第187話 第三軍の戦場
「ユート君、よく来てくれました」
三月下旬になってシルボーに到着したのを出迎えてくれたのはウェルズリー伯爵だった。
青白い顔で、目の下に隈を作り、頬はげっそりと痩けている。
「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと食欲がないだけですよ」
ウェルズリー伯爵はそう言っていたが、どう見てもちょっと風邪を引いた、などというやつれ方ではない。
最前線の野戦司令官というものはかくも過酷なものなのか、とユートは思った。
「その最前線は――ウェルズリー伯爵がここにいて大丈夫なんですか?」
「ああ、最前線はフェラーズ伯爵に任せていますよ。ユート君が来ると聞いて、今後の打ち合わせのためにもシルボーまで戻ってきたのですよ」
「なんだ、フェラーズ伯爵に全部押しつけてきたのかと思ったぞ?」
その声にウェルズリー伯爵はぎょっとしたような顔になる。
「先代クリフォード侯爵!?」
「そうだ」
「なぜ先代クリフォード侯爵がここにいるのですか?」
「そこにいる恩賜ノーザンブリア冒険者ギルド総裁閣下に冒険者として徴用されたからだ」
そう言いながら、目を白黒させているウェルズリー伯爵を見て、奇襲成功とばかりに先代クリフォード侯爵がにやりと笑う。
その笑顔を見ながら、ユートにはなぜこの先代クリフォード侯爵がウェルズリー伯爵と友人でいられるかわかった気がした。
「え、冒険者、ですか? 先代クリフォード侯爵は今冒険者をしているのですか?」
「そうだ。クリフォード侯爵家にいてもロドニーの迷惑になるだけだからな。隠居したことで謹慎を解かれたとはいえ、勅勘を蒙った先代が表に出るのはいささか問題があるだろうし、俺がいるだけで家臣団は俺とロドニーを比較するだろうからな」
ロドニーも人として決して悪い人物ではないが、こと軍人としての才能は致命的にないと言っていいというのがユートの周囲でのロドニーの評価だった。
もっともアドリアンのあたりは優れた軍人とはウェルズリー伯爵みたいに人を食った奴のことだ、と言い切っていたが。
「まあそれはわからないでもないですが……」
「なかなか冒険者というものも面白いぞ。家宝の火炎剣がこんな優れた剣とは思わなかった」
「アレを持ち出してるんですか……」
火炎剣とは先代クリフォード侯爵の愛剣であり、六百年前にまだノーザンブリア家の家臣に過ぎなかった初代クリフォード侯爵が自在に操ってノーザンブリア家を王位に押し上げたという伝説の剣だった。
そんな重代の家宝を先代当主とはいえ持ち出している先代クリフォード侯爵にウェルズリー伯爵が呆れたような顔をする。
「ロドニーは剣をまともに使えんし、俺が有効活用してやるさ」
「なんというか……クリフォード侯爵家の方々にお悔やみを申し上げます」
ウェルズリー伯爵が芝居がかったお悔やみの表情を見せた後、二人は大笑する。
「それで、ですね。ユート君。君たちの任務ですが、その前に一つ確認しておきたいことがあります」
旧交を深めたウェルズリー伯爵が一つ咳払いをして話し始める。
「ユート君、君はこの戦争をどう終わらせようと考えていますか?」
そう、それは聖ピーター伯爵に聞かれたのと同じことだった。
ウェルズリー伯爵もまた落としどころを探っているのだろう。
「旧タウンシェンド侯爵領の制圧、前タウンシェンド侯爵の身柄拘束、この二つと思います」
「うん、上出来です。その二つは最低限必要でしょう。我が国が我が国としてあるために」
「実はそのことについては聖ピーター伯爵――首席枢機卿座下が、旧タウンシェンド侯爵領の制圧とともに女王陛下に進言してくれるそうです」
「それは重畳――君も随分と政治的に動けるようになりましたね」
ウェルズリー伯爵はそう言いながら無邪気な笑顔を見せる。
実際にはアンドレス絡みのことで聖ピーター伯爵から来てくれたということもあって、ほぼ運がよかっただけなのだが、それは黙っていることにする。
