第209話 ウェルズリー伯爵の決断
「やあ、ユート君。よく来てくれました」
久々に会うウェルズリー伯爵は、頬はやせこけていて、顔色は病的なまでに白かった――いや、病気なのだから当然なのだが。
それでも目線だけはギラギラと強く輝いている――それはポロロッカの時のサマセット伯爵、あるいはさっき見たばかりのフェラーズ伯爵ではなく、生きる意思を感じる強さだ。
「どうにか到着できました」
「それは重畳」
ウェルズリー伯爵はそう朗らかに笑う。
「ところで、フェラーズ伯爵のことを聞きましたか?」
「ええ、進退伺いを出したそうで……王都に送ったんですか?」
「さすがに親補職の進退伺いですからねぇ……私の一存で差し止めるわけにもいきませんでした」
基本的に総軍司令官は軍事に関する全権限を持っているのだが、唯一、親補職の任免権だけは持っていない。
これは表向きには軍司令官の権威を維持するという名目だったが、軍司令官の任免権まで総軍司令官に与えてしまうと、いくら有事とはいえ総軍司令官が全ての軍事力を握ることになり、危険であるという理由によるものだった。
もちろん、総軍司令官と意見の食い違う軍司令官がいれば、作戦面で支障を来すかもしれないが、その場合は各野戦軍や兵団の編成を通じて総軍司令官がどうにかしてしまえばいい、と軍務省では考えられていたし、ウェルズリー伯爵もその点には異論はない。
そうである以上、総軍司令官とはいえ、親補職である軍司令官が進退伺いを出せばそのままアリス女王に伝えるしかなかったのだ。
「全く面倒なことをしてくれましたよ。フェラーズ伯爵はどうしたんでしょうね」
「ふん、ありゃ臆病風に吹かれてるだけだ。修正してやったがな」
先代クリフォード侯爵の言葉を聞いて、ウェルズリー伯爵は胃のあたりを抑える。
「まったく……先代クリフォード侯爵は私の胃を痛めつけに来たんですか? 大隊長が軍司令官を殴るなど、前代未聞ですよ」
「別に貴様の世話にはならんさ。そもそもフェラーズ伯爵が進退伺いを出した以上、軍司令官ではあるまい。それならばクリフォード侯爵家とフェラーズ伯爵家の問題だ」
「それはそれでごめんこうむりたいんですが……戦争のまっただ中に有力貴族が相争うなど……」
ウェルズリー伯爵の言葉をふん、と鼻を鳴らして先代クリフォード侯爵は無視する。
「アーノルドは……ああ、わかっていますね」
「ああ、指揮権を第三軍に委ねたかったのだと思っている」
「ユート君の下に、アーノルドと先代クリフォード侯爵がいて、更に大森林のゲルハルトにアルトゥルにレオナ――ああ、アーノルドと先代クリフォード侯爵が軍を去った今、王国最良の騎兵指揮官と呼んでもいいリーガン君もいますね」
「まあ、それだけではないだろうけどな」
「それは?」
「自分の指揮能力に対する不信だ。戦場で誰もがかかるかもしれない病に近いだろう」
「なるほど」
いかに訓練された軍人であっても、常日頃から殺し合いをしているわけではない。
もちろん覚悟を決めた上で日常的に訓練はしているのだが、いざ実戦となってもその覚悟通り戦って平然としていられるわけではない。
王立士官学校を出たばかりの若手士官から、軍に奉職して何十年のベテラン下士官まで、そうした覚悟を持っていたはずなのに、過酷な戦場で心が耐えきれなくなることがあるのは、ウェルズリー伯爵もアーノルドも先代クリフォード侯爵も知っていた。
今のフェラーズ伯爵は、自らの失策でノーザンブリア王国軍を大敗させてしまい、王国を存亡の危機に晒したことに、心が耐えきれなくなったのだろう、というのがアーノルドの診立てだった。
「難しいですね……それならば仮に陛下が司令官であることを差し許しされたとしても第一軍を指揮するのは……」
「それまでに回復している可能性もあるだろうが、今のままならば難しいだろうな」
ふむ、とウェルズリー伯爵は考え込む。
そして、ちらりとユートの方を見た。
「どうですか? ユート君」
何が、と聞き返したくなるが、その答えはわかっている。
総軍の指揮を執るか、という意味だろう。
「あの、うちの司令部じゃ厳しいですし、自分にも経験がありません」
ユートの言葉に、ウェルズリー伯爵はやっぱりか、という顔をする。
「さすがに総軍司令部の事務を切り回したらアーノルドが死にますね。まあ御国の為なんで、アーノルドの一人や二人、死んでもいいんですが……」
「おいおい、ウェルズリー伯爵、ちっとも良くないぞ?」
