第222話 解囲
「ユート卿」
先代クリフォード侯爵がすさまじい形相をしながらやってきて、短くそれだけ言った。
「先代クリフォード侯爵……」
「最悪だな」
先代クリフォード侯爵は吐き捨てるように言う。
「南部貴族領軍は?」
「とりあえずはロドニーに任せてある。幸い近衛兵団は健在だ。あいつでも大丈夫だろう」
本来ならば戦闘態勢にあって指揮官が持ち場を離れるのはあってはならないことだが、ウェルズリー伯爵の率いる友軍右翼が総崩れとなりつつある現状、左翼の第三軍がいち早くどのような方針を採るかを決定する方が先決と判断したのだろう。
ユートもその先代クリフォード侯爵の判断にけちをつけるつもりはない。
このティムサ川付近を領有しており、地形に一番詳しいのは先代クリフォード侯爵とその家臣団なのだから、来てくれて幸い、といったところだ。
「ウェルズリー伯爵の奴、何をしていたんだ」
王国軍の最高指揮官たるウェルズリー伯爵のことをそう批判するくらいには先代クリフォード侯爵も頭にきているらしい。
「先代クリフォード侯爵、いくら同期生でもウェルズリー伯爵は総軍司令官なのだぞ」
そうたしなめたのは東部貴族領軍を率いる先代カニンガム伯爵だった。
この老将は、かつてウェルズリー伯爵や先代クリフォード侯爵、アーノルドが王立士官学校の生徒だった時代の教官――生徒隊長であり、先代クリフォード侯爵は未だに頭が上がらない相手だ。
その先代カニンガム伯爵にたしなめられて、先代クリフォード侯爵はそれ以上ウェルズリー伯爵の責任については口に出さなくなった。
「ユート卿、敵情を報告する。まず戦線が破られたのは右翼側の中央に近いところだ。ここを破られた結果、戦線は完全に分断されている。戦線ほぼ中央にいた近衛兵団は正面と右翼からの圧力を受けて苦戦中だ」
右翼となる西側から第一軍、近衛兵団、第三軍と並んでいたところの、中央の近衛兵団に近い右翼が突破されたらしい。
ウェルズリー伯爵の司令部からは遠く、また近衛兵団は機動力に関しては致命的に欠落しているため、上手く戦術予備を投入して戦線の崩壊を食い止めることが出来なかったのか――
「戦線を突破した敵兵団は再編を終え、左に回頭し、ティムサ川河口へと向かいつつある。つまり、ウェルズリー伯爵のいるティムサの街を落とす気だろうな」
ティムサの街はティムサ川の河口に築かれた港湾都市であり、ウェルズリー伯爵の司令部がある要衝だ。
ここが失陥すればティムサ川の戦線は完全に崩壊する。
「クリフォード城の方に向かった敵はいないのですか?」
「向かったという情報は今のところ入っておらん」
情報がない、ということは向かっていない、ということではない。
黎明とともに慌てて放った驃騎兵が発見できていないだけの可能性も十分にある。
それに、戦場には少しばかり朝靄が出てきている。
この朝靄に紛れて行軍されれば、いかにクリフォード侯爵領軍の騎兵が優秀といえども見落とす危険性が十分にあった。
クリフォード城は南部におけるノーザンブリア王国軍の南部における重要拠点の一つ――南方首府シルボーに次いで重要な拠点だ。
そこが陥落すれば後方兵站線を断たれたウェルズリー伯爵以下のノーザンブリア王国軍は枯死するしかなくなる。
また、ユート個人としてもクリフォード城にはアナやジークリンデがいるのだから、万が一にでも陥落させるわけにはいかない。
「一応、地理に詳しいクリフォード侯爵領軍の騎兵を派遣しておるが、念には念を入れてロドニーに一部部隊をつけて戻らせてもよいか?」
先代クリフォード侯爵もまた、自身の家族のいるクリフォード城を大事に思っているのだろうか、そんな提案をする。
決定ではなく、提案だったのは、私情に流されたと思われたくがないためか、それともユートを安心させるためかはわからなかったが、いずれにしても頷いた。
「では、僕らはティムサを救援に向かいましょう」
ユートは簡潔に方針を下達した。
ウェルズリー伯爵の籠るティムサもまた、そう簡単に失陥してもらっては困るのだ。
一度失陥すれば数に劣るノーザンブリア王国軍では奪還は困難であり、現状の戦線が分断されている状況まで考えると、進むも退くもままならなくなるだろう。