「その為には、まあ旧タウンシェンド侯爵領を制圧しなければならないわけです。今はシーランド侯爵の北方軍がそちらを担当していますが、はっきりと言えば苦戦しています」
「その話は軍務省経由で聞いています。なんでも長雨の泥濘の中で戦う羽目になった、とか?」
「その通りです。そうなるとどうしても重装備の騎兵や戦列歩兵は戦いづらい……というより戦えません」
それは当然だ。
ちょっとしたダートならばともかく、そこここが沼のような泥濘となっていれば騎兵などどこで馬が脚を取られるかわからず突撃出来るわけがないし、無理を押して突撃して脚を取られる馬が一頭でも出れば悌団は大混乱する。
戦列歩兵にしても著しく機動力を減殺され、法兵になぶり殺しにされるのが目に見えていた。
「そこで、君たちです。猟兵部隊は基本的には軽歩兵ですし、何よりも山岳戦や森林戦を苦にしませんから、平野部が泥濘もうが関係なく戦えませんか?」
「うーん、出来ないことはないと思うんですが……」
そう、猟兵部隊――つまりエーデルシュタイン伯爵領軍と北方大森林から来たアルトゥル支隊、そして西方軍だけならば出来る。
だが、猟兵としての訓練を受けていないどころか練度も王国軍に比べれば怪しい東部貴族領軍や、近衛装甲騎兵には無理だろう。
特に近衛装甲騎兵中隊は神銀の鎧という重装備であるので山岳突破、森林突破はまず不可能だし、泥濘でいいように脚を取られて狩られる姿しか見えない。
「近衛装甲騎兵は絶対無理でしょう。東部貴族領軍も……」
「ああ、そういえば近衛装甲騎兵が加わっていましたね……これは厄介です」
「え、ウェルズリー伯爵の指揮下に置いてったら駄目なんですか?」
「近衛は王家の兵、国軍は王国の兵です。あれはユート君が主君たる陛下から預けられた兵であり、勝手に人に指揮権を渡していいようなものではないのです」
全くややこしい話だが、しょうがない。
「アーネスト前宮内卿の指揮下に入ってもらうのは?」
「それが現実的なのですが、アーネスト前宮内卿は今、南方の最前線にいます。近衛装甲騎兵など、攻城戦には最も不向きな兵種を彼に与えても迷惑にしかならないんですよね」
近衛装甲騎兵の本領は野戦において、最前線で敵の打撃に耐えながらの魔法攻撃となる。
神銀の装甲は多少の矢や剣ではどうこうすることは出来ず、魔法攻撃も無意味であるから、いわば前線のトーチカのような役割を果たすのだ。
しかし、攻城戦になれば攻める側も守る側も備え付けのバリスタや投石機を有しており、こうした武器を前にしてはいかに神銀の装甲が堅くとも中の人がもたない。
「まあ敵が打って出た時の備えとして使いましょうか。近衛装甲騎兵はプライドが高いですから、予備戦力扱いで不満を漏らさなければいいのですが……」
軍の中でも王家の兵として高いプライドと地位を有する近衛装甲騎兵が不満を言い出せば、軍内の士気に関わる問題だ。
アーネスト前宮内卿は優秀な指揮官らしいので、そこまで大きな問題にはならないとは思っていたが、ユートにもウェルズリー伯爵にも不安もある。
「やっぱり、兵の士気は下がっていますか?」
「士気が下がっているというか、里心がついていますね。中央軍もこちらに来て長いですし、南部貴族領軍ですらそろそろ帰してくれと言う貴族が少なくありません。国土を侵されているからこそまだ戦う気力は残っていますが、これが侵攻作戦ならば作戦中止となっているでしょう」
「北方軍もそうですかね?」
「ええ、そうだと思います。シーランド侯爵も優れた指揮官ですから、そこまで大きな問題にはならないとは思いますが、ただあちらは敵方である旧タウンシェンド侯爵領軍にこそ、故郷を守る為という士気を高める要因がありますし」
「すると、出来るだけ早く旧タウンシェンド侯爵領を攻略して講和に持っていった方がいい、と?」
「私はそう思います。旧タウンシェンド侯爵領を制圧すれば、今度は南方植民地を取り返せと声高に叫ぶ連中も出てくるでしょうが」
そのあたりはアリス女王や宰相ハントリー伯爵、内務卿サマセット伯爵あたりの活躍してもらうしかない。
