第224話 乾坤一擲
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ローランド王国軍をどうにか押し返してから三日、戦線維持は予断を許さぬ状況が続いていた。
ウェルズリー伯爵は任せてくれ、と言い切ったまま、特に指示を出すでもなく、ティムサの街で戦線の再編を指揮しているだけだった。
「あいつ、あの時のあちきとの戦いを見て、夜襲の為に黒ずくめの部隊を編成したのかもしれないニャ」
執務室で仕事をしている最中に、ふと、レオナがそんな台詞を吐いた。
夜襲部隊を指揮しているというルーデル伯とレオナは因縁深き相手であり、今回の夜襲戦術もまた、レオナの行動がヒントになったのでは、と気に病んでいるのだろう。
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「というか、こっちが新しいことをやり始めたら、向こうも対応するのが当然でしょ」
対照的な、ユートの曖昧な答えと、エリアの明快な答えに、レオナはなんとも言えない笑みを浮かべていた。
「まあいずれにしてもレオナ殿が気に病まれることではないでしょう。自軍が用いた戦術を、敵軍も真似るのは自明の話であり、それに対処するべきはウェルズリー伯爵を筆頭とする軍首脳、軍官僚たちの役割です。レオナ殿は目の前の敵を破る為に最善を講じられればよろしい、でしょう」
取りなすようにアーノルドが笑いかける。
「そうよ、真似されるかもって思ってこっちが新しい戦術を封印して、相手が同じこと思いついたら意味ないじゃない」
エリアの言葉に、レオナも少し立ち直ったようだった。
そうしている間にも、次々と悲鳴のような伝令が到着する。
戦線を整理し始めて三日とはいえ、まずは破壊された陣地の応急処置、当座守るだけの部隊を割り当てるのが精一杯であり、そうして割り当てられた部隊もまた疲弊していることから、交代要請や増援要請がひっきりなしに舞い込んでいるのだった。
「アーノルドさん、どうしたらいいんですかね?」
伝令たちに伝えられるまでもなく、ユートにも状況のまずさはわかっている。
交代させようにも、増援を出そうにも、部隊の頭数が足りないのだ。
もちろん、元々第三軍が担任していた区域のみならば十二分に回せる。
第三軍はあの夜襲でも大きな損害を受けていないからだ。
しかし、ウェルズリー伯爵の第一軍やアーネスト前宮内卿の近衛軍の担任区域の損害は大きく、その為に第三軍がそちらの一部も後援する形を取らざるを得なくなっているのだ。
「ウェルズリー伯爵の方針次第ですが……」
「ウェルズリー伯爵の奴は引くだろうな」
ウェルズリー伯爵のことをよく知る二人が、そんなことを言った。
「先代クリフォード侯爵もアーノルドさんもそう思いますか?」
「ああ、思うに決まっている。現有戦力でティムサ川の戦線を支えるのは不可能だ。そうなると、クリフォード城まで戦線を下げるしかあるまい」
「でも、それでも……」
クリフォード城まで戦線を下げて、戦線正面を縮小すればともかく必要な量は賄えるかもしれない。
しかし、その戦線の後退は何ら前向きな意味を持たず、兵の――ひいては民草の――厭戦気分をもたらすだけのものになりかねない。
そして、行き着く先は戦わずして叛乱が起きるか、限りなく降伏に近い講和を結ぶか、だろう。
「一気呵成に追い込まれないだけ、ということだな」
先代クリフォード侯爵もまた、ユートの言外の言葉は認めていた。
「まあ私がクリフォード城にクリフォード侯爵領軍と共に籠城し、ウェルズリー伯爵が城外にあってクリフォード城より向こうに行かせず、ユート卿が遊撃戦を展開して疲弊を待つ、くらいだろう」
戦術としては常識的な、しかし、そうであるがゆえに現実的な先代クリフォード侯爵の案にユートもそれしかないとは思う。
「問題は、今の部隊からクリフォード侯爵領軍とエーデルシュタイン伯爵領軍が抜けて、ウェルズリー伯爵は戦線を支えられるか、だがな」
そう、常識的であり現実的であるがゆえに、先代クリフォード侯爵の案は戦術の戦理から大きく外れることはない結果をもたらす未来しか見えなかった。
「機動防御を担う部隊がおりませんからな」
「あ、そういえばクリフォード侯爵領軍とエーデルシュタイン伯爵領軍が抜けると騎兵も猟兵もいなくなるんですね」
