを元にして夜襲部隊を編成し、どこまでもノーザンブリア王国軍を苦しめた。
すなわち、ローランド王国の忠臣であり、そしてこの大陸でも指折りの卓越した戦術家だろう。
そんな人物を、助ける手段があるにも関わらず、自らの手で討つことは、世界的な損失ではないか、と逡巡させたのだ。
「ユート」
不意に後ろから澄んだ声が聞こえた。
「アナ……」
「ユート、それは駄目なのです」
アナの言葉は、はっきりとしていた。
「――言うな」
ユートはそう返すしかなかった。
まさか一番年若いアナに、その決断をさせるわけにはいかない。
「わしを生かせば何度でも軍を集め貴国に仇を為しますぞ」
まるでユートの良心の呵責を和らげようとでもするかのように、ルーテル伯が完爾として決断を迫った。
「ルーテル伯閣下――」
「エーデルシュタイン伯爵閣下、最期に良き敵に巡り会えて武人の本懐――思い残すことはありませんぞ。さあ、打たれよ」
ユートは覚悟を決めると、ルーテル伯の頸甲を外す。
兜はつけていないので、ルーテル伯の頸が露わとなった。
「ルーテル伯閣下」
背筋を伸ばしたルーテル伯がうなずくのを確認してユートの剣が一閃した。
どう、とルーテル伯が前に倒れる。
「敵将ルーテル伯はエーデルシュタイン伯爵ユートが討ち取ったぞ!」
ユートはそう叫んだ。
その声を聞くとすでに逃げ腰となっていたルーテル伯の軍勢は、あっという間に崩れ去った。
それを横目に見ながら、ユートは敵将の死になぜか涙が流れそうになるのを必死にこらえた。
何よりもしなければならないことがあった。
「レオナ!」
「ユート、逃げたニャ!」
「やっぱりか!」
弓兵が崩れ始めた頃合いだったらしい。
ルーテル伯が斃れたとみると、ローランド国王はすぐに馬首を巡らせて逃げを打ったらしかった。
ローランド国王のいたあたりには、馬がなかったのか、王族の女性たち、幼い子供たちが取り残されているのが見えた。
無性に腹立たしかった。
ルーテル伯はローランド国王のために命をも投げ出したのに、その忠臣の死すら見届けず、家族すら捨てて我が身可愛さに逃げを打つことが無性に腹立たしかった。
もちろん、ローランド国王もまた、それがローランド王国のために最善と思って逃げを打っているのはわかっている。
それでも、何かよくわからないが、無性に腹立たしかった。
「どこに逃げたかわかるか?」
「多分もっと西に逃げたニャ」
西、と言われてもユートにはそっちにいけば何があるのかわからない。
他の家臣の居城か、それともただローランディアから遠い方を選んだだけなのか、誰にも分からなかった。
ただ、わかっていることは一つ――追わなければならないということだけだった。
「追うぞ」
「もちろんだニャ」
ユートのかけ声にレオナが走り出そうとした時、ゲルハルトの声が聞こえた。
「ユート、悪いがオレは行けへんわ」
ゲルハルトがそう悔しそうに唇をかんでいた。
「足をやられてしもうた。後に遺る深手やないけど、すぐには無理や」
「ユート、行ってください。ここはわたしがどうにかするのです」
そう言ったのはアナだった。
まず目をやったのはローランド国王に置いていかれた王族たちだった。
彼女らは不安そうにしていたが、彼女らを正式に捕虜としなければならないだろう。
それには王族であるアナが適任であることは衆目の一致するところだった。
だが、ユートが逡巡したのは王族の扱いをアナに一任することではない。
負傷者のことだ。
負傷したのはゲルハルトだけではない。
周囲には今まで戦っていた味方と敵が、そこここに倒れ伏していた。
事切れている者、虫の息の者、そしてうめき声を上げている深手の者。
火治癒で治すといっても、大半の者は助けられないだろうということはユートにもアナにもわかっている。
「わたしは王女であり、そしてエーデルシュタイン伯爵ユートの妻なのです。ユートがわたしのことを気にかけてくれているのはわかります。でも、妻として夫の助け、そして国のために尽くさねばならないのです」
「――わかった」
ユートはきびすを返した。
