第201話 蜂蜜酒に酔いたくて
「ひやりとしましたよ」
司令部に駆けつけるなり、シーランド侯爵がそう言った。
シーランド侯爵の位置からはユートの司令部が襲われるのがかろうじて見えていたらしく、自ら戦闘中の騎兵二個大隊を率いて司令部の掩護に駆けつけようとしてくれたらしかった。
残念ながら、それは間に合うことはなかったが、その心遣いは何よりも嬉しいものだった。
「アーノルドと先代クリフォード侯爵も無事で何より」
「危ういところはあったが、どうにか抑えられた」
「正直、二度とごめんだ」
アーノルドと先代クリフォード侯爵も四十年来の友人ということもあって、思わず本音が漏れる。
だが、それを笑い飛ばせるのも、勝ったからだ。
「まあ勝てたし、よしとするわよ!」
エリアのその言葉が全てを物語っていた。
司令部が旧タウンシェンド侯爵領軍に襲われたことで、追撃は早々に打ちきりとなった。
もっとも、ローランド王国軍も南部貴族領軍もゲルハルト、アルトゥルという猛将二人の猛攻によって大損害を受けており、策源地の遠いローランド王国軍、策源地を失っている南部貴族領軍の再建はまず不可能と言っていい状況だろう。
つまり、ユートの司令部を襲撃し、そしてかろうじて撤退していった前タウンシェンド侯爵率いる旧タウンシェンド侯爵領軍と、恐らく旧タウンシェンド侯爵領にわずかに残っている留守部隊が最後の敵、ということだろう。
「もう、後はタウンジェント城に籠城するしかないニャ」
「そうね。問題はそれをどうやって攻略するか、ですな」
レオナの言葉に、アーノルドが頷く。
一般論として考えれば援軍のあてのない籠城戦など、士気が下がる一方であり、戦わずして籠城軍が自壊することも多い。
しかし、今回の場合は少し様相が違っている。
前タウンシェンド侯爵やそれに従う貴族たちにとってはもう後がない上に、降伏しても処刑されるだけの戦いだ。
そして、彼らに従う兵たちも、いずれもとうの昔に決死の覚悟をして故郷すら捨てている兵たちだ。
ローランド王国軍の兵にしても、御国の為に、と最後まで戦うだろう。
そう考えれば、タウンジェント城の攻略は一筋縄ではいかないだろう、と暗澹たる気持ちにさせるものだった。
「ねえ、それは後でも良くない? 今はさ、勝利を喜びましょうよ。司令部が襲撃されたからって、幹部がみんな暗い顔してたら、兵の士気に響くわ」
「それもそうですな」
「どこか休めるところは?」
「近くにソロイという街がありますな。ちょうど旧タウンシェンド侯爵領とレノックス伯爵領の境目に近く、その交易で栄えている街です。ですから、軍勢を収容しきれるかと」
アーノルドの言葉に、ユートは頷いた。
もちろん旧タウンシェンド侯爵領軍なりがそこで再編している可能性もあるが、それならばそれで、もう一戦やって止めを刺してもいい。
意図していたかはわからないが、事実上の囮となったローランド王国軍と南部貴族領軍の損害は大きく、仮に旧タウンシェンド侯爵領軍だけならば籠城戦ならばともかく野戦ならば遅れは取らないだろう。
そのソロイの市壁を盾に籠城されても、ローランド王国の侵攻に備えて築かれたノーザンブリア王国有数の城塞であるタウンジェント城に比べればよっぽど与しやすい。
そうしたことを考えれば、もしソロイの街で会敵できれば千載一遇の好機とすら言える。
だからこそ、ユートは急ぎ部隊を進発させた。
もちろんのことだが、旧タウンシェンド侯爵領軍はソロイの街にはいなかった。
のんびりしていて、第三軍に捕捉されるほど前タウンシェンド侯爵も無能ではないとは想像していたので、ユートにも落胆はない。
「それにしても、嫌になるわね」
馬上から、エリアが馬を寄せてきて小声でそう言った。
視線がちらり、と廃屋のようになっている家を指す。
「ああ」
その廃屋には、もちろんだが人が住んでいるのだ。
「どうしてこうなったのかしら?」
「大方略奪されたんじゃないのか?」
「やっぱりそうなのかしら? でも旧タウンシェンド侯爵領の重要な街なんでしょ? それを旧タウンシェンド侯爵領軍なりが略奪するの?」
言われてみれば、とユートも少し考え込む。
「どっちにしても、うちの部隊には絶対に略奪なんかさせないようにしないと、ね」
わからないことは後で調べればいいし、ともかく今優先するべきことは軍紀の引き締めだ、とエリアは頭を切り換えたらしかった。
「さあ、飲むわよ」
司令部公邸として接収した、街の庁舎でエリアは張り切っていた。
さっきまで軍紀の引き締めが、と考えていた人物とは別人だ。
もちろん部下の兵たちも当直任務に当たっている部隊以外は酒保開きが命じられているので、エリアが飲んでも構わないと言えば構わないのだが、それでも台無しだ、とユートは苦笑いが顔に出る。
「お前の軍紀を引き締めるのが先だ」
「何言ってるのよ。戦勝なんだし飲みましょうよ!」
「そうしてまたアーノルドさんに仕事押しつける気だろ。いつもお前が酒盛りしてる間、アーノルドさんが一人で副官業務やってるんだぞ?」
「あんただって一緒に飲んでるから共犯よ、共犯!」
「お前に飲まされているだけだ」
司令官と副官の激論――余りにも締まらない激論に、アーノルドが苦笑いをしている。
「ユート様、私のことはお気になさらず。そもそも戦陣では願を掛けて飲まないようにしておりますし、それならばお二人やゲルハルト殿、レオナ殿で楽しまれればよいかと」
「ありがとう! 明日のアーノルドさんの分はあたしが引き受けるわ」
エリアが朗らかに礼を言って、いつものように酒保に行こうとした時、レオナが入ってきた。
「エリア、こいつを飲むニャ」
「これ、何よ?
