第200話 トリスタンの意地・後編
きん、きん、きん、と澄んだ剣戟の音が響き渡る。
背を向けて逃げるユートを襲おうとした前タウンシェンド侯爵と、ユートの間にエリアが割って入ったのだ。
「なんだ、この女は!?」
前タウンシェンド侯爵は困惑の声を上げる。
女だてらに戦場に身を投じている時点で、冒険者を動員するという概念のない前タウンシェンド侯爵からすれば意外すぎるのだろう。
その上、その女が平然と前タウンシェンド侯爵と打ち合っている、という事実に驚愕もしている、というのは容易に想像がついた。
前タウンシェンド侯爵トリスタンは軍人としての経歴はない。
これは、前タウンシェンド侯爵の能力が劣るのではなく、前タウンシェンド侯爵父親である先代タウンシェンド侯爵アイザックが、前内務卿など王国政界において枢要の地位を占めていたことが理由である。
領地のある貴族家の当主が軍人あるいは官吏として王国に奉職する、ということは、当然ながらその間は領地を留守にする、ということである。
当然ながら留守の当主に代わって領地を差配する者が必要になるわけであり、一般的にこうした役目は嫡男が負っていることが多い。
重臣たちを代官にする、という手もあることはあるのだが、旧タウンシェンド侯爵家ほど大きな貴族家になれば、余りにも権力が大きすぎていくら譜代の重臣と言えども信用しきれない。
まして親族に任せるなどしてしまえば、お家を乗っ取られかねないのは、長いノーザンブリア王国の歴史をひもとけば実例は数多くあるものである。
で、あるから前タウンシェンド侯爵は、先代タウンシェンド侯爵アイザックが王都シャルヘンに詰める時、領地の差配のために旧タウンシェンド侯爵領から動けず、軍人としても官吏としても一切の経歴を持っていない。
しかし、大貴族の当主――特にローランド王国との境目を守るタウンシェンド侯爵家の当主としては、王立大学を出るくらいの統治能力も、王立士官学校を卒業するくらいの指揮能力も求められる。
だから、彼は父親が華々しくノーザンブリア王国の枢要の地位で活躍し、また年齢的に少し上なだけの先代クリフォード侯爵が軍人として活躍するのを横目に見ながら、タウンシェンド侯爵領でその腕を磨いていたのだ。
にも関わらず、“小娘”にその剣を防がれている、という事実は前タウンシェンド侯爵にとって屈辱的なものだった。
これが先代クリフォード侯爵に弾かれたならば、前タウンシェンド侯爵は諦められただろう。
先代クリフォード侯爵は王国軍においては優秀な騎兵指揮官であり、また同じ南部貴族の雄クリフォード侯爵家の当主だった男だ。
あるいはアーノルドだったとしても平民出とはいえ、先代クリフォード侯爵をも凌ぐ王国軍最良の騎兵指揮官と歌われた男だけに前タウンシェンド侯爵はここまで思わなかっただろう。
しかし、弾いたのは“小娘”だった。
「懸かれ!」
いささか冷静さを欠いたまま、前タウンシェンド侯爵は突撃を命じる。
「前タウンシェンド侯爵が来るぞ! 魔法を用意しろ!」
先代クリフォード侯爵が柵内から冒険者の指揮を執る。
「エリア、下がるぞ!」
「わかってる! けど!」
前タウンシェンド侯爵は勇敢にもエリアと切り結びながら、部下たちを統率して柵へと迫る。
「おい、ユート卿! とっとと下がれ! 貴様らがそこにいたら魔法が撃てん!」
先代クリフォード侯爵が怒鳴りつけるが、ユートはともかくエリアはうかつに退こうとすれば前タウンシェンド侯爵に致命的な一撃をもらってしまうだろう。
いくら男と同じくらい戦えるとはいえ、それはあくまで冒険者基準の話であり、剣技でいえばエリアより上の前タウンシェンド侯爵の剣をあしらうように防ぐことは出来ない。
「私が代わりに出る! アーノルド、貴様は大隊の指揮を頼む!」
たまらず指揮権をまるで投げ渡すようにアーノルドに任せて、先代クリフォード侯爵が再び柵外へ飛び出してくる。
「エリア殿、下がられよ! あやつは私が相手をする! ユート卿、エリア殿を助けろ!」
「先代クリフォード侯爵、貴様は二度までも阻むか!?」
「貴様のような南部貴族の面汚しを、東部貴族に討たれては南部貴族の恥だ。私が相手をしてやろうというのだ」