「だってあなたは軍人でしょう? 軍人ならば戦場で死ぬのは覚悟の上ではないのですか?」
「それは戦死するって話だろう? 事務仕事で過労死することを覚悟しているわけではないぞ」
「同じことですよ。その事務仕事は軍として必要不可欠であり、なければ戦いどころではないものなんですから」
そう言うと、くつくつと笑った。
顔色は悪いが、いつものレイモンド節に少しばかりほっとした空気となる。
「まあ、冗談はこのくらいにしましょう。ユート君、君の司令部には人員は派遣しません」
「え?」
今の流れだと、ユートの司令部に人を派遣するはずだったのが、ウェルズリー伯爵はそうではないことを言った。
「ウェルズリー伯爵、ではどうするのだ?」
アーノルドがそう言うが、ウェルズリー伯爵は無視して話を続ける。
「理由は三つあります。一つ目は、ユート君自身が総軍を率いるような経験がないこと。先立ってもフェラーズ伯爵に無理をさせて潰れさせた以上、ユート君にその轍は踏ませられないでしょう。二つ目、は二個軍がありながら、軍司令官が事実上いないという状況を避けること。先任大隊長に指揮を執らせることも考えましたが、第一軍の大隊長にも死傷者が多い為、これも苦しいですし。三つ目は、私は総軍司令官である、ということです。今回の敗戦は、確かにフェラーズ伯爵の判断ミスだったのかもしれませんが、それも含めて総軍司令官の責任です」
三つの理由をウェルズリー伯爵は一気に言い切った。
「つまり、それって……」
「ええ、簡単なことです。総軍司令官が総軍司令官として働けばいいだけのことです。王立士官学校に入ってから四十年、国が私を養い続けたのはまさにこうしたときの為です」
「身体は、大丈夫なんですか?」
ユートはそこだけが心配だった。
ウェルズリー伯爵が死ぬのも嫌だし、ウェルズリー伯爵が倒れてしまえばまたフェラーズ伯爵の時と同じことになる。
「……ユート君、私の身体のことは私が一番わかっています。心配は無用」
ウェルズリー伯爵は珍しく、強く頑なな口調でそう言い切った。
細かいことは、実際にウェルズリー伯爵が復帰してからとなり、当面はウェルズリー伯爵の副官とユートで動くことになるだろうが、ともかく雷光のウェルズリーという異名を持つ指揮官の復帰は軍の士気を高めることは間違いないだろう。
一方でユートには不安もあった。
というのも、ウェルズリー伯爵は決して万全の体調となっているわけではない。
もし万全ならばユートが到着する前、フェラーズ伯爵が進退伺いを出した時点で復帰していたはずだ。
フェラーズ伯爵が心理的に追い込まれている状況であり、ユートの司令部では総軍を見ることは出来ない、という状況から、復帰を決意したということは、病気が回復しているわけではない、ということを意味している。
「アーノルドさん、ウェルズリー伯爵なんですが、大丈夫なんですかね?」
「体調ですかな?」
「ええ、シルボーまで後送されるほどの病気で、まだ回復もしていないのにまた指揮を執るとなると負担も大きいと思いますし」
ふむ、とアーノルドは頷き、先代クリフォード侯爵は苦笑いする。
「まあでもウェルズリー伯爵のことだから絶対に言わんだろうな。ああなると頑固な奴だ」
先代クリフォード侯爵がそう答えたが、ユートとしてはどうしていいかわからない。
「ああ見えて責任感も強い男だ。前に後送された時は攻城戦が上手く運んでいるようだったので、自分が抜けても大丈夫、フェラーズ伯爵に任せておけば大丈夫と思っていたのだろうが、今はその判断を悔やんでいるのだろう」
「でも、それで、ウェルズリー伯爵が死んだりしたら……」
「それが奴の天命だ。しょうがない」
先代クリフォード侯爵はそう言って笑い飛ばす。
「私はウェルズリー伯爵が死ぬとは思っていませんが、仮に死ぬとしてもそれはウェルズリー伯爵の判断です。先代クリフォード侯爵の言う通り、人には死に時、というものがあるのです」
黙考していたアーノルドが言い聞かせるように言う。
「ことここに至ってはウェルズリー伯爵の判断を重んじるしかありません。我々は部下でウェルズリー伯爵が上官なのですし、何よりもウェルズリー伯爵の人生です」
アーノルドの言葉にユートは頷いていたが、それは本心からのものではなかった。
「ユートが言うのもわかるわ。あれ、絶対かなり危ない状態だもの」
私室でエリアがそう言った。
エリアもウェルズリー伯爵の顔を見て、明らかに危ない状態だと思ったようだった。
「まあウェルズリー伯爵の人生といえばそうなんだけど……」