「あいわかった。とはいえ、この戦線を捨て置くわけにもいくまい」
先代カニンガム伯爵が頷きながらそう問い返す。
既に敵の第一波は撃退したとはいえ、第二波以降の攻勢がある可能性は十二分だ。
その時に第三軍全てがティムサ救援に赴いていれば、仮にティムサを守り切れたとしても敵主力が後方へ浸透することを許しかねない。
「儂が残ろうと思うが、いかがか?」
その言葉にユートは先代クリフォード侯爵と顔を見合わせる。
先代カニンガム伯爵の率いる東部貴族領軍は決して惰弱な軍勢ではない。
しかし、今までの第三軍の担任地域を守れるほどの数はない。
つまり、残るということは先代カニンガム伯爵以下の東部貴族領軍は決死的な戦闘を求められる、ということだ。
「……西方軍も残します。指揮は先代カニンガム伯爵、お願いします」
しばし逡巡した後、ユートはそう決断した。エーデルシュタイン伯爵領軍と南部貴族領軍だけでティムサを救わねばならないのは厳しい。
しかし、仮に東部貴族領軍だけを残して、彼らが破られたらそれこそ大惨事だ。
「あいわかった。必ず守り抜いて見せよう」
先代カニンガム伯爵はそう頷き、そして穏やかな笑みを浮かべた。
それは戦場をよく知る老兵だけが見せる笑みだった。
すぐに行動は開始された。
まずは先代クリフォード侯爵率いる南部貴族領軍が動いた。
主力はクリフォード侯爵領軍であり、戦力として不安な小勢の南部諸貴族はロドニーとともにクリフォード城に送ったらしい。
クリフォード侯爵領軍のほとんどはこのティムサ川戦線におり、クリフォード城には治安維持のためのわずかな警備兵しかいない以上、小勢の南部諸貴族であってもクリフォード城では十分な戦力となるだろうが、この戦場ではいささか力不足、と判断したらしい。
その南部貴族領軍に続いて動くのはエーデルシュタイン伯爵領軍、そして獅子心王アルトゥル率いる妖虎族の援軍だ。
「ただ駆けよ!」
先代クリフォード侯爵がそう命じると、クリフォード侯爵領軍は一目散に駆け始めた。
先頭を切るのは先代クリフォード侯爵自身であり、それにクリフォード侯爵家自慢の騎兵たち、歩兵たちが続く。
すぐに側面と正面に敵を受けて苦戦する近衛兵団が見えてきたが、先代クリフォード侯爵は執拗に近衛兵団の側面を衝く敵勢を騎兵で一当てしてみせる。
敵勢は夜半から戦い続けて疲労困憊であり、クリフォード侯爵領軍の精鋭たちの前には為す術もなかった。
もちろんそれは先代クリフォード侯爵の優れた戦術指揮能力、そして騎兵の精強さあってのことだったが、鮮やかな戦い振りだった。
「すげぇな……」
アドリアンが唖然としたように先代クリフォード侯爵の戦いぶりをそう評する。
「ユート様!」
不意に聞き慣れた声が響く。
「アーノルドさん! 無事でしたか!」
「ええ、すぐに兵を引き上げさせましたから」
アーノルドは馬首を並べるとそう笑い、少しだけ厳しい表情になる。
そう、アーノルドは近衛兵団の陣地前で地雷敷設をしていた――そして、近衛兵団は完全な奇襲を受けなかったから、兵を引き上げる時間があった。
では、完全な奇襲を受けた第一軍の担任地域はどうなのか――そして、そこで敷設の指揮を執っていた者は……
「エリアは……」
「……大丈夫だ」
アドリアンがすぐにそう否定した。
「あいつは殺しても死ぬようなタマじゃねぇよ。危険を察知すりゃすぐに逃げてるさ。優秀な冒険者ってのはそういうもんだ」
アドリアンの気遣いなのはユートにもわかった。
その心遣いに感謝して、それ以上は何も言わず、もしかしたら、と胸の内にむくむくわき上がる不安を抑え込む。
「一刻も早く、エリアのいるティムサを救援するぞ!」
アドリアンの胴間声に冒険者たちは蛮声をもって応える。
ああ見えてエリアの人気は高いのだ。
一介の冒険者――しかもただの傭人から狩人に転身したと思えば、あっという間に正騎士にまで成り上がったエリアが羨望のまなざしで見られるのは当然のことだろう。
そのエリアを救援する、と聞いて冒険者の士気は上がったらしい。