そう言いながら先代クリフォード侯爵は再び剣を振りかざす。
炎がほとばしり、後ろに迫る旧タウンシェンド侯爵領軍の幾人かを呑み込む――
「ふん、さっきほどの威力ではないな」
マントを盾にしながら様子見していたらしい前タウンシェンド侯爵が嘯くように言った。
「ちっ……」
先代クリフォード侯爵は短く舌打ちしながら、前タウンシェンド侯爵に斬り掛かる。
「なんの!」
再び、剣戟の音が支配する。
「エリア、大丈夫か?」
「薄手よ!」
ようやく柵内に引き上げたエリアを見ると、あちこちに小さな傷を作っている。
「火治癒」
「あたしを治すより、先代クリフォード侯爵を早く助けないと!」
「大丈夫ですぞ」
言い合っているユートとエリアの横合いからアーノルドがそう笑いかけた。
「先代クリフォード侯爵はすぐに退くつもりです」
「え、でもさっきは南部貴族の恥晒しは俺が討つ、みたいなことを……」
「先代クリフォード侯爵がああやって安い挑発をするときは、本心から思っていないときです。それに先代クリフォード侯爵の剣技は私以上――前タウンシェンド侯爵ごときに遅れなどとりません」
同期生同士の交感、という奴なのか、先代クリフォード侯爵のやろうとすることはアーノルドにはわかるらしかった。
「その通りだ!」
声に振り返ると、見ると先代クリフォード侯爵が柵のすぐ手前まで引き上げてきている。
「アーノルド!」
「ああ、わかっている」
先代クリフォード侯爵の声に呼応するように、静かに、しかし力強くアーノルドが答えた。
「魔法を――ああ、出来れば水球か、飛水を中心に――構え――――撃ち方、始め!」
アーノルドの号令一下、エーデルシュタイン伯爵領軍猟兵大隊が口火を切った。
捜索大隊や突撃大隊に比べれば、魔法使いの数は四分の一程度――しかし、ほぼ土魔法で、たまに水魔法や風魔法を使える魔法使いがいる程度の両大隊に比べて、猟兵大隊の魔法は多彩だった。
火球が、風斬が、土弾が、水球が飛ぶ。
その中でも、特にアーノルドが混ぜろと命じた、飛水の魔法が飛び交って、水浸しとなり、氷漬けとなる。
旧タウンシェンド侯爵領軍の先頭の方はまだよかっただろう。
彼らが上るのは、多少踏み荒らされたとはいえ普通の丘だ。
しかし、後ろから駆け上がってくる旧タウンシェンド侯爵領軍の兵は、後ろになればなるほど、人馬に踏み荒らされた丘を駆け上がることになる。
そして、そこに飛水を食らえば、当然ながら足元は泥濘と化した。
「矢を放ちなさい!」
エリアの命令が飛ぶ。
本来ならば第三軍司令部付副官という立場であり、大隊長である先代クリフォード侯爵から指揮権を継承されたわけではないエリアは、命令する立場にはなかった。
しかし、恩賜ノーザンブリア冒険者ギルドの創設メンバーであり、かつ冒険者の中でも知る者の多いエリアの命令を無視することなど出来はしない。
冒険者たちのうち、弓を持つ者は次々と矢を放った。
魔力が尽きた魔法使いたちも弓を持っている者は多い。
阿鼻叫喚の地獄である。
足元は泥濘んでまともに進めない中、次々と魔法が降り注ぎ、それが減ったと思えば矢が飛んでくる。
「これで、前タウンシェンド侯爵も諦めるだろう」
へたりこむようにしながら、先代クリフォード侯爵がそう呟いた。
「どうしたんですか?」
「私の火炎剣はな、魔道具なのだよ」
だからどうした、とユートとエリアは顔を見合わせた。
「ユート卿、貴様は魔道具職人でもあると聞いたが……この火炎剣はどんなものかわからんのかな?」
「えっと……」
そこではたと気付いた。
「それって、魔石のない魔道具ってことですか?」
「ああ、そういうことだ。魔石の代わりに、私の魔力を使って火炎剣となるのだ。しかし、法兵教育を受けているわけではない私の魔力など、たかがしれている」
つまりは魔力切れ、ということだ。
「先代クリフォード侯爵、エリアを助けにその状態で飛び出したんですか?」
「当たり前だろう。あそこでエリア殿が引くまで貴様は絶対に引かないだろうし、エリア殿に前タウンシェンド侯爵を振り切るだけの技量はない。となれば、私が出るしかあるまい」
