第175話 日は昇る
王国暦六〇六年の新しい太陽は、ゆっくりと昇っていた。
「初日の出、ね」
エリアは昇る太陽を見ながら、そう呟いた。
ユートたちはエレルのエーデルシュタイン伯爵家屋敷のバルコニーにいた。
ちょうど東向きのそこからは、遙か遠く、死の山の稜線から初日の出があがろうとしていた。
数年前からユートの故郷ニホンの新年の祝い方をやりたい、と言われていたのだが、いかんせんお節料理を作ろうにも、ユートには知識もなければ、エレル近郊には材料もなかった。
海老くらいならば探せばいるのかもしれないが、海老だけでお節料理をやっても悲しいだけなので、初日の出を見に行く、ということに留めておいたのだ。
「新年の初めて昇る太陽を縁起のいいものと考えていることといい、日出づる国の自称といい、ニホンというのは太陽信仰なのですね」
アナはそんなことを言っていたが、ユートにはよくわからない。
「それにしてもユートはそこに帰りたくないのですか? 話を聞いていると、ノーザンブリア王国よりもよっぽど良い国なのですが……」
「思わないさ」
ユートはそうきっぱり言う。
日本にはもう戻れないし、でっち上げたニホンには行くつもりもない。
「まあそれはいいわ。ところで果皮をつけ込んでいない葡萄酒を用意したけど、どうするのよ?」
「お屠蘇って言ってな。酒が悪霊を祓って一年間健康でいられるって迷信があるんだ」
そう言いながら、ユートはグラスに白葡萄酒を注ぐ。
全員の分を注ぎ、アナの白葡萄酒を水で割ると、ユートはグラスをくい、と持ち上げた。
「今年も一年、よろしくな」
そう言いながら、ゆっくりと白葡萄酒を飲む。
はっきりと言えばお屠蘇とは似ても似つかぬものだが、エリアたちにしても、ちゃんと儀式として正しいことをやりたいというより、見知らぬ異国の習俗に興味津々なだけだろうとこれで誤魔化すことにする。
「今年もよろしく!」
エリアはそう言いながらコップの白葡萄酒をあおるようにして飲む。
「これがなんで魔除けになるのかわからないけど、正月からがぶがぶ酒飲みましょうっていい国ね」
「わたしもまだ欲しいのです」
「アナはそれくらいにしとけ。あと、がぶがぶ飲むもんじゃないからな」
「なんでよ!? たくさん飲んだ方が魔除けになっていいでしょ!」
「狩人やってても魔物に出会わなくなるかもしれんけどな」
「……ほどほどが大事よね」
そう言いながら、エリアは瓶に入っている白葡萄酒をグラスに注いだ。
「まだ飲むのかよ」
「これ、案外高かったのよ」
「そりゃガラスの瓶に入ってるからだろ。いつも通り樽で買ってくると思ってたのに……」
「小樽でも樽の方が高いに決まってるでしょ。どんなお酒かわからないのに、樽で買うとか怖くて出来ないわよ」
エリアはそう言いながら、ぐびりと白葡萄酒を飲んだ。
「……これなら樽で買っといた方がよかったかもしれないけどね。そういえばなんで白葡萄酒なの?」
「本当は米って穀物から作るワインを使うんだが、それは透明なんだ。だから、似たようなものを、と思ってな」
「へー、穀物からワインなんか出来るのね。じゃがいもとかからも出来るのかしら」
「出来るで」
不意に後ろから声が聞こえてきた。
「ユート、水くさいやないか。なんかお祝いするんやったら言うてくれや」
もちろんゲルハルトだ。
「いや、ゲルハルトたちは石神の教えに従っているし、太陽を見て縁起物と感じるのは異端かな、と思ったしな」
「そこまで凝り固まってへんわ。別にこっちのノーザンブリア教会の教えも否定しぃへんし、ユートが太陽信仰なんやったら別にそれはそれへかめへんと思うとるで」
そう言いながら、新しいグラスを一つ取ると、勝手に白葡萄酒を注いでぐびりとやる。
「ほう、ええ葡萄酒やな。渋さがない分、オレはこっちの方が好きかもしれん」
「で、ゲルハルト。じゃがいものお酒ってどこにあるのよ?」
「大森林で作られる酒やで。じゃがいもで作った酒に火を入れたあと濾過するんや。オレも詳しい作り方はしらんけど、火の酒って言われとるな」