「第一軍は騎兵も大きな損害を受けております。再編して軍集成騎兵大隊を編成するようですが、心許ないでしょうな。一応第三軍の騎兵――西方騎兵がおりますが……」
第三軍の西方騎兵は卓越した騎将であるアーノルドがかつて手塩にかけた連中であり、クリフォード侯爵領軍や南方騎兵とも対等に渡り合った。
しかし、いくら精鋭であってもこの第三次南方戦争によって大きく消耗してしまっている今、かつての精強さを取り戻すにはまだまだ時間が足りない。
「まあ、結局はじり貧だろうな」
先代クリフォード侯爵の言葉に、ため息を吐くしかなかった。
そんなユートたちにウェルズリー伯爵からの招集がかかったのは、それからさらに三日過ぎたあたりだった。
ユートの他、先代クリフォード侯爵やアーネスト前宮内卿、それに大森林を代表して、という意味だろうがゲルハルトやレオナに声がかかったのは当然として、本来ならばエーデルシュタイン伯爵家の家人にすぎないアーノルドにも招集がかかっている。
もちろんアーノルドもいつも通り、ユートの副官として参加するつもりだったが、ことさらにアーノルドの名前を出す、ということは何かウェルズリー伯爵の意図があってのことだろう、とユートも先代クリフォード侯爵もアーノルドも勘づいていた。
「やあ、ようこそいらっしゃいました」
カニンガム副官以下のウェルズリー伯爵の司令部要員が慌ただしく準備をする中、ウェルズリー伯爵だけは妙な朗らかさをもってユートたちを迎え入れた。
既にアーネスト前宮内卿や近衛軍司令部の面々など、他の司令部の歴々も集まっているようだった。
珍しいところでは西海艦隊を事実上纏めているロニーことイーデン提督もいたが、まあティムサの街は河口の街であり、港町でもあるのだからそこまで違和感はない。
「さて、早速なのですが――」
満面の笑みとともにウェルズリー伯爵がそう切り出した。
ユートがちらりと横目で先代クリフォード侯爵の表情を窺うと、面倒くさいことになった、とその横顔は物語っており、同じようにアーノルドの表情もまた何かやらかす気だな、と物語っている。
同期生二人にとって、ウェルズリー伯爵というのはこの上なく有能であるとともに、この上なく厄災をもたらす同期生でもあったのをユートも散々聞かされているし、この表情を見る限り、覚悟を決めた方がよさそうだな、と苦笑いを浮かべる。
「まず、現状認識なのですが、ティムサ川戦線を維持出来るとお考えの方はいらっしゃいますか? ――ああ、もしそうお考えの方がいらっしゃいましたら、この場で総軍司令官の座をお譲りしてよいのですが……」
少しばかり婉曲なウェルズリー伯爵の言葉に、近衛軍司令部の一人が青筋を立てたようにも見えたが、流石に総軍司令官が相手なので何も言うつもりはないらしい。
「というわけで、クリフォード城まで後退するのが最良、と考えております」
返事がないのを見て、ウェルズリー伯爵は満座を見回すようにしながら、軽やかにそう告げた。
それは先代クリフォード侯爵が言うようにじり貧になる道であり、敗北に至る道であるかもしれないのに、あたかもちょっとそこまで移動する、というような軽やかさかだった。
「総軍司令官閣下」
近衛軍司令部の眉をひそめるような空気を代弁するかのように、アーネスト前宮内卿が口を開く。
「ええ、アーネスト前宮内卿、どうされましたか?」
「なるほど、総軍司令官閣下の仰るとおり、現状ではティムサ川の戦線を支えるのは困難でしょう。この点には、恐らく反論はありますまい。しかし、ではクリフォード城まで下がって、その後どのような作戦指導を行われるおつもりですか?」
つまるところはユートが先代クリフォード侯爵とアーノルドとともに至ったのと同じ結論になりそうだが、それを回避する術はあるのか、ということだろう。
「ええ、そこから先の話を今からするつもりです」
ウェルズリー伯爵はそう言いながらにこりと笑った。
と、同時にカニンガム副官らが忙しく動き回って、会議室の机に地図を広げる。
そこには兵棋の駒がいくつも置かれ、現在の布陣について全員にわかりやすく示してくれていた。
「まず殿軍は先代クリフォード侯爵にお願いしましょう。地理に最も精通しているのは先代クリフォード侯爵でしょうし、クリフォード侯爵領軍は精鋭中の精鋭ですから」
これについては異論はない。
