第210話 来たるべき決戦に備えて
「ユート、意外と美味しいものを食べているのですね」
アナはそう言いながら給仕が用意してくれた昼食をつまんでいる。
野戦軍の司令官がこんなところで暢気に家族と昼食を食べていていいのか、という向きもあるが、そこは激励に訪れた王女と軍司令官の会食、ということらしい。
「そりゃこれは司令官用の食事だし、ここは戦場ではないからな」
そう言いながらユートも程よく焼き上げられ、湯気を立てている肉を食べる。
「司令官用? 軍では立場によって食事は違うのですか?」
アナは軍については何も知らないらしく、ユートの言葉を聞いて目を丸くしている。
「士官は貴族で、下士官兵は平民だからね。士官の食事は私弁だけど、下士官兵は支給だから全く違うものだよ」
もっとも士官の食事が私弁といっても、後方など物資が豊かなところならばともかく、戦闘行動中ではもちろん支給される食事に対価を払うだけだが、後方ならばちゃんと連絡さえしておけば好きな食事をとることも出来る。
ユートは特に注文したことはなかったので、司令部付の従兵たちが一般的な司令官の食事――つまりは高位貴族の食事を毎回作っている。
「士官ばかりいいものを食べていて、下士官兵たちは不満に思わないのですか?」
「多分大丈夫じゃないかな」
当然とも言えるアナの疑問に、曖昧な答えを返すユート。
とはいえ、別に支給される下士官兵の食事が質の悪いものではないとは思う。
ユートもポロロッカの頃は義勇中隊として戦っているので、下士官兵の食事を食べたこともあるが、素朴な雰囲気はあるものの、味はよかったし、冒険者の評判はよかった。
冒険者の舌と同じ平民の下士官兵の舌はさほど遠いものではないと思うので、味そのものは多分問題ではないだろう。
ただ、いいものを食いやがって、というやっかみの類がどうかはわからないから、曖昧な答えになっただけだ。
「そうなのですか。出来れば前線の兵たちも慰問したいのです。それに、どんなものを食べているのかも気になります」
アナはそう言いながら首を横に振った。
さすがにそれは無理、とわかっているらしいが、それでも未練があるようだった。
「さすがに前線は、な」
「でもユートは行くのですよね?」
「そりゃ戦う方法を知っているか、知らないか、があるからな」
「それならばせめて前線に向かう兵たちの慰問をしたいのです」
最終的にはそのくらいなら、ということでアナはスケジュールを組んでいった。
数日間かけてアナの慰問が行われたのは、第一軍の兵だった。
第三軍の兵は、旧タウンシェンド侯爵領を鎮定し、士気高らかにこのシルボーに入っている。
一方で一敗地にまみれた第一軍の兵たちの士気は当然に低い。
だからこそ、慰問によって少しでも士気を高めよう、というのがアナの考えらしかった。
警備するのは、エルフの護衛達――本来ならばジークリンデを警護する者たちだ。
北方の大森林の諸部族もまた、ノーザンブリア王国を支持しているのだ、という露骨な演出であり、そのためにわざわざジークリンデの警護を借りたのだ。
どこまでも政治的な、打算的な慰問だったが、第一軍の兵たちは歓喜した。
下士官兵たちは、平民にありがちな王族への憧憬をそのままに露わにし、士官たちのうち、従騎士の連中は貴族としてそのような憧憬を露わにはしなかったが、内心は下士官兵と同じだった。
一方で貴族上がりの士官たちは、こんな最前線に近いところまで、ノーザンブリア王国の王位継承権第一位である“アナスタシア王女”が来られた、という事実を重く受け止め、次なる戦いにおいて奮戦することを誓っていた。
更には、彼ら純真無垢な下士官兵たちは、その“アナスタシア王女”が下士官兵の食事時に合わせて食堂へやってきて、一緒に食事をとったことに、感動すら覚えたらしかった。
彼らとて、それはアピールなのでは、ということを疑わないわけではない。
しかし、雲の上の存在であるはずの――それこそ閲兵式の時に遠く仰ぎ見るだけの王族、しかもまだようやく幼さから抜け出したくらいの王女がやってきて、粗末な食事を嫌な顔一つせずに一緒に食べてくれた、という事実の方がそれを上回っていた。
もっとも、冒険者であるユートとともに暮らすアナからすれば、下士官兵に支給される食事も普段の食事と大差ないものであり、特段の努力を必要としたものではなかったし、むしろ美味しいものだと認識していたのだが。