レオナが渡したのは、一抱えはある瓶だった。
「うちの連中で今日うっかり飲んでた奴らから没収したニャ。中身は蜂蜜酒――しかも大森林産の上物の蜂蜜を使った奴だニャ」
蜂蜜酒とは、蜂蜜を水で薄めて発酵させたやや原始的な酒で、ノーザンブリア王国では作られていないが、大森林ではまだ作られていたらしい。
「変わったお酒よね。なんでもいいけど」
「蜂蜜さえあれば輜重の持っているイーストと水だけで出来るから大森林の戦士はよく自分で作るニャ。こいつを作った奴はなかなかいい作り手みたいだニャ」
「へー、面白いわね。よし、今日は酒保でユートの名前出さなくてもいいみたいだし、さっそく飲みましょう!」
「ちょっと待て、今までエリアの名前じゃなくて俺の名前で葡萄酒持ち出してたのかよ!」
「当たり前じゃない。司令部副官が葡萄酒下さいって言うより、司令官用の葡萄酒探してるんですけど、って言った方が酒保の人もいい葡萄酒を出してくれるわ。酒飲みの知恵よ」
「そんな悪知恵はいらん!」
ユートの言葉はどこ吹く風でエリアは司令部の備品である什器類を出すと、私室へと向かった。
「ユート様もどうぞ。というよりも、ユート様は今は休息中ですので、私に気兼ねなく」
「すいません、アーノルドさん、よろしくお願いします」
居心地悪そうにエリアを追おうかどうしようか悩んでいるユートに、アーノルドはそう笑いかけ、ユートは頭を下げて私室へと戻っていった。
「そういえばエリア、今日街でやたらに廃屋が多かったニャ」
「人は住んでるみたいだから、廃屋ってのも失礼だけど、そうよね」
「ああ――あれやっぱり人が住んでるんだニャ」
「何軒かから人が出てくるのを見たわ」
「略奪されたのかニャ?」
「ユートとも言ってたんだけど、ただ旧タウンシェンド侯爵領軍や南部貴族領軍が旧タウンシェンド侯爵領の街で略奪ってのも変じゃない?」
蜂蜜酒を片手に、なぜかそんな話し合いをする羽目になっている。
「そういえばこの戦争が終わったら今度は南部の復興が待ってるんだよな……」
「そうね。王国の財政はどうなるのかしら」
エリアはそう笑ったが、実際には笑い事ではない。
ユートがあちこちから聞いている限りでは、既に王国の財政はかなり赤字が嵩んでいるという。
そこに南部の復興予算などかかるようになれば、本格的に破綻するかもしれない。
だからといって、手柄を立てた貴族に与えようにもいくら大領とはいえボロボロになった旧タウンシェンド侯爵領など、どこの貴族も御免蒙りたいところだ。
「ユートにお鉢が回ってくるのかしら?」
「それはないと思うけどなぁ……西方で恩賜ノーザンブリア冒険者ギルドをやっているわけだろ? そこに南部の南端にある旧タウンシェンド侯爵領を渡したら、冒険者ギルドが死んでしまうからなぁ」
ユートはあり得ない、と首を横に振る。
「西方もまだ復興したわけじゃないものね」
ポロロッカから既に六年が経過したとはいえ、まだまだ復興は道なかば、といったところだ。
特に魔の森から近いあたりは村の復興が出来ないうちに魔の森に飲まれてしまったところも多い。
例えばセラ自警団の団長を務めているアルバの故郷であるセラ村などはその典型だし、その分、レビデムやエレルといった都市が必要とする麦が足りず、未だに王国東部からの輸入に頼っている状況があった。
「輸入が続いてるのは冒険者ギルド的には有り難いんだけどね」
物が動く度に隊商が組まれ、護衛が必要とされて、冒険者ギルドが儲かる、という構図だ。
とはいえ、南部――特に南東部の貴族領も戦乱でぼろぼろになり、そこへの救恤策までが必要となれば、麦の値段が高騰する可能性がもの凄く高くなる。
「母さんとか困るだろうなぁ……」
「いや、お前の副官としての給料を送ればいいだろ? というか、冒険者ギルドの幹部なんだから、そっちの給料もあるし」
「ちょっとお酒減らさないと駄目かしら……」
まさか給料全部、酒に消えているのか、と思ったが、ユートはそれ以上は何も言わない。
婚約者ではあるのだが、それでも自分の給料の使い道くらいは自分で決めていいと思っているからだ。
「それより、もしかして廃屋同然になっているのって旧タウンシェンド侯爵領全体の物価が高騰しているからかニャ?」
