第207話 五里霧中の転進
「あの、ハルさん、詳細は……というかなぜ今……」
ユートはそう言うのが精一杯だった。
「ユート様、恐らくなのですが、この南東支街道がアンダーソン殿に封鎖されていた為、伝令は遠くメルバーン子爵領のメルバーン城からレノックス伯爵、ソロイを経由してようやくタウンジェント城です。その距離――しかも経済的に崩壊しつつあった旧タウンシェンド侯爵領を経由した結果、時間がかかったのでしょう」
アーノルドが伝令が遅れた理由についてはそう答えてくれる。
確かに、距離的にも長い上、輜重を持たない伝令にとっては、経済が崩壊している状況というのは最悪だ。
糧秣のかわりに持たされた金貨で糧秣の調達が出来ず、各地の治安部隊――場合によっては内務省の役人――と交渉して糧秣を譲ってもらわないといけない上、そうした治安部隊が糧秣を持っていない場合だってあり得る。
「すいません……我々も旧タウンシェンド侯爵領のそうした状況を把握しておらず……」
ハルはすまなそうに頭を下げるが、ウェルズリー伯爵が負けた責任も、伝令が遅れた責任も彼にあるわけではない。
「……いえ、ハルさんの責任ではないです。連絡が取れないところに分遣した自分の責任です」
せめてもの軍司令官としての矜持が絞り出させた声だった。
「それで、状況なんですが……」
「詳細な報告は入ってきておりません。第一軍の方も相当混乱しているようで。それと、連絡元は第一軍ですが、フェラーズ伯爵閣下でした」
確かに第一軍司令官はフェラーズ伯爵であり、その意味でフェラーズ伯爵からユートに連絡が来ることはおかしい話ではない。
しかし、そこに総軍司令官という上級部隊を管轄するウェルズリー伯爵がいて、なぜフェラーズ伯爵がユートに連絡を寄越すのか。
「ユート卿、あのウェルズリー伯爵に限って、戦死などせんぞ。あいつは部下が文字通り全滅しても、一人だけ逃げ延びるタイプだ」
先代クリフォード侯爵の冗談を聞いて、乾いた笑いが場を支配した。
いつもの先代クリフォード侯爵の、ウェルズリー伯爵に対する毒舌だったが、今回だけはどんな表情をしていいかわからなかったのだ。
先代クリフォード侯爵は気まずそうな顔をしながら、それでも本心からウェルズリー伯爵が生きていることだけは信じている目をしていた。
「とはいえ、なぜフェラーズ伯爵が連絡してきたのでしょうな……」
「ウェルズリー伯爵の奴が逃げた、とかならばどうだ?」
「さすがにウェルズリー伯爵も部下をほっぽり出して逃げはしないでしょうが……ただ、混乱の中でウェルズリー伯爵とフェラーズ伯爵が分断され、ともかくこちらに連絡せねば、とフェラーズ伯爵が連絡してきた、ということは考えられますな」
アーノルドが出来るだけ合理的に――無理のあることを言ってのける。
「ウェルズリー伯爵の状況より、あたしたちがどうするかを考えましょう。向こうに行けばわかるわ。とりあえずゲルハルトとレオナにも入ってきてもらいましょう。歩哨は……アーノルドさん、誰が信頼できる人をお願い」
エリアの一言に、アーノルドと先代クリフォード侯爵が少し笑う。
ゲルハルトとレオナが入ってきて、ユートはようやく場の空気がいつもの第三軍司令部へと戻った気がした。
「とりあえず一度タウンジェント城へ戻らなしゃあないやろ。シーランド侯爵を放っとくわけにもいかへんし、オレらが転進するんやったら、東アストゥリアス城塞にはしっかり手当てしとかなまずいやろうし」
ゲルハルトの一言にみな頷く。
「現在の戦線とかはわかってかニャ? どこに転進するか決められるのかニャ?」
「錯綜しておりますが、恐らく現状ではクリフォード城の付近まで戦線は北上しているものと考えられます」
「第一軍の報告はそんなめちゃくちゃなのかニャ?」
「というよりも、こっちにくる連絡はあくまで情報共有ですし、書面についてはユート卿宛の軍機書類でしたので、開封して確認しておりません」
軍の規則上は極めて正しい行為だが、その書面は今ははるばる遠回りしている伝令の手の中だ。
ユートはほぞを噛む思いだったが、いかんともしようがない。