「面白そうね。今度手に入れてきなさい」
「わかったわかった。どうせ次に来よる奴らが持ってきとるやろうから、一本もらってエリアに進呈するわ」
ゲルハルトの言葉にエリアはにんまりと笑った。
「それにしても、聖ピーター伯爵もゲルハルトくらい柔軟だったらいいんだけどな……」
ユートがぼそりと呟いたのを、アナが聞きとがめた。
「どういうことなのです?」
「ほら、こないだアナとシャルヘン大聖堂に行った時に、聖ピーター伯爵が一度西方に来て冒険者ギルドを視察したいって言ってただろう? でも宗教の坩堝みたいなギルドに、首席枢機卿の聖ピーター伯爵がきたら大変なことになりそうだな、と思ってるんだ」
「むー、それは聖ピーター伯爵が異教徒に対して不満を持っている、ということですか?」
「じゃないのかな? レオナみたいにこっそり王国に入っている獣人はいたにしろ、これほどまとまって獣人たちが王国に入ってくるのは王国市場でも珍しいことみたいだしな」
「確かにこれまでの王国と大森林の関係はせいぜい講和程度であり、父上が母様を娶られたのすら、王国史上に残る話だったとは聞いているのです」
そう言いながら、アナが年齢に似合わぬ難しい顔を作る。
「ただ、わたしはピーター爺はそんなことを言う人ではない、とは思うのですが……爺は温厚篤実な長者として知られている人なのです……」
「わからないけど、何か用事があるみたいだったし、ノーザンブリア教会の首席枢機卿が用事ってなると、やっぱりそういうことを考えてしまうよな」
ユートの言葉に、アナはそれもわからないわけではない、と小さく頷いた。
元日と言っても特に何かすることがあるわけではない。
大きな貴族家であれば、家臣たちを集めて祝いの宴をやったりするらしいが、エーデルシュタイン伯爵家は主立った家臣といえばアーノルドとアドリアンだけ、普段から一緒に食事はしていることが多いし、特段やることがないのだ。
ただ、普段とは違う、のんびりとした空気の中で、トランプなどをして遊んだり、昼から酒をかっ食らっているくらいだった。
そんなエーデルシュタイン伯爵家屋敷に、思わぬ来客があったのは昼過ぎのことだった。
「ユート様、ちょっとお客様……」
少し寒いとはいえ、太陽の日差しを浴びながら庭でのんびりしていたユートの下にアーノルドがそう言いながら現われる。
「誰ですか?」
「私だ」
そう言いながらアーノルドのすぐ後ろに立っていたのは、先代クリフォード侯爵だった。
「あれ、クリフォード侯爵……先代クリフォード侯爵じゃないですか」
もうクリフォード侯爵ではないし、いちいち爵位名を呼ぶのもどうかということで、名前を呼ぶが先代クリフォード侯爵は気にした様子もない。
「おう、総裁。新年の祝いだ」
そう言いながら先代クリフォード侯爵は血の付いたままの鳥を何羽かユートに渡す。
「えっと、これは……?」
「祝いだ。先代クリフォード侯爵として、王国の貴族の列に並べば私と貴様は同じ貴族だが、ギルドにあっては総裁と一加盟者に過ぎん。だから、総裁に新年の祝いを持ってきたのだ」
そういうことならば、と有り難く鳥を受け取っておくことにする。
「というか、正月早々狩りに行っていたんですか?」
「クリフォード侯爵家では、一月一日に射初という行事を行うことになっていてな。たとえ正月であっても、尚武を忘れぬというためにやるのだが、その癖が抜けんのだ」
そう言いながら呵々と笑ってみせる先代クリフォード侯爵にユートは苦笑いするしかない。
「あ、先代クリフォード侯爵じゃない。セリーちゃんに聞いたわよ。冒険者に加盟していきなり狩人やってるのよね?」
「ああ、年末にも何件か受けさせてもらった。アストゥリアス産地を越えた時にアドリアン殿から教えてもらったことが役に立ったな」
「それで先代クリフォード侯爵、一月からのランク上がったらしいわよ。そっちのユートは相変わらずJ級のままだけど」
エリアの意地悪な視線に、ユートはそちらにも苦笑いするしかない。
「ふむ、意外と簡単に上がるものだな」