もう振り向かない。
必ず、ローランド国王を討つ。
「行くぞ」
「ええ、もちろんよ」
「あちきも行くニャ。父ちゃんはここに残ってほしいニャ」
「わかった」
そんな会話をかわして、動き始めた。
レオナはアルトゥルをアナやゲルハルトの護衛と、そして多数の死傷者の把握の為に残したらしい。
アルトゥルはこの中でも一番年かさであり、疲労も極限に達しつつあったようだったからユートも何も言わなかった。
その数今やたった六十人ほどだった。
かつてユートの第三軍には常備一万近い精鋭がいた。
それが――その数今やたった六十人ほどだった。
だが、激戦を最後まで戦い抜いた精鋭中の精鋭だとユートは自信も持って言える六十人だった。
ユートは、駆け出した。
「馬の足跡だニャ」
こういう捜索任務にかけてはレオナは大陸一と言ってもよいかもしれない。
あっという間にローランド国王の馬の足跡らしきものを見つけ出してしまった。
「よくわかるわね」
「あちきとエリアたちじゃ森を歩いた経験が違うニャ。自分の家のようなものニャ」
ここは北方大森林ではないが、北方大森林で培った経験はどこでも応用できるということだろう。
「あんたが悪いことして山に逃げ込んだら、山狩りしても狩り出す自信がないわ」
「逃げ切る自信ならあるニャ……ってなんであちきが悪いことをする前提だニャ!?」
「いや、あんただったらうっかりやらかしかねないでしょ?」
「エリアはあちきを何だと思ってるニャ!?」
そんな久しぶりのエリアとレオナのしょうもないやりとりに、ユートは思わず笑ってしまった。
「よし、追いかけるぞ」
ユートは再び走り始めた――全速で。
だからこそ気づかなかった。
森が開けたところで、わずかな騎兵が馬首を並べて突撃に移らんとしていたことに。
「伏撃だ!」
まさか逆襲されるとは思っていなかった。
それはルーテル伯を討ったという事実からくる油断だったといわれても反論出来ないだろう。
「密集しろ!」
本来ならば歩兵は騎兵の乗馬突撃に対して槍衾を作って戦うのが最善である。
しかし、今のエーデルシュタイン伯爵領軍はそもそも槍衾を作るような人数もいなければ、そもそも槍も狼筅を持つ餓狼族もせいぜい二十人ばかりしかいなかった。
それでも、密集して戦うしかなかった。
幸い向こうも四十騎そこそこ。
全員騎兵とはいえ、うまくやれば戦って戦えないことはない相手ではある。
もしここにゲルハルトかアルトゥルがいれば大きく話は違っていただろう。
膂力もさることながら胆力にも優れたこの二人ならば、乗馬突撃に対して突撃を以て応じることが出来る。
ユートはその胆力はともかく、先頭を切って騎兵に突撃で応じたところで、剣が届く前に馬蹄に駆けられるのが目に見えている。
ここは長身であり、かつ狼筅や大木槌といったリーチの長い武器を得物とする二人にはかなわなかった。
あるいはユートや獣人たちの魔力が残っていたとしても、やはり大きく話は違っていただろう。
騎兵にとっての天敵は何よりも法兵だ。
乗馬突撃に入れば、もはや簡単に中止することも、方向転換することもかなわず、魔法を一身に受けながらひたすら耐えて突撃を続けるしかない。
もし魔力があれば、たった四十騎の突撃などいとも簡単に跳ね返していたことは確実だ。
なにしろ六十人の法兵は、いかに土魔法しか使えなかろうとも、西方軍直属法兵の二倍半、二個軍以上の火力であり、一個小隊にも満たない騎兵の突撃など一撃で粉砕できる。
しかし、ユートも獣人たちも、もはや魔力はほとんど使い切っていた。
だからこそ、密集を作って跳ね返すしかない。
「餓狼族で密集を作るんだ!」
「あちきらは伏せて馬の腹や騎兵の足を狙うニャ! あいつら胸甲だけなら足は斬れるはずニャ!」
ユートとレオナの命令に従って、兵たちが密集を作っていく。
ただ、それも不完全なまま、騎兵たちとぶつかる羽目になった。
両軍が激突したのは、森を抜けたところにある原野だった。
突撃する騎兵の何騎かが狼筅に引っかけられて地面にたたき落とされ、断末魔の悲鳴を上げた。