ユートはなんと言っていいかわからず、頭を下げて感謝の意を示そうとした時、ちっ、という舌打ちが聞こえた。
「……前タウンシェンド侯爵の奴、諦めが悪いにもほどがあるぜ」
振り返ると、前タウンシェンド侯爵率いる旧タウンシェンド侯爵領軍が柵前まで迫っている。
「総員、抜剣! 我が白兵の優越を確信し、敵を圧倒せよ!」
アーノルドが白兵戦を命じる声が響く。
「魔法使いと弓使いは下がりなさい!」
冒険者であるから、白兵戦が出来ない魔法使いや弓使いはいない。
しかし、白兵戦が得意なのは、当然ながら剣や鑓を持っている連中だ。
無為に消耗させることは避けたい、とエリアが魔法使いと弓使いを下げた時、旧タウンシェンド侯爵領軍とエーデルシュタイン伯爵領軍猟兵大隊の白兵戦が始まった。
ユートにしろエリアにしろ、多少の苦戦はあるにしろ、猟兵大隊が勝つと信じていた。
いずれも命を的に西方の魔の森で狩人として、あるいは西方の街道で護衛として戦ってきた強者ばかりであり、更に言えば数でも圧倒しているはずだったからだ。
それがここまで徹底的にやられた旧タウンシェンド侯爵領軍に負けるとは微塵も思わないのは当然だった。
だが、白兵戦は意外なことに猟兵大隊が受け身に回っていた。
この理由としては、猟兵大隊は魔法使いと弓使いを下げた結果、六百人くらいしか白兵戦要員はいなかったことも大きな理由だった。
旧タウンシェンド侯爵領軍は後続が泥濘と魔法でやられているとはいえ、それでも先頭に立って無事に駆け上がってきたのは四百人くらいがいた。
その二百人ばかりの数的優勢は先頭に立つ前タウンシェンド侯爵の気迫、そして兵たちの死をも恐れぬ勇猛振りにあっさり覆されたのだ。
つまるところ、猟兵大隊は極めて攻勢向きの兵種であり、それを拠点防衛に当てたという失策と、死兵であった旧タウンシェンド侯爵領軍の精神力が劣勢を覆しつつあった、ということだった。
「エーデルシュタイン伯爵、覚悟!」
とうとう柵内へと侵入した前タウンシェンド侯爵が、ユートに迫る。
ユートも愛剣を抜き放ち、一合、二合と切り結ぶ。
激しい剣勢の前に必死になって防ごうとするが、火花が散り、少しでも油断すれば剣を失いそうになる。
「ユート!」
エリアが横合いから加勢しようとする。
大隊の指揮はアーノルドがどうにかしてくれるだろう――というよりもこの乱戦で指揮など執ってられないかもしれないが。
「卑怯な!」
一騎打ちを邪魔されて前タウンシェンド侯爵が激昂するが、意にも介さない。
「堂々と名乗り合ってもいない戦いで一騎打ちと思い込むとはな」
ユートの傍で、せめてこのくらいは、と他の旧タウンシェンド侯爵領軍の兵を排除している先代クリフォード侯爵があざけるように言った。
煽るような先代クリフォード侯爵の言葉は恐らく少しでも前タウンシェンド侯爵が冷静さを失うように、という先代クリフォード侯爵の掩護射撃なのだろう。
ユートは薄く笑って剣を叩きつける。
だが、全体を通せばエーデルシュタイン伯爵領軍猟兵大隊が圧倒されているというのは事実だった。
ユートの傍にも次第に旧タウンシェンド侯爵領軍が増えてきており、魔力切れで苦しい戦いが強いられている先代クリフォード侯爵がなかなか排除できなくなる局面も増える。
そして、周囲に気を遣えば遣うほど、前タウンシェンド侯爵とユートの戦いもまた前タウンシェンド侯爵に傾いていくのがわかった。
まずいな。
ユートがそう内心で毒づいた時だった。
「ユート! 助けにきたニャ!」
不意に懐かしい――なぜか懐かしく感じた声が響いた。
「お前たち、さっきの失態を父ちゃんに知られたくなかったら突撃するニャ!」
その号令とともに、妖虎族が死に物狂いで突進してくる。
それを見て、目の前の前タウンシェンド侯爵が天を仰いだ。
あからさまな隙に、ユートもエリアもどうしようもなく呆然としてしまった。
「これ以上は無理か! 下がるぞ!」
前タウンシェンド侯爵がそう怒鳴った。
ついに長蛇を逸す――悔しげな表情で、ユートを睨みつけながら下がる前タウンシェンド侯爵の顔が、ユートの眼に焼き付いていた。




