第235話 歴史の一ページ
案外、というべきか、それともようやく、というべきか、十分後に抜け穴は見つかっていた。
見つけたのは予想外なことにレオナでもゲルハルトでもなく、アナだった。
姿見を外すと、その裏が通路になっていたのだが、レオナたちはそれに気付かなかったのだ。
「余り詳しくは言えませんが、ノーザンブリア王城の抜け穴も似たようなものなのです」
まさかアナが見つけるとは、という意外さがユートの顔に出ていたらしく、アナはすましてそう言っていた。
どの程度似ているのかまでは教えてくれなかったが、設計者も建築年代も違う二つの王城で、そんな共通点があるということに、何か因果めいたものを感じざるを得なかった。
抜け穴をのぞき込むと、真っ暗で、埃っぽく、少しかび臭い。
床には埃が溜まっていたが、その埃に真新しい足跡が残されている。
「これで確実だニャ」
レオナは確信を持ってそう言いきった。
「人数は数十人ってところだニャ」
国王と王妃と王族でそのくらいの人数になる可能性は十分にある。
それにさすがに護衛なしに抜け穴を抜けているとも思えないので、それらを入れて数十人なのだろう。
「行くニャ。この炎が消えなければ死ぬことはないニャ」
レオナは短くそう言うと、火の着いたランタンを持った。
ただ暗いだけならばレオナたち妖虎族にとっては何ほどのこともないのに敢えてランタンを使うのは、酸欠を警戒しているのとユートたちの視界確保の為だろう。
「レオナ、一部を残して追いかけるぞ」
「もちろんだニャ」
既に王城内の敵兵は殆どが討ち果たされているとはいえ、まだまだ王都ローランディアの各所には兵がいるだろう。
有能な指揮官が一人いれば、王城に突入したエーデルシュタイン伯爵領軍が王城の守備体制を確立しないうちに各所の部隊を糾合して奪還に動く可能性がある。
だから、ユートたちは百ばかりの餓狼族と妖虎族を率いることにした。
レオナは頷くと、自らその抜け穴に足を踏み入れた。
普通ならば同じようにランタンを持った妖虎族を先行させるのだろうが、それをやると確実であるかわりに時間がかかる。
今、時間は黄金よりも貴重だった。
「抜け穴っていうより隠し通路ね」
ややかび臭いが、しっかりとした造りであり、エリアの言うとおり抜け穴というのは豪華すぎる造りだ。
恐らく王城の部屋の、壁と壁の間にこの隠し通路は設けられているのだろう。
寸法をしっかり測ればおかしいことに気付くかもしれないが、王城の、しかも王族が生活する場所の寸法を測るような者はいない。
「ああ、それにしても、これ王城が建設された当時からあるんだな」
王城の構造そのものの一部となっている以上、王城が建設された後に改修されたわけではなく、最初から設計されていたはずだ。
「ノーザンブリアの王城もそうなのです」
「建国以来、ってこと?」
「ええ、幸いにして一度も使われたことはありませんが……」
アナの言葉に、ユートはこの隠し通路を設けた、ローランド王国の始祖王は何を考えていたのだろう、と思いを馳せた。
隠し通路を王族が使う、というのは、王城が陥落しようとしている時だ。
自身が建国したローランド王国の王城が陥落し、まさにローランド王国が滅ばんとしている時に、それでも子孫の生命だけは、と思ってこの隠し通路を設けたのだろうか。
それとも自身がいつ叛乱を起こされるかわからないからこそ、こうした隠し通路を設けたのだろうか。
ついついそんなどうでもいいことを考えてしまうのは、近くにいるエリアの顔すら見えない真っ暗闇の中でカンテラの炎がゆらめき、誰もが沈黙を守って歩み続ける、という状況によって、妙に思索的になってしまったせいかもしれない。
「ユート、降りるニャ」
レオナのそんな声で、ユートは現実に引き戻された。
どうやらここから階段になるらしい。
真っ暗な隠し通路の中は、方向感覚も時間感覚も狂わされてしまうので、ユートにはどのくらい進んだのか、はっきりとわからなかった。