「一度、ウェルズリー伯爵に言ってみるか……」
少なくとも病気で指揮を執られて、肝心なところで判断ミスをされても困る。
ユートは自分が総軍を率いるなど考えたくもなかったが、ウェルズリー伯爵の状態を見ればそれしかないのではないか、と思っていた。
「まあ、一度言ってみるのはありよね」
エリアの言葉を心強く感じながら、明日にでも、と決意したところで、不意にドアノッカーがノックされる。
これは司令官私室となっている天幕に出入りするとき、ノック出来ないのでつけられているらしいが、ここにやってくるのは基本的にはエリアたちだけで、使われたのは初めてだ。
「すいません、エーデルシュタイン伯爵閣下、第三軍司令部の方が誰もいないのですが……」
そんな声が外から聞こえた。
セオドア・リーヴィス大隊長だ。
「あれ、エリアが司令部の当番?」
「アーノルドさんのはずなんだけど……おかしいわね」
エリアは訝しんだのだが、ともかくリーヴィス大隊長を放置しておくわけにもいかない。
「まあいいわ。リーヴィスさん、どうかしたの?」
エリアが顔を出すと、リーヴィス大隊長が笑っていた。
「いや、驚きましたよ」
何が驚いたのかわからないし、そんな訳のわからない物言いをするリーヴィス大隊長に驚きだ、とユートは苦笑した。
「ユート!」
そんな声が聞こえた。
少しだけ声変わりした女性の声――
同時にぼふっと何かがユートにぶつかる。
「ユート! 心配したのです」
懐かしい声――アナだ。
「アナ!?」
隣でエリアも驚いている。
「ちょっと、アナ! なんでここにいるのよ!?」
「来たのです」
「来たのです、じゃないわよ。ここは危険な戦場なのよ。あんたみたいな子供がうろうろしていい場所じゃないわ」
エリアの剣幕にもアナは負けていない。
「それは普通の子供の話なのです。私は、ユートと婚約したといっても、未だに王女なのです」
「だから何よ?」
「国の危機に、王族が何もしないわけにはいかないのです。高貴なるが故の義務があります」
アナはそう言いながら、ユートの顔を見る。
「ユート、今回の戦いは、ノーザンブリア始まって以来の、国の存亡を賭けた戦いなのです」
「――ああ、わかっている」
「だから、わたしも来たのです」
つまりは督戦――そこまでいかなくとも、王女がこの危険なシルボーくんだりまで激励に来れば、それだけで兵の士気は上がるという計算か。
恐らくアナの背後にはアリス女王がいるな、と思ったが、今さらそのことについては何も言うことはない。
「俺も許可したぜ」
「え、アドリアンさん?」
「ユート君、私もいるわ。ちょうど、王都支部の様子を視察する為に王都に行った時に、大敗の方が入ってきたのよ。それで、冒険者をかき集めてアナの護衛をすることになったわ」
またも不意に現われたセリルがそう解説する。
「てことはジークリンデも?」
「大森林の部隊を激励するのには純エルフのジークリンデが来るのが一番だからな」
「ちなみに、北方大森林からも増援が来てるわ。今度はエルフの部隊よ。名目はジークリンデの身辺警護だけど、事実上は増援、ってね。そのジークリンデはさっきあの獅子心王に捕まっちゃったけど」
ああ、そういえば純エルフは大森林でも特別な一族だったな、と思い出す。
恐らくアルトゥルもゲルハルトもレオナも、ジークリンデには頭が上がらないのだろう。
「というか、アドリアンさん戦えるんですか?」
「戦えねぇよ。でも馬に乗るくらいなら、まあ問題はないし、護衛の指揮を執るくらいなら大丈夫だ。まさか五百人の冒険者と、五百人のエルフに守られた王女の一行を襲撃するアホな山賊なんかいやしねぇだろ」
確かにそれはその通りだ。
ようやくユートは混乱から立ち直ってきて、事態を受け入れられた。
「ともかく、ようこそシルボーへ、でいいんですかね?」
「なんかユート君、嬉しくなさそうね?」
「いえ、驚いているのと、戦場になるかもしれないところに戦えないアドリアンさんや、アナやジークリンデがいるのが不安なだけです」
「まあ大丈夫だ。というか、お姫様次第じゃもっと南下するかもしれんしな」
「え、流石にそれはまずいですよ」
これ以上南はもう戦場だ。
いや、そこここで戦っているわけではないが、いつ敵の騎兵なりが浸透してきて、戦いが起きてもおかしくない。
「そこら辺の話はあとでしようや。とりあえず、歓迎に何か食わしてくれ。旅の間は保存食が多かったんだ」
アドリアンの暢気な言葉に、ユートは苦笑で応じるしかなかった。