クリフォード侯爵領で行われている戦いである以上、地形に精通しているのは間違いなくクリフォード侯爵領軍であるし、その精強さは響き渡っている。
「一方で近衛軍には一番に後退してもらいますがよろしいですか?」
「……やむを得んでしょうな」
アーネスト前宮内卿は不承不承頷くのを見て、カニンガム副官が近衛軍の駒を纏めてクリフォード城の近くまで動かす。
近衛軍が一番に後退するのは近衛装甲騎兵という、重厚長大な戦力があるからだろう。
細かい機動戦は苦手であるが、装甲には頼りがいがあるので、一番に後退させて陣地転換後の陣地線を構築させようというのだろう。
「この時点で、中央が大きく空いていますので、第三軍はティムサの河口の方に西進して下さい。そして、近衛軍後退後、次は第一軍が後退します」
ウェルズリー伯爵がそう言うと同時に、カニンガム副官が第三軍の駒をティムサの河口寄りに動かし、第一軍の駒を纏めて大きく後退させる。
戦場の中央にぽつりと第三軍の駒が取り残された格好となり、その司令官たるユートとしては、心細い気分になった。
――だが、ここまでは戦理に則ったものであり、同時にウェルズリー伯爵らしくない常識的なものだった。
「第三軍なのですが、第三軍のうち、エーデルシュタイン伯爵領軍は私と入れ替わりにティムサに入城して下さい」
またぞろ、ウェルズリー伯爵が妙なことを言い始めた。
「ティムサに入城、ですか?」
思わずユートはそう漏らしていた。
会議のマナーとしては余り褒められたことではなかったが、ウェルズリー伯爵の言葉に大多数の者が疑問を持っていたので、それを咎め立てする声は上がらなかった。
「ええ、ユート君。申し訳ありませんが、一つ困難な任務を頼みます」
「まさか、ティムサを死守させるのですかな?」
アーネスト前宮内卿が眉をしかめながらそう訊ねる。
王室への尊崇篤いアーネスト前宮内卿としては、アリス女王から信任を得てアナスタシア王女の婚約者たる立場のユートを捨て石にする、というのは余り好ましからざることなのだろう。
もちろん、戦術的必要性があるならばユートを捨て石にすることも厭わないだけの、軍人としての非情さは持ち合わせているのだろうが、全軍が後退する場面でティムサを死守させる必要性など見いだせない。
撤退に必要な時間稼ぎとしても、不期遭遇戦のような野戦を得意とするエーデルシュタイン伯爵領軍を拠点防衛に当てるなど愚の骨頂、というのは衆目の一致するところだ。
「それこそまさか。エーデルシュタイン伯爵領軍のような部隊を死守で失うほど愚かではありませんよ」
「ウェルズリー伯爵、はっきり言ったらどうだ?」
先代クリフォード侯爵が苛立ちを隠しきれない声音でそうせっついた。
本来ならば第三軍の一部隊長に過ぎない先代クリフォード侯爵が、総軍司令官であるウェルズリー伯爵をせっつく。
本来ならばそれはおかしなことなのだが、王立士官学校の同期生であり、先代クリフォード侯爵自身も前軍務卿であり、そして王国有数の貴族であるので、先代クリフォード侯爵の振る舞いに誰もが違和感を覚えていない。
「ユート君には、敵後方への上陸をお願いします」
ふむ、と先代クリフォード侯爵が腕組みをした。
西海艦隊はレビデムの西方艦隊からも多数の艦を編入し、事実上西海方面艦隊の大多数がシルボーからティムサにかけての、西内海の最前線に集結しつつあった。
その総力を挙げればエーデルシュタイン伯爵領軍を揚陸することも不可能とは言えないだろう。
「後方兵站線を狙うのか……」
先代クリフォード侯爵は嘆息するように言った。
それはかつてユートとウェルズリー伯爵の間であった話であり、少し前にも出た話だった。
確かに戦術として考えれば、正面で持久しつつ後方兵站線を混乱させるというのは十分に理解出来る作戦だが、いくら狩人が多いエーデルシュタイン伯爵領軍とはいえ、敵中で現地調達させるなど無茶にも程がある。
しかも後方兵站線の遮断というのは長期にわたっておこなって初めて効果が出る作戦であり、突き詰めていくとエーデルシュタイン伯爵領軍が敵地で遊撃戦をやりながら現地調達するのと、ローランド王国軍がクリフォード城付近でノーザンブリア王国軍と堂々睨み合いながら現地調達するのとの競争なのだから、圧倒的に不利と言えるだろう。
「後方兵站線? そんなものは狙いませんよ」
ウェルズリー伯爵はにやりと笑った。
「狙うのはたった一つ、ローランド王国王都、です」