ユートが階段をのぞき込んだが、ランタンで照らしても階段の先は見えず、まるで地の底まで降りていくのではないか、とすら思ってしまった。
「分かれ道はなかったわよね?」
「なかったニャ」
エリアの確認にレオナがそう頷く。
分かれ道がない以上、この隠し通路の終着点は、この地の底まで続くのではないかと思われる、真っ暗な階段の先ということだ。
「行きましょう。時間が惜しいわ」
「だな」
エリアの言葉に、ユートはそう返事をして、慎重に階段を降り始めた。
少し前にローランド王族たちが通った可能性が高いとはいえ、何があるかわからない。
それに、長年放置されたこの階段は、結露のせいなのか、それとも地下水のせいなのか、少し濡れていて、滑りやすくなっている。
もし足を滑らせてしまえば、どこまで続くかわからないこの階段を滑落して、命の危険すらあるように感じた。
かつかつ、と足音が響く。
暗闇を、レオナのランタンが照らしてくれて、どうにか足元の視界だけは確保出来ている。
薄ぼんやりと、後ろに続くエリアの顔も見えるが、エリアもまた少し緊張しているようだった。
「追いつけるかしら……いつの時点からこの抜け穴を使ってたのかしら……」
独り言ちるようにエリアがそう言うのが聞こえた。
「最初から逃げ出しはしないだろ。そんなことをしたら俺たちを制圧した後で国王の立場がなくなってしまう」
いくらその身が大事とはいえ、一戦も交えないうちから逃亡してしまっては、国王の資質なしと王族や大貴族から突き上げられかねない。
ノーザンブリア王国のように王権が確立していてもなお、王位継承戦争のような事態は起きるのであり、それぞれの封土を守る貴族の力が強いローランド王国ではその危険はより高いだろう。
「つまり、あたしたちが王城の前の大通りでローランド王国軍を破ったあたりから?」
「まあ元々危なくなれば逃げるのは想定に入れていたんだろうけどな。そうじゃないと王族とか荷物を纏めるのにも一苦労だろうし」
「だけど、それを知っている近衛の粘りもあまりなかった、ってこと? だとすると負けて、すぐに逃げたって感じかしら?」
「多分。だから追いついて追いつけないことはないと思う」
王城に突入してから隠し通路を見つけるまでは一時間ほどしかかかっていない。
この暗くて滑る悪路を、普段から山野を歩いているわけでもない王族がユートたちと大差ないペースでいけるとは思えない。
そう考えれば、この隠し通路を抜けるまでには追いつけてもおかしくなかった。
「そうかもね……あ、階段が終わるわ」
見ると確かに階段の果てが見えていた。
「三階分くらい降りてきた感じかしら?」
「たぶんそんなもんだろうなぁ……」
たった三階分――もしこれが王城にある普通の階段ならばここまで長く感じなかっただろう。
歩いて降りてもせいぜい一分かそこいらで降りられるのだから。
しかし、一歩一歩足元を確かめ、真っ暗な中をカンテラの灯一つで降りるのはひどく骨の折れることだった。
「ユート、ここは……」
エリアの声が反響して響く。
カンテラの灯がほのかにその空間を照らし出す。
降りたったところの両側には、恐らく王城の礎石らしき巨石が立ち並んでいて、その間を石畳の通路が設けられている。
「城の基部だな……」
王城の最底部、ということになるのだろう。
本来ならば地盤がむき出しになっているのだろうが、隠し通路の部分だけ石畳と、簡単な石の手すりが設けられている。
周囲は巨石と、そして石畳の通路より一段低くなったむき出しの地面であり、どこからか差し込む薄明かりや、カンテラの光と相まって、まるで地底湖を行くような気分にさせる。
「ねえ、ユート、あそこ……」
エリアが指差しながら小声でユートに何かを伝えようとする。
その指の先にあるのは、礎石の間に作られ、格子がはまった牢屋だった。
「……王族で幽閉する必要が出た者を入れておく“離れ”なのです」
アナが小さくそう答えた。
「ここに幽閉された者は、そのまま儚くなったようなのです……」
見ると、牢屋の端には一組の人骨が転がっていて、虚ろな眼窩がユートの方を見ていた。