このあたりの機微はいつまでたってもアドリアンには勝てないな、と内心で苦笑しながら、馬の歩調を速めた。
戦場は大混乱だった。
朝靄がかかっている、というのもあったが、それだけでなく第一軍が突破された戦線だったが、それでも現場の下士官や、下士官上がりの士官たちは敗残兵を纏めて抗戦していた。
もちろん組織的な抗戦ではないそれは、圧倒的な数を誇るローランド王国軍の前に踏みにじられていく一方だったが、そこここでそうした五月雨式の抗戦があるせいで、どこにいるのが味方で、どこにいるのが敵かわからない状況だったのだ。
さしもの先代クリフォード侯爵も、敵味方を見分ける超能力があるわけではない。
先代クリフォード侯爵の戦旗を見て歓声が挙がれば味方、そうじゃなければ敵と考えて対処するしかないが、それでも朝靄のせいで先代クリフォード侯爵の戦旗を見落とした味方と同士討ちが何度も発生していた。
もちろん同士討ちといっても騎兵を戦闘に整然と行軍するクリフォード侯爵領軍と、優秀な下士官が指揮しているとはいえ敗残兵に過ぎない味方では、クリフォード侯爵領軍があっさり踏みにじるだけで被害らしい被害は出ていない。
しかし、圧倒的な敵軍を前に、それでも決死の覚悟で抗戦しようとした勇敢な味方を踏みにじるというのは精神衛生上いいことではなかった。
そんな凄絶な戦場を、先代クリフォード侯爵を先頭にどうにか突破したところで、薄い朝靄の中、ようやくティムサの城壁が見えてきた
少し薄れた朝靄の向こう側では、明らかに靄とは別の煙が上がっている。
「ヤバいな、あれ陥落してるんじゃねぇか?」
「いえ、燃えているのはティムサの壁外ですな」
焦るアドリアンに冷静に観察したアーノルドがそう告げる。
「なんでそんなところが燃えてるんだ?」
「ウェルズリー伯爵が周囲の麦畑に火を放ったようですな」
ティムサも他の諸都市と同じく、城壁外に麦畑などの畑が広がり、城壁内に街が形成されている。
その城壁外の麦畑が燃えているのだ。
「敵じゃなくて、ですか?」
「ええ、攻城戦で攻撃側が火を放つのは、姿を隠し、弓矢や魔法で狙いにくくするためです。しかし、この天候ならば」
朝靄に隠れられるのだから、わざわざ麦畑に火を放つ必要はない、というのだろう。
「ですからウェルズリー伯爵が火を放ったとしか考えられぬのです。とはいえ、理由までは皆目見当もつきませんが」
そんなアーノルドの解説を聞いている間に、先代クリフォード侯爵は突撃に移っていた。
ティムサの城壁に迫るローランド王国軍の背後を取った形となっており、混乱しているのがユートたちのところまで伝わってきている。
「朝靄はここまで敵に利していましたが、ここで我が方にも風が吹いてきましたな」
アーノルドの言葉にユートも頷き、そして剣を握る。
「先代クリフォード侯爵ばかり戦わせるわけにもいかないでしょう。突撃しましょう!」
「勿論ですな」
ユートが抜剣するのとほぼ同時に、アドリアンも、冒険者たちも抜剣する。
特に号令をかけなくとも空気を読んで最適な対応をするあたり、猟兵部隊の面目躍如といったところだ。
「これよりティムサ解囲の為に突撃する。各個最適と考える方法により、敵を排除せよ」
あらゆる戦い方を容認する冒険者らしいユートの命令に、冒険者たちはどっと沸く。
こんな命令を出すのは、世界広しと言えどもユートだけだろう。
「おい、てめぇら! クリフォード侯爵領軍なんぞに負けんじゃねぇぞ! 蹴散らしてやれ!」
アドリアンの怒鳴り声に蛮声が重なり、冒険者たちが突撃に移った。
ユートもまた、下馬してその突撃に続き、敵兵を袈裟斬りにする。
「おい、ユート、あんまり無理すんなよ!」
同じく馬上戦闘が苦手という理由で徒歩となったアドリアンの注意を受けながら、ユートは何人もの敵兵をなぎ倒していった。
エリアはどこか、そう探し求めるように。
火炎旋風で一掃しようか、とも考えたが、どうもウェルズリー伯爵の兵が畑を焼きながら遅滞戦闘を行っているらしいことがわかったのでやめておく。
助けに来て味方を焼き払ってしまったら色んな意味で洒落にならない。
そして、ユートたちのの働きで、ティムサを攻囲していた敵兵はほとんど一掃された。




