第211話 出撃
シルボーには多くの軍が集っていた。
中央軍、西方軍、北方軍といったノーザンブリア王国軍に、ウェルズリー伯爵領軍、エーデルシュタイン伯爵領軍を筆頭とする各貴族の率いる貴族領軍が集まっている。
その中でも一際異彩を放っているのは当然、餓狼族や妖虎族がいるエーデルシュタイン伯爵領軍だった。
演壇の上に上がり、その全軍の視線を一身に集めているのは、ウェルズリー伯爵でもユートでもなく、一人の小さな少女――アナだった。
「アナが激励するのね」
ユートの傍に控えたエリアが小さな声で言う。
「王族だし、何よりも……」
そう言いながらユートは隣に立つウェルズリー伯爵をちらりと見る。
ウェルズリー伯爵はさすがに王女殿下の激励のお言葉を座って聞くことは出来ない、とふらふらしながらも立っていた。
だが、その顔色は悪く、いくら第二次南方戦争の英雄、雷光のウェルズリーと言えども、こんな状態の司令官に激励されたら、却って将兵の士気が下がりそうな状態だった。
「まあ、それもそうね」
ユートの視線で言いたいことは全部わかったらしいエリアも頷く。
そうしているうちに、アナの激励のお言葉が始まろうとしていた。
これまでの戦いにおける、将兵の奮戦を讃え、苦労をねぎらい、そしてローランド王国の侵略を非難する言葉が続く。
「ねえ、ユート、みんな真剣に聞き入ってるわね」
エリアもこうした激励などの演説には何回か参加していたが、今回のように万余の将兵が集まれば、演説が聞こえるのはほんの一部――後ろの方などは何も聞こえないのが普通だ。
だが、アナはそんな大声を出している様子もないのに、見える限りの将兵が真剣な顔をして聞き入っているのがわかる。
これが王族のカリスマなのか、と思ったが、それにしても不思議なものだ。
「みなには、恐らく国に残してきた家族がいるでしょう」
アナの演説は続く。
「大丈夫か、元気にしているか――そう思う気持ちはあって当然です。そうした家族を思う気持ちを大事に思い、そして家族を守る為に戦うのです」
そこでアナは一息入れて、ユートの方をちらりと見た。
「故郷で――安全な故郷で待つ家族もまた、みなが無事か、大丈夫か、そう心配しています。わたしは、ノーザンブリアの代表であると同時に、夫を、子を、父を、婚約者を戦場に送り出したみなの家族の代表でもあります。そうした家族の心配し、同時にそして自分たちが平和に、安全に暮らせるのは、命を賭して戦っているみなのお陰と感謝しています。みなの武運を祈るとともに、この平和を乱すローランド王国に鉄槌を下して下さい。そして、妻が、子が、父母が、婚約者が安心して暮らせるノーザンブリアを取り戻して下さい」
アナはそう締めくくった。
王族の演説にしては珍しく命令調ではなく、むしろ兵一人一人に訴えかけるような言葉だった。
一瞬、間を置いて、鬨の声が渦巻いた。
「ユート、わたしの演説はどうでしたか?」
「ん? 悪くなかったと思うぞ。それにしてもアナのカリスマというか、そういうところはすごいな」
アナの外見はまだまだ小さい少女であり、その幼さが容姿と相まって庇護欲を誘うところがあるとはいえ、声も聞こえていないだろう兵士たちをあそこまで駆り立てるとは流石と言うしかない。
「――あれは、少しずるをしたのです」
アナはそう言いながら、ちらりとジークリンデの方を見た。
「風の囁き……」
ジークリンデは短くそう言う。
「風の囁きって……あの魔法か?」
数年前にユートがウェルズリー伯爵から通信手段の開発を依頼された時に、ジークリンデが使えないか、と言ってくれた魔法だ。
残念ながらあの時は魔法渦巻く戦場では風の囁きが影響されやすい上、秘匿性の観点からも問題があったので使えなかったが、その風の囁きを使ったらしい。
「もしかしてアナの声を遠くまで届けたのか?」
「そう……後ろの兵まで聞こえたはず……」
「わたしにはそんな魔法は使えないので、ジークリンデにやってもらったのです」
そう言ってアナは薄い胸を張る。