「ああ、戦争でそういうこともありえるわね」
「だとすると、宣撫工作も必要かニャ?」
宣撫工作とは要するに生活必需品――食糧などを配布することで、占領地の民衆を味方につけようという工作のことだ。
よっぽど前の領主がいい領主であった場合以外、だいたいは宣撫工作で物をばらまけば大衆は味方をしてくれるし、逆に食糧やらが不足している地域でこれをやらなければ暴動が起きる可能性もある。
「暴動起きたらたまったもんじゃないニャ。アーノルドに相談して、補給廠の輜重段列が到着し次第、始めることも考えた方がいいニャ」
レオナの言葉に、ユートもエリアも頷いていた。
宴会が終わった後、ユートは司令官公室に顔を出してアーノルドに宣撫工作の話をすると、アーノルドも至急調査します、と言って動き始めてくれた。
自分は散々飲んでおいて、アーノルドの仕事だけを増やしたあたり、すこしだけ罪悪感があったが、必要なのだからしょうがない、と割り切ることにする。
「これはユート卿」
公室を出て私室に戻ろうとしていると、司令部にやってきたらしいシーランド侯爵がいた。
「あ、シーランド侯爵」
「アーノルドが飛び出して行きましたが、何かありましたか?」
「いえ、宣撫工作を少しお願いしたので」
「確かに街は荒れていましたね」
シーランド侯爵も街が荒れていることは気になっていたようだ。
「長くこの地域で戦っていたのでわかるのですが、南東部の貴族領はどこも荒れてきていますね。特に大きな問題が通貨です」
「通貨?」
「ええ、今南東部で流通している通貨は三種類あります」
シーランド侯爵の言葉にユートは目を見開いた。
「えっと、一種類はノーザンブリア王国の貨幣ですよね?」
「ええ、それとは別に前タウンシェンド侯爵が発行した貨幣――トリスタン貨幣とでも言いましょうか。これが流通しております。また、あくまで地下の話なのですが、ローランド王国の貨幣も流通しているようです」
おいおい、と思ったが、よく考えれば叛乱後にノーザンブリア王国と断絶した以上、取引が一番多いのはローランド王国なのだからローランド貨幣が入ってくるのも理解は出来る。
「前タウンシェンド侯爵はトリスタン貨幣を使わせたかったようですが、残念ながら……」
「信用が足りなかった、と」
「そういうことです。で、ローランド貨幣がこっそり使われたり、ノーザンブリア貨幣が公然と使われたりしているようです。まあ、このあたりは前タウンシェンド侯爵が貨幣についてどのような政策をとっていたのかはっきりしないところもあるのですが……」
つまり、どの貨幣を流通させていたのか、ということだろう。
「そして、最大の問題――これはここ数ヶ月、叛乱軍に与した南部貴族の領地を南下しているうちに気付いたのですが、この三つの貨幣には交換レートが存在しません。厳密にはノーザンブリア貨幣とトリスタン貨幣には一方通行――前タウンシェンド侯爵がトリスタン貨幣を発行した時に出した公式レートがありますが、これは実勢からかけ離れているように思います」
シーランド侯爵の深刻そうな顔にユートも顔がひきつるのがわかった。
まともな交換レートが存在していないにも関わらず三種類の貨幣が利用されているということは、流通は破綻しているに違いなかった。
「ローランド貨幣とノーザンブリア貨幣は……」
「それも、地下でやりとりはされていますが、地下市場によって全くレートが違う、という報告もあります。それと、前タウンシェンド侯爵は軍票も発行しているようですが、これも前タウンシェンド侯爵がこのまま滅べば……」
軍票とは簡単に言えば軍がその信用で行う借用書、とでも考えればいい。
敵地を占領して貨幣の切り替えが伴った場合、当然ながら支払に充てる正貨が足りなかったり、流通量が少なく物価が混乱する可能性があるので、軍がその信用によって貨幣の代用となる軍票を発行する。
だが、発行元の軍が破れてしまえば、それは紙切れとなってしまうのだ。
「そういえばソロイは旧タウンシェンド侯爵領とレノックス伯爵領の間を取り持つ流通の街でしたね」
流通の街が、流通の基礎である貨幣制度が崩壊すればどうなるのか。
その結果があの廃屋と見間違える家の群れなのだろう。
ユートは強い頭痛を覚えた。