と、同時に視線が先代クリフォード侯爵に集まる。
クリフォード城には当然、先代クリフォード侯爵の妻や息子であるロドニー、そして苦楽を共にしてきた家臣団がいる。
「……クリフォード城ならば大丈夫だ。あそこにはジェファーソンがいる」
先代クリフォード侯爵は強がりなのか、それとも重臣であり、自身の片腕として重用してきたジャスパー・ジェファーソンをそこまで信頼しているのか、傲然とそう言い放った。
「今、第一軍司令部は? クリフォード城?」
「いえ、どうもシルボーまで下がっておるようです」
もし、西アストゥリアス城塞が健在なうちはクリフォード城が司令部となり、西アストゥリアス城塞が突破された時は、クリフォード城を盾としてシルボーを司令部とする。
当初から定められている軍の動き通りであり、何ら疑問に思うところはないはずだった。
少なくともユートたちはそう思ったが、古強者二人――先代クリフォード侯爵とアーノルドはそうは思わなかったらしい。
「あのウェルズリー伯爵がそんな当初の計画に拘るとは思えんのだが……ああ見えてウェルズリー伯爵は野戦主義者だぞ」
「確かにそこは先代クリフォード侯爵の言う通り、疑問だな。とはいえ、兵をまとめるのに下手に途中の街で留まるのは危険と判断したか、あるいは兵站の問題か……」
少しばかりの違和感は、先ほども話題に上がった、もしかしてウェルズリー伯爵が戦死しているのでは、という疑問と合致することに、全員が気付いていたが、誰も口には出さなかった。
アリス女王即位の立役者の一人であり、第二次南方戦争の英雄、そして当代の軍務卿であり総軍司令官が戦死となれば、戦術的どころか戦略的にも政治的にも影響が大きすぎる。
「……憶測でものを言っていても始まりませんね。一度タウンジェント城に戻り、南西部に押し出す軍勢を再編しましょう」
ユートの言葉にみなが頷いた。
エーデルシュタイン兵団がタウンジェント城に戻り始めたのは、その日の夜だった。
一晩寝る、という選択肢もあったのだが、あまり戦っておらず疲労が溜まっていないこと、夜間でも行動可能な妖虎族がいること、そして切迫した事態に強行軍を決めたのだ。
冒険者たちはせっかく戦闘が終わったのに、また行軍かと思った者もいたようだったが、ユートやエリアが深刻な表情をしているのを見て、そうした行軍をさせるだけの理由が出来たのだろうとそれ以上何も言わなかった。
大休止を減らし、昼夜兼行の強行軍でタウンジェント城へ戻ったのは、八月十二日のことだった。
「ユート卿!」
タウンジェント城に戻ってくると、シーランド侯爵がすぐに出てきた。
表情は全く変わっていないが、それでもわざわざ出てきたあたり、どうやらユートが留守の間にシーランド侯爵にも第一報が入っていたらしい。
「聞いています。至急、会議室へ」
「わかりました」
それだけでお互い、状況を把握した。
「まず、封蝋のされた書面です。送り名は全てフェラーズ伯爵からのものとなります」
やはり、ウェルズリー伯爵の書面は一つもないらしい。
ウェルズリー伯爵はどうなったのだ、という空気はあったが、それには誰も触れない。
「それで、防衛体制のことなんですが……」
そう、旧タウンシェンド侯爵領の防衛体制の確立を考えねばならない。
「現状、メルバーン子爵が南部貴族領軍を率いて東アストゥリアス城塞の防衛に当たっております。ただ、これはあくまでいざという時には後詰めが来ることを想定して、必要最小限、といった兵となります」
アーノルドが現状についての意識を共有する。
「つまり、いくらかの兵を置いていかないと駄目、ということですね」
「ええ、具体的には五千ほど置いていきたいところです。更に、旧タウンシェンド侯爵領の治安維持もあります。こちらは内務省の暫定統治要員がやってくればどうにかなりますが……」
「その点については、一応ユート卿に報告しておかねばならないことがあります」
アーノルドの言葉を遮って、シーランド侯爵が報告を始めた。
「焼け落ちた領主屋敷の片付けをしていたのですが、残念ながら前タウンシェンド侯爵の遺体は発見できませんでした」
これはこれで大問題だ。