ユートが悲鳴を上げなかったのは、冒険者として、貴族として、多くの者の死を見てきたからだろう。
戦場で、ならばもっと悲惨な死体は無数にあるし、嘔吐きそうになったこともあるが、それに比べればまだましと思えたからだ。
それでもいい気分のするものではないし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と心の中でお経を唱えながら、その前をそそくさと通り過ぎようとする。
「ねえ、歴史の暗部とかそういうものを見てる気がするわ」
「ああ……」
「何を言っているのですか?」
アナがすぐにそう言った。
「すでにわたしたちは歴史の一ページなのです。勝っても負けても、この戦いは歴史に残るのです」
アナの言葉に、一瞬エリアとユートは呆気にとられ、そしてくすりと笑った。
「確かにね。誰も入ったことのない、ローランド王国の王城基部まで侵入して、王族を追いかけるなんて軍記物にもないわ。探検家だって、こんなところを探検しようなんて思わないでしょ」
「当たり前だ。探検家がこんなところに命がけで侵入しようとするわけがないだろ。一銭にもならないのに」
「なら、あたしたちは、歴史ね」
エリアの声が、心なしか弾んでいるように聞こえた。
暗闇でわからなかったが、エリアはにんまりと笑っている、とユートは確信した。
そして、ユートもまた笑っていたし、その笑っていることがエリアにも伝わっているとも確信していた。
「ユート!」
ユートとエリアが闇の中で笑い合っている横で、レオナが小声で叫ぶという器用なことをしていた。
「向こうに灯が見えるニャ」
「灯?」
「カンテラくらいの灯だニャ」
ユートは目をこらしたが見えなかった。
しかし、レオナの言葉を疑うわけがない。
これまで、幾多の夜戦でまさに目の役割をこなしてきた漆黒のレオナを疑うわけがなかった。
こんな王城の基部で灯を灯している者など、ユートたち以外には逃げたローランド王国の王族たちだけだ。
「敵はすぐそこだ」
ユートが力強い言葉を発すると、周囲も頷いた。
この王城の基部は妙に音が反響するので、ちょっと大きな声を出せば気取られる。
ユートたちは出来るだけ気取られないように、粛々と、しかし歩みを速めて近づいていったつもりだった。
だが、六百人もの多勢が動くのだから、足音やらも響くし、気配というものもある。
「追っ手だ!」
そんな声が前方の集団から上がった。
真っ暗な中だったが、気配に気付かれたのか、足音が聞こえたのか。
女子供の、けたたましい悲鳴が上がる。
「戦い慣れてないわね」
エリアがそう呟きながら、追う足を速めた。
もう足音や大声を気にしなくてもよい――ただ全力で追えばいいだけだ。
向こうもまた、それを感じて必死になって逃げにかかっているようだった。
「追いつける?」
「ちょっと距離があるニャ」
ちゃんと相手のことをつかんでいるのはレオナだけらしい。
いや、後ろの妖虎族の面々や、最後尾の方にいるアルトゥルも見えているのかもしれないが、ともかく敵情を教えてくれるのはレオナ一人だ。
「逃げ切られるかもしれないニャ」
こういう時に一番脚が速いのは餓狼族なのだが、ゲルハルトを筆頭に狼筅を持ち込んでいる者が大多数の餓狼族は狭い王城の基部では取り回しが利かずに窮屈そうで、全力で走ることが出来ないようだ。
「最悪、先に出られてもすぐに追いつければ……」
見失いさえしなければ、王城や王都の外で追いつけても構わない。
「まあよっぽど出るところが隠れる場所の多い場所でもない限り大丈夫ニャ」
「それにあの様を見てるとすんなり隠れられるとも思えないしね」
ユートも、アナが最初、冒険者の真似事をし始めた時に、山の中で獲物を待ち伏せする方法を教えてもらってなかなか会得出来なかった時のことを思い出した。
逃げているローランド王族は追われてることを知ってけたたましい悲鳴を上げるような連中だから、アナよりも山中などに隠れることに慣れていないだろうし、よっぽどのことがなければ取り逃がすことはない。