ノーザンブリア教会首席枢機卿の聖ピーター伯爵も講和派となればまず間違いなく講和は通るだろう。
無論、ローランド王国側がどう出るかはわからないが、こちらの兵も里心がついている今、ローランド王国側はもっと苦しいはずだから、南方植民地さえ諦めれば講和出来るとユートは見ていた。
「まあともかく、旧タウンシェンド侯爵領戦線への行軍をお願いします」
「わかりました」
ノーザンブリア王国の財政を考えても、これ以上の犠牲を出さない意味でも、早く旧タウンシェンド侯爵領を制圧するのは絶対だ。
ユートはすぐに部隊を再編して動くつもりで立ち上がろうとした。
「では、シーランド侯爵によろしく――ああ、そういえば西方軍と北方軍をあわせた部隊を第三軍と呼称します」
ウェルズリー伯爵はそんな妙なことを言ったので、ユートは訝しげな表情でウェルズリー伯爵の方を見た。
「……確か北方軍って今は第二軍でしたよね?」
そう、総軍編成勅令が出たことにより、戦時体制に移行し、地方軍から野戦軍への改編――貴族領軍と国軍の指揮系統の一本化などが行われている。
そして、ユートの西方軍はその他の部隊を含んで第三軍と呼称されており、シーランド侯爵の北方軍もやはりその他の部隊を含んで第二軍と呼称されていた。
「ええ、その第二軍も含めて第三軍とします――ああ、そういえばユート君はシーランド侯爵の先任になりますから、そこのところもよろしく」
ウェルズリー伯爵の言葉にユートは目を剥いた。
「え、シーランド侯爵さんが指揮を執るんじゃないんですか?」
「残念ながら、王国軍令によりますと、同階位の指揮官ならば、任官の先後により指揮権が決まります。これは司令官心得、司令官代理などであっても、事実上指揮権を認められた時期となるので、ユート君の方がシーランド侯爵よりも軍司令官となったのが早かったことになり、ユート君が先任です」
ウェルズリー伯爵の言葉にユートは何か言おうとして口をぱくぱくと開く。
いや、シーランド侯爵は王位継承戦争でもユートの指揮下に入って戦った仲間ではあるし、そこまで感情的な問題があるとは思えないが、まさか軍司令官を指揮下に置くとは思ってもいなかったのだ。
「……おい、ユート卿。こいつの言ってることは軍令上は間違いない話だ。ユート卿が知らないのをいいことに、こんな爆弾をさらっと落とすあたり、底意地は悪い話だがな」
ウェルズリー伯爵がくすくすと笑う。
「シーランド侯爵さんは構わなくとも、南部貴族とかが……」
「大丈夫ですよ。アナスタシア王女殿下の婿ならば、多少の感情の行き違いでユート君をどうこうしようとは思わないでしょう」
そう言いながら、ウェルズリー伯爵はユートの耳元に口を近づけて小声で言葉を続ける。
「……ユート君、君はどれだけ人材を集めれば気が済むんですか?」
「え?」
「アーノルドも先代クリフォード侯爵も王国軍の騎兵指揮官としては一、二を争う大隊長、そして二人とも経歴が少し違っていれば今、一個軍を率いても何もおかしくない人物なんですよ」
「いや、それは……」
確かにアーノルドはポロロッカの一件がなければエーデルシュタイン伯爵家の家臣となることもなかっただろう。
まして先代クリフォード侯爵に至っては、前軍務卿であり、一個軍を実際に指揮した経験もある軍人だ。
ユートにとってはもったいないくらいの人材であるのはよくわかっている。
「その二人に、アーノルドが鍛え上げた兵たちがいます。私もその手強さをよく知る、北方の精鋭たちもいます。君ならば出来ます」
「……そう言われたら断れないじゃないですか」
「断らせるつもりはありませんから。それに、餓狼族の雷神ゲルハルトと言えば北方軍でその名を知らない者はいませんよ。彼の兄弟分であるユート君が指揮をすると言って、拒否する者はいないでしょう」
ウェルズリー伯爵はぽんとユートの肩を叩く。
「頑張って下さい。君に任せます」
そう言いながら、ウェルズリー伯爵はにこやかに笑っていた。