だが、それによって餓狼族の狼筅の槍衾に乱れが生じることになる。
結果、騎兵の突撃を押しとどめることが出来ず、何人もの餓狼族の若者たちが馬体とぶつかって大怪我をしたり、その生涯を終えることになった。
「今ニャ!」
レオナが妖虎族の若者とともに飛び出していく。
餓狼族がぶつかったおかげで馬の突撃が鈍った隙を逃さないのはさすがレオナだった。
レオナたちが馬の脚、腹、首、そして騎兵の足を狙って斬りつけたおかげで、ようやく騎兵の行き足を止めることが出来た。
そして、今度は混戦となった。
「押し切れ!」
ユートはそう叫びながら、片手半剣を抜き放って鼓舞する。
劣勢下にあっても一騎当千、一人で状況を変えてしまうアルトゥルもゲルハルトもいない今、率先垂範ユートが戦わねば部隊は瓦解しかねない。
またも乱戦となった。
だが、今度は騎兵四十騎と歩兵六十人の戦い――
もしこの戦いを見る者がいたとしても、ノーザンブリア王国とローランド王国というこの大陸でも有数の国家の存亡を賭けた戦いとは誰も思わないだろう。
せいぜいローランド王国の貴族たちが境目争いから小競り合いにでも発展したのだろう、と思うのがせいぜい、人によってはこれがノーザンブリア王国とローランド王国の存亡を賭けた戦いだと言われても花で笑い飛ばすに違いない。
そのくらい小規模な乱戦だった。
すでに乱戦となった時、ユートの兵は十人ばかりがそこここでうめき声を上げ、あるいはうめき声すら上げれない状態となっていた。
その大半は騎兵を押しとどめようとした勇敢な餓狼族であった。
一方で騎兵は数騎が脱落したのみであり、死傷者の数で言えばややローランド王国が有利だったが、絶対的な数ではノーザンブリア王国が有利だった。
そして、何よりもユートが率いる兵は、この第三次南方戦争で最も過酷な戦いを経験してきた最精鋭だった。
常に優勢な敵を相手に戦いを挑み、そして一度も後れを取ったことのない兵たちだ。
それが、久方ぶりに数的優勢を得ての戦いとなったのだから、相手が騎兵である不利など感じさせない戦いぶりを見せていた。
もっともローランド騎兵にも同情すべきところはある。
本来ならば騎兵は乱戦に持ち込まれる前に、優速を利してさっさと一度引き上げ、再び梯団を組み直して突撃を再興するのが定石なのだ。
しかし、今回の場合、国王を逃がすと言うことが目的であるので、それが出来ずに血みどろの乱戦に持ち込まれたのが全てだった。
もちろん、馬上の優位というものはある。
しかし、それは餓狼族や妖虎族の強さと、数的な優勢を覆すようなものではなかった。
結果、乱戦はローランド騎兵が奮戦しながらも、多勢に無勢、獣人たちに囲まれて一人、また一人とその数を減らしていった。
もっともエーデルシュタイン伯爵領軍もまた無事だったわけではない。
騎兵がまさに最後の一兵まで死力を尽くして戦ったせいで、死傷者は続出していた。
死兵を相手にするな、というのは古来から戦術論として伝わるものだったが、ユートはその恐ろしさをまじまじと実感する羽目になった。
だが、そんな恐怖を感じているのも少しだけだった。
追いつけるか?
その方が先だったからだ。
たとえこの乱戦で勝っても、国王を逃がしてしまえば何の意味もない。
ユートたちはそのうち集結するローランド王国軍に袋だたきにされ、そしてノーザンブリア王国は滅ぶ。
もちろん今回の一件でローランド国王の権威が落ち、少しは遅くなるかも知れないが、ノーザンブリア王国が生き残る可能性はほとんどなかった。
「ぎりぎり見えるニャ!」
レオナがそんなことを言った。
「見えるわけないだろ」
「馬が潰れかけてるみたいだニャ」
そう言いながら原野のはるか先を指さす。
ユートには見えなかったが、レオナのたぐい稀な視力を以てすれば見えるのかも知れない。
どうやらローランド国王は馬の扱い方も知らない男だったらしい。
「て、あれはなんだニャ!?」
レオナに困惑の声を上げさせたものは、ユートにもわかった。
土煙――
それは、土煙を上げて殺到する歩兵の集団だった。