「馬でも用意してあったら厄介だけどな」
「あの人数を乗れる馬がいれば目立ちすぎるニャ。それにゲルハルトたちなら乗り慣れない乗り手の駆る馬なら追いつくニャ」
言外に人外と言っているような気がしたが、当のゲルハルトは張り出している梁で頭を打ちそうになって慌ててしゃがんでいるようで、それどころではないらしい。
そう言っている間にも距離は詰まる。
向こうも必死に逃げているようだが、ここにいるのは王位継承戦争以来、百戦錬磨のエーデルシュタイン伯爵領軍の中でも選び抜いた精鋭たちだ。
足弱の王族が逃げ切るには、相当の奇跡でもなければ無理だろう。
ユートたちが追いかける――
王族たちは逃げる――
やがて城の基部は終わり、再び細い通路――人一人分の幅しかない通路となる。
「待たれよ! 我こそはローランド王国近衛騎士団……」
逃げる者の中から一人がきびすを返して立ちはだかる。
近衛騎士団の誰かが王族を逃がす為に決死の時間稼ぎを買って出たのだろう。
しかし、先頭を行くゲルハルトはそんな近衛騎士の心情など斟酌しなかった。
狼筅が唸り、一撃で勇敢な近衛騎士は、哀れな近衛騎士だった遺体へと姿を変える。
「もうすぐだ」
必死になって追うユートたち、必死になって逃げる王族たち。
お互いの必死さには差はなかっただろう。
足の速さはもちろんユートたち有利――しかし、何度となく決死の近衛騎士が立ちはだかり、いくらゲルハルトが一撃で倒しているとはいえ、それなりに時間は稼がれてしまって追いつけない。
「出口だ!」
「片目瞑っとくニャ!」
ようやく地上らしく、光が差し込んできたのが見える。
まだ距離がある上、向こう側は光のせいで真っ白でどうなっているのかよくわからないが、ともかくレオナに言われた通り、片目を瞑っておく。
開いた片目に、王族たちが地上へと飛び出していくのが映る。
「待て!」
待てと言われて待つ奴はいないのはわかっていたが、それでも思わず叫んでいた。
少し遅れて、ユートたちも地上へ飛び出す。
「うぉ!」
どうやら先頭を走っていた為にレオナの忠告が聞こえていなかったらしいゲルハルトが、目を眩ませて狼筅を取り落として立ち止まる。
ユート、エリア、レオナはその脇を抜けるようにして飛び出していった。
その刹那――――
風切り音とともに、ユートの右肩に衝撃が走った。
咄嗟に体重を後ろに戻して、尻餅をつくようにして逃れる。
見れば冒険者になって以来ずっと使っていた胸甲の右肩から右胸にかけてのあたりが切り裂かれていた。
続いて追撃の剣が、降ってくるのが見えた。
これはどうにもならない――
そう思いながら、それでも何か、と思ったが、思いつかず、ただただスローモーションの映画のように剣が頭に落ちてくるのが見える。
駄目だ、と思い、とうとう目を瞑った。
だが、剣戟の音――エリアが割って入り、その剣で防いでくれていた。
「ユート、怪我はないかニャ?」
ユートの巻き添えになって倒れたらしいレオナが、そう気遣ってくれる。
どうやら胸甲を完全に切り裂かれたわけではないらしく――それでも一部は鎧下まで届いていたが、どうにか薄皮一枚で皮膚までは達していないようだった。
「大丈夫だ」
我ながらよく避けられたものと思う。
立ち上がると油断なく周囲を見回す。
出口を出てもなお室内――すきま風が吹き込みそうなボロボロの内装の部屋だった。
恐らくだが、ローランディアの郊外にある目立たぬ陋屋が出口のカモフラージュとなっているのだろう、とユートは当たりをつける。
そして、ここにいるのは目の前の男のみ。
「ならば、あいつを倒すニャ」
レオナの言葉に頷いて剣を抜き放つ。
レオナもまた、鎧通しを抜き放って殺気を放つ。
「貴様は、レオナ・レオンハルト!」
その殺気に反応したかのように叫び声があがった。
「やはり貴様らか。このルーテル伯マクシムを見忘れたとは言わせんぞ!」
ルーテル伯は怒気を全身で露わにしながら、大剣を横に薙ぎ、エリアをその愛剣ごと吹き飛ばした。