一方のジークリンデはジークリンデで第三軍とエーデルシュタイン伯爵領軍、特に餓狼族や妖虎族の大隊を慰問して回っていた。
大森林における純エルフの役割は、王族というよりは象徴に近いところがある上、ジークリンデは病弱でこうした慰問などしたことはなかった。
それでも餓狼族や妖虎族たちは慣れっこだったし、第三軍の兵は元より意気軒昂であったので、ジークリンデがやってきてくれたことだけで満足していた。
「ようやく慰問が終わりました」
アナはユートの私室へやってくると、うーん、と背を伸ばしながらそう言った。
王族として小さい頃からこうした仕事をするのには慣れているし、今さら何か努力をする必要があるわけではないが、それでも気疲れしないわけではない。
「お疲れさん」
ユートはそう言いながら、冷たい水を注いでやる。
まだまだ残暑が厳しい時期には、冷たい水の一杯も贅沢なものだ。
「これで少しは士気が上がったのでしょうか……」
「大丈夫よ、アナ。あの兵たちの顔を見たいでしょ? あんたがああやって声を掛けるだけで意味があるのよ」
不安そうに呟くアナをエリアがそう励ますように言う。
ユートも第一軍の兵たちの状態は知らないが、ともかく明るい顔をしていたのを見て、少しはましになっただろうとは思っている。
「もうすぐ出陣するのですよね?」
「多分、な」
ウェルズリー伯爵はようやく今日軍務に復帰した。
恐らく反攻作戦を練っているのだろうが、当然ユートたちの任務は今睨み合いが続いているクリフォード城の近辺へ出陣することになる。
アナとジークリンデの慰問の間、ユートはアーノルドや先代クリフォード侯爵とともに戦術情報を集めていた。
ウェルズリー伯爵が倒れていたせいで手持ち無沙汰だった総軍司令部のカニンガム副官も手伝ってもらって、戦況の把握に努めた結果、ようやく事態をおおむね把握することが出来た。
現在の戦線はクリフォード城の近辺にあり、そこでクリフォード城を背後に置いて睨み合っている状況だ。
先年戦った時はクリフォード城が包囲されていたのだから、それに比べればましと言えばまし――しかし、戦力比としてはあの時と同等か、場合によっては悪化しているのでは、と思われ、厳しい戦いが予想された。
「ユート、正直に言えば行って欲しくないです」
アナが真剣な目をする。
「ユートがいなくなるなんて、考えられないのです」
「そっか」
そうとしか言えない。
まさか出陣するわけにはいかないし、だいたい今戦わなければユートの住むところも、何もかもを失ってしまう。
必ず帰ってくると言えるほど、ユートは楽観できないし、アナに嘘をつくのも嫌だった。
「ユート、優しい嘘は必要なものですよ」
アナは悲しそうに笑う。
「無事に、とは言いません。でも、せめて生きて還ってきては下さい」
「約束は出来ない。けれども、精一杯頑張るよ」
くすり、とアナが笑った。
翌朝、ユートはウェルズリー伯爵に呼ばれた。
相変わらずの顔色で、しかしらんらんと目だけは悪戯小僧のように輝いている。
「ユート君――いよいよ出撃です」
「クリフォード城ですか?」
「ええ、その通りです」
何をしに行くのかは既にわかっている。
あとは、戦って勝つだけだ。
「フェラーズ伯爵の戦闘詳報に目を通しましたが、またぞろ猛獣使いが出てきたようです。これは困った話です」
それを聞いて、先代クリフォード侯爵が嫌な顔をする。
勇んでクリフォード侯爵領軍を率いて出撃し、そしてあの猛獣たちに散々にやられた、嫌な記憶が蘇ったのだろう。
「ただ、幸いにもキャットニップやシルバーヴァインの効果は確認できました。補給廠もどこからともなくキャットニップやシルバーヴァインを調達してきてくれたので、そこまで恐れるには足りないでしょう」
確かに、猛獣使いは恐れるには足りない。
しかし、問題はそこではなかった。
「敵勢は、八万ほどと聞きますが……」
「ええ、圧倒的な多数です」
ウェルズリー伯爵は笑う。
「近衛は?」
「近衛も出せるだけ出してくれるようです。アーネスト前宮内卿が率いるようですが、親征勅令が出ているわけでもないのに、これだけ近衛を動員するのは王国史上初めてといっていいでしょう」
これで、ノーザンブリア王国は開戦時に抱えていた兵の大半を失うか、今ここにつぎ込むかしていることになる。
「これで負ければ後はありません」