ぴこぴこと狐の耳が動き、ふさふさの尻尾が動く。
「へー、そりゃ考えたな」
「兵たちからしたら、アナの声が天から聞こえるようなものでしょ? そりゃこれは奇跡か何かか、と驚くし、内容とか関係なしにアナはすごい、ってなるわよね」
「エリア、内容だってわたしが必死に考えたのものなのです」
内容は関係ないと言われて、少しふくれっ面をするアナに、ごめんごめんと謝るエリア。
「アナが言ったように、この一戦で王国の未来が決まるのは間違いない。絶対勝たないとな」
ユートの言葉に、エリアもみなも頷いていた。
アナの演説が終わると、次々と兵たちが駐屯地を出撃していく。
その姿を、シルボーの市民たち、そしてシルボーに避難してきている多くの避難民たちが声援とともに見守る。
兵たちは、その姿を見て何を思うだろうか――アナが言ったように、この人たちを、ひいては自分の家族を命を賭して守ろうと決意しているのだろうか。
一方でそうした民衆が歓呼の声を放ったのはエーデルシュタイン伯爵領軍が出撃する時だった。
他の部隊――ノーザンブリア王国軍にしろ、貴族軍にしろ――が揃いの軍装で歩調を整えて行進しているのに対して、エーデルシュタイン伯爵領軍はそんな整然とした部隊ではない。
軍装はきちんと革鎧を着ける者、胸甲だけしか着けていない者、そもそも鎧を着けていない者とばらばらであるし、武器も槍を持っている者、弓を持っている者、剣を持っている者から狼筅や戦斧、長刀、戦棍といった、正規軍では見ない武器を持つ者まで多数だ。
そうした連中が歩調を整えるどころか隊伍すら組まず三々五々歩く姿は、平時であれば、それは軍ではなくただの無頼漢の集団、荒くれ者の集団としてしか認識されなかったかもしれない。
しかし、その粗野な空気を持つ一団が、この第三次南方戦争において比類なき武功を挙げてきたエーデルシュタイン伯爵の一団と観衆たちは知っていた。
彼らが強者の中の強者――おとぎ話に出てくるような英雄とその仲間たちと思えば、その粗野な雰囲気もまた、歴戦の古強者だけが持つ空気に思えるのだろう。
ましてその真ん中に、馬上の人となったエリアがいるならば、民衆の歓呼の声は高まる一方だった。
エリアはその声が聞こえないふりをしながら、それでも照れているのがユートにはわかった。
そんな民衆の期待の声を一身に受けながら、ユートたちは進んだ。
行軍は意外なことに全く難渋しなかった。
ウェルズリー伯爵は優勢のローランド王国が騎兵を分遣してクリフォード城とシルボーの間の連絡線を断とうとするのではないかと予想していたが、そうした作戦は採らなかったようだ。
「これは幸いですね」
ウェルズリー伯爵は美味しそうにスープを飲みながらそう言った。
時間が惜しいので、夕食時に、夕食を食べながらの会議だ。
ユートはサンドイッチを作ってもらって持ち込んでいたが、ウェルズリー伯爵はカップに入ったスープをすするだけだった。
「あの、ウェルズリー伯爵、スープしか飲んでいないんですか?」
「いえいえ、本当は食事も出来るんですよ。ただ、胃腸が弱っているから、と療術法兵や薬師がいいましてね。しばらく治療で食事が食べられなかったので、そうした後にいきなり食べると却って身体の負担となるようです」
ウェルズリー伯爵はそう笑うが、明らかに栄養不足でやつれている。
確かに日本でも絶食した治療の後は重湯から始まる、というのはユートも記憶していたが、それでもこのやつれ方で、点滴もないのに大丈夫か、と思ってしまう。
「心配は無用――数日から、まあ最悪でもこの戦役が終わるまでには食事が摂れるようになるでしょう」
「まあ、それならいいんですが……」
ユートとしては自信満々にウェルズリー伯爵に言われればそう答えるしかない。
「それで、ですね。ユート君。戦術情報が入ってきたので、共有しておきます」
ウェルズリー伯爵がそう言うと、すぐにカニンガム副官が地図を広げる。
ユートはサンドイッチを横に避けながら、その地図を見る――どうやらクリフォード侯爵領付近の地図らしく、ユートもなんとなく覚えているところもある地図だった。