「下の方は単価の安い依頼しか受けない傭人だからね。簡単に抜かせるわ。狩人や護衛ばっかりになって、上がるのが難しくなるのは上半分、E級くらいからね」
「心得ておこう」
「ところで先代クリフォード侯爵、その鳥をジークリンデに料理してもらうし、食べていかない?」
「ふむ、構わないか、エーデルシュタイン伯爵?」
「ええ、問題ないですよ」
ユートは笑ってそう答えた。
先代クリフォード侯爵は先代クリフォード侯爵で、なんだかんだ言いながら冒険者稼業を楽しんでいるみたいでよかった、と思ったのだ。
その日の夜は先代クリフォード侯爵も交えて散々に飲んだ。
翌日はパストーレ商会のプラナスたちに呼ばれて、パストーレ商会の面々と飲み、その翌日はジミーやレイフといった冒険者連中と飲んだ。
そうしているうちに、あっという間に正月は過ぎ去り、松の内も明けた八日になっていた。
「ユート、今日は飲まないの?」
「もう正月ぼけからいい加減抜け出せ」
執務室に入ってくるなり、そう訊ねてきたエリアの頭にチョップをかましながら、ユートは手元の資料を漁る。
「今日なんかあったっけ?」
「今日からぼちぼち新兵さんがやってくるんだよ」
ユートはそう言いながら、資料をエリアに渡す。
「ああ、そういえば年末に見たような気がするわ」
「ちょうど年末にレビデムに着いたので、さすがに元日まで任務ってのは可哀想だからレビデムで三日まで過ごしてこっちにくることになってる」
それを伝えるデイ=ルイスからの書簡を読んで、ようやくエリアも正月ぼけから立ち直ったらしい。
「そうね。じゃあ受け容れ用意をしないと」
「それはもうアーノルドさんたちが動いてるぞ。問題は訓練の方だよ」
そうため息をついた時、アーノルドとゲルハルトが執務室に入ってきた。
「ユート様、受け容れた者は既に軍の兵舎の方に入りました」
「問題なく?」
「ええ、問題はありません。体調不良者もおりませんし、私が見た限り、兵に向かない反抗的であったり、覇気がない者もいないように見えます」
ともかく、新兵の受け容れは問題なく終わったようだった。
「それで、問題は訓練予定ですね」
「そうですね」
ユートたちは王都からの帰りの馬車、そしてエレルに戻ってきてからも何度も訓練について議論していた。
というよりも部隊編成の根本的なところ、果たして大隊や中隊が必要なのか、ということを議論していた。
冒険者の戦い方を考えると、小集団で戦うことが多く、歩兵が戦列を組んだ戦い方や、騎兵が悌団で突撃することを前提にした大隊、中隊、小隊といった編成が運用上適切なのか、というのはユートもかねがね考えていたことであり、専門家であるアーノルドもまたそこは気になっていたようだった。
これは王国軍内でも前例が無いことではなく、数を揃えられない上に、そこまで多数が不要な法兵に関しては、中隊で二十四名と極めて少ない編制となっている。
こうした例外的な編制があることも考えると、猟兵部隊を編成するならば大隊、中隊、小隊の枠組みを取っ払って考えてもいいのではないか、という議論もあったのだ。
そして、その議論はまだ結論が出ていなかった。
というのも、兵たちは一応基礎教練が受けており、その基礎教練は大隊、中隊、小隊という枠組みあってのものとして教えられているので、それを無視した部隊を編成してしまうと、混乱を招くのではないか、という意見がゲルハルトから出されたからだ。
「オレはやっぱり部隊はきっちり編成した方がええと思うで。実際オレら餓狼族も、妖虎族どもも同じように編成しとるんやし」
「それはわからないではないのですが……」
ゲルバルトの言葉に、アーノルドが困ったような顔となった。
基本的に、西方軍の再建は軍組織に最も詳しいアーノルドと、冒険者としても猟兵部隊の指揮官としてもそれなりの経験を積んでいるゲルハルトの二人で行うことになっていた。
だが、二人の間でもいまだにどういう編制にするかすら決まっておらず、その状況で新兵たちを受け容れる羽目になっていたのだった。
西方軍の再建は前途多難だった。