「それは、見つからなかった、ということですか?」
「いえ……生前の自害したらしい焼死体がいくつも発見されたのですが、酷く焼け焦げておりまして……」
「区別がつかなった、ということですね……」
前タウンシェンド侯爵が生き延びているという確証があったわけではないので、より難しい対応を迫られることになる。
これで旧タウンシェンド侯爵領の叛乱は鎮定を終えた、としてもいいが、そうした報告を上げた後で実は前タウンシェンド侯爵が生きていた、となれば恥晒しもいいところだ。
しかもそれはユートの恥だけではなく、アリス女王の恥であり、ひいては国王の権威にすら傷がついてしまう問題となる。
「シーランド侯爵、先代クリフォード侯爵、こういう城って抜け穴はあるんですか?」
「うちはないですね。私が知らないんですから、確実に」
「本来は存在すら秘密なのだが、ここのメンバーならば大丈夫だろう。クリフォード城には抜け穴は存在している。まあ最終防衛線となる予定もある城だから当然だ」
シーランド城とクリフォード城の違いは、戦渦に巻き込まれる可能性がどの程度あるか、ということらしい。
それならば、クリフォード城と同じ立場のタウンジェント城もあってしかるべきと考えるべきか――
ユートは逡巡したが、まだ鎮定完了の報告は上げないことにする。
本来ならばその報告を以て、ローランド王国との交渉を始める予定だったが、現状、第一軍が敗れたのならばそうした予定も変更しなければならないだろうし、報告を上げるメリットが薄いと判断したのだ。
「わかりました。では、シーランド侯爵さんは北方軍を率いて旧タウンシェンド侯爵領の鎮撫と東アストゥリアス城塞の防衛をお願い出来ますか? もちろん、前タウンシェンド侯爵は生きているものと想定して、その追捕も」
「……わかりました。いささか不本意ですが、やむを得ないでしょう」
不本意というのは、この緊急事態の中で、主戦場である南西部への転進をせず、ここで二線級の任務にあたる、ということか、それとも前タウンシェンド侯爵を取り逃し、九仞の功を一簣に虧く結果に終わったことか――
「それと、北方軍から一部部隊を抽出して頂けませんか? もし第一軍が敗れているという事態があるならば、一人でも多くの兵を連れて行きたいのですが……」
「わかりました。可能な限りの兵を抽出しましょう。ところで、東部貴族領軍ですが、あれを編入して頂けませんか?」
東部貴族領軍は現在のところ、関の片付けをしている。
ユートたちとともにタウンジェント城に来てもよかったのだが、そうすると捕虜を連れ、強行軍に慣れていない東部貴族領軍を連れることになるので、行軍速度が落ちる。
それを嫌って、ユートはハルにあとを任せて、ともかくエーデルシュタイン伯爵領軍だけでタウンジェント城へ帰還したのだ。
「彼らを加えれば、少しでも多く北方軍から抽出できます。サマセット伯爵領軍以外は一線級の任務には堪えませんが、警備任務ならば十分に務まるはずです」
もともと貴族領軍は警備が主任務だから、多少過酷とはいえ、旧タウンシェンド侯爵領の警備も出来るだろう。
いざという時には北方軍の残置部隊が出張ればいいのだから、どうにかなるとシーランド侯爵は踏んでいるようだった。
「では東部貴族領軍と南部貴族領軍、それに北方軍残置部隊を合わせてシーランド兵団とし、旧タウンシェンド侯爵領の防衛及び治安維持、前タウンシェンド侯爵の捜索に当たるものとします」
「わかりました。東部貴族領軍はいつ頃到着しますか?」
「二日後から三日後でしょうか……」
「では、それまでに部隊の抽出を完了します」
シーランド侯爵はそう請け負ってくれた。
その後の二日間、強行軍を行ったエーデルシュタイン伯爵領軍は休養を取り、他の各隊は出撃に備えて用意することになる。
また、後方に伝令を送って補給廠の移転も必要となるので、ユートはやはり眠れなかった。
しかし、準備は急速に完成させることが出来、東部貴族領軍が到着すると同時に動き始めることとなった。
奇しくも第一軍が敗北した七月十五日から一ヶ月後の八月十五日、ユートたち第三軍主力は西へと向かい始めた。