「まず、現在の戦線はクリフォード城から南に十キロ弱いったところにある、この東西に流れるティムサ川に沿って敵味方が睨み合っていることになります」
「前とは侵攻ルートは違うんですか?」
「違いますね。前に大敗を喫したのに懲りたのもあるんでしょうが、今回は大軍が展開しやすい海岸通りを選んでいます」
そう言いながら、ウェルズリー伯爵は駒を一つ、そのティムサ川の河口の右岸に置いた。
「この河口右岸――北岸にはティムサの街がありますが、ここは城塞都市であり、現在はアダムス兵団長が司令部を置いています。やや西よりなので全体指揮は取りにくいですが、安全性を考えれば妥当な選択でしょう。そして――」
そう言いながらもう一つの駒を、今度はそこから三キロほどティムサ川を遡ったあたりにおく。
「ここに近衛装甲騎兵を率いるアーネスト前宮内卿が司令部を置いています。ここより東には敵はいないようで、戦線正面はこの三キロの幅を持つことになります」
「ああ、アーネスト前宮内卿がいるところより東側はちょっとした山になっているぞ。ティムサ川も谷川になって崖があるから、渡河は困難なはずだ」
この地に誰より詳しい先代クリフォード侯爵が事も無げに言った。
「なるほど。ということは戦線正面を取れる範囲の両端に司令官二人がいることになるわけですね」
「そういうことだな。このティムサ川付近は西アストゥリアス城塞が突破されればここで迎撃するとクリフォード侯爵家ではずっと言われていた場所だ。ロドニー……いや、ジェファーソンがそれを伝えたのだろう」
「なるほどなるほど。では当初の作戦計画通り、ということですか」
「まあそういうことだな。むしろ最初の侵攻で使われた、山あいの道の方がどちらかといえば想定外だ。確かに距離は短いが、隘路が多いから大軍の展開には向かんしな」
「そのお陰で奇襲が出来たニャ」
先代クリフォード侯爵の言葉にそれまでサンドイッチを一心不乱に食べていたレオナがにやりと笑った。
「まあ森を突破しようと考えるのはエーデルシュタイン伯爵領軍くらいだが……ああいう奇襲を受けるのを嫌がるのはわかる」
「前回は電撃的にクリフォード城まで落としてしまおう、という作戦だったんですかね?」
「ああ、そういう可能性も否定はせんな。そして撤退も含めて考えると、来た道を帰る方が安全と踏んだ、と考えれば説明はつく」
そこで先代クリフォード侯爵以下の部隊と遭遇してしまったのは全くもって不幸な事故としか言えない話なのだが――
「ああ――話が逸れました。現在の部隊はアダムス兵団、近衛装甲騎兵の他、クリフォード侯爵領軍と第一軍の一部がいますが、クリフォード侯爵領軍は山あいの間道からクリフォード城を急襲されることに対しての警戒にあたっています。第一軍の残部おおよそ一万ほどがこの三キロの戦線を埋めていますが、情報が錯綜しているので詳しい配置まではわかりません」
恐らく応急防御部隊をいくつも編成しているのあろう。
「出来れば我々が到着し次第、下げて再編したいのですが……まあここら辺は敵次第ですね」
「それで、僕は何をすればいいんですか?」
「簡単です。とりあえずは戦線の把握と整理です――ああ、もちろん私もやりますよ。現状ですと、余りにも錯綜しすぎています」
フェラーズ伯爵がちゃんと部隊を掌握しなかったから、とは言えないが、結局はそういうことだ。
そのフェラーズ伯爵は進退伺いを出したことで第一軍司令官からは一時的に外れ、現在はシルボーで謹慎している。
また、第一軍司令部は総軍司令部に組み込まれ、主にシルボーで総軍補給廠を構成することになっていた。
「ともかく、重要となるのは戦線の把握と、錯綜している情報の整理、そして前線の部隊に適切な休養を与えること――つまりは、決戦の準備です」
そう言いながら、ウェルズリー伯爵はスープを啜った。
すこし咳き込んだようだが、どうやら大丈夫らしい。
ユートはその様子を見ながら頷いた。