「何、あいつらも総力を挙げた大攻勢だ。これを挫いてしまえば、あいつらに二度目はない――ああ、我が国もこれは同じだが」
マンスフィールド内国課長がそう笑う。
軍務省情報部はあのオールドリッチ事件によって、外国課に“オールドリッチ組織”の構成員が含まれていたことから、情報部そのものを再編する必要に迫られ部長は引責辞任、マンスフィールド内国課長が課長のまま現在は統括している。
恐らく情報部の再建がひと段落すればマンスフィールド内国課長がそのまま情報部長に昇格するのだろう、と誰もが思っている。
そしてマンスフィールド内国課長が向こうの動員限界も近いという事実を知っているということは、ローランド王国に諜報員を入れるなりして、少しは諜報網を再建出来た、ということだろう。
対敵諜報は日常的に諜報員を送り込んでおくのが基本のはずなのに、戦時下という状況でここまで立て直せたマンスフィールド内国課長の手腕は褒めるしかない。
「この第三次南方戦争の、最後の決戦ですね」
ウェルズリー伯爵の余りに朗らかな物言いにユートは苦笑いをし、アーノルドはやれやれとばかりにため息をつき、先代クリフォード侯爵は青筋を立てる。
同時に、このような苦境にあっても、状況を心底楽しんでいるウェルズリー伯爵はある意味すごいとも思う。
「さて、編成なのですが、北方軍抽出部隊と第一軍のうち再編のなった部隊を合わせて新生第一軍とします。もちろん私が直卒し、クリフォード城戦線で南方城塞軍と、第一軍残部を合わせます。近衛軍の分割は好ましくありませんので、アーネスト前宮内卿の指揮下で戦うことになります」
ユートはせっかくシーランド侯爵が持たせてくれた北方軍の抽出部隊を失うことになるが、これはやむを得ない。
とはいえ、西方軍四個大隊、中央驃騎兵第五大隊、補給廠とそれに付随する警備大隊と王立魔導研究所臨編法兵小隊、それにエーデルシュタイン伯爵領軍で第三軍を編成するとなると、実戦部隊は一万しかいないことになる。
「流石に第三軍の戦力が……」
「わかっています。ですから、南部貴族領軍は第三軍がどうぞ。ちょうど先代クリフォード侯爵もいますし、問題なく戦えるでしょう。あと、東部貴族たちも兵を出してくれるはずですので、そちらもどうぞ」
ここで出てくる南部貴族たちというのは大半が王国南西部を領地としている、元々はクリフォード侯爵家の寄騎衆であり、先代クリフォード侯爵とも旧知の貴族たちだ。
また、東部貴族領軍がどの程度来るのか、どの程度の練度なのかはわからないが、数はいないよりはいた方がいい。
「そういえば先代クリフォード侯爵の勅勘ってどうなっているんですか?」
ユートは一番気になったことを訊ねた。
「ああ、大丈夫ですよ。隠居した時点で、何らの罪には問われないことになっています。そして恩賜ノーザンブリア冒険者ギルドの構成員ということはエーデルシュタイン伯爵家の家臣として扱われますから」
「それなら、先代クリフォード侯爵に南部貴族領軍を率いてもらっても問題はありませんよね?」
「もちろんです」
エーデルシュタイン伯爵家の家臣であり、貴族の身分を持つのだから、理屈としてはクリフォード侯爵家を含む南部貴族領軍を率いてもおかしくはない。
もちろん、本来ならばただの伯爵家の陪臣が王国屈指の大貴族であるクリフォード侯爵家の上に立つ、というのは感情面の問題が発生するものだが、今回に限って言えばそれはない。
「ユート、アドリアンかセリーちゃんに大隊長やってもらう?」
「そうだな」
「大隊長人事については、そっちに任せますよ。総軍司令官が関わることではありませんし。ともかく、それで一万数千――まだ南部貴族領軍がどの程度参集するかわからないのでこういう表現になりますが――ともかく、まともな数は集まるでしょう」
場合によっては二万近くにまで膨れあがるかもしれないが、それを一個の戦場で上手く統率しなければならないと身が引き締まる思いだ。
もちろん、対軍を率いて戦ったことは何度も経験があるが、今回は後がない戦い――より緊張感は高まる。
「ユート君、これが最期の戦いです」
いつもの朗らかさのない、真剣なウェルズリー伯爵の言葉に、ユートは頷いた。
来週から私事多忙により、週3更新程度に更新を減らします。
火、水、金に更新すると思いますが、週によっては火、金の2回更新になるかもしれません。
申し訳ありませんが、よろしくお願いします。




