第172話 禅問答
十一月も数日が過ぎ、ユートたちがエレルへ戻る日も近づいてきた。
年末から一月にかけては雪が降ることも多く、もしエレルへの帰途に雪が降れば、街道を行くだけでも難渋することになる。
それを避けるためは十二月の上旬までには西方に戻りたかったし、そうなると十一月の半ばには王都を出る必要があった。
その為、十一月十日を目処に帰途に就くつもりだった。
「ユート、今日はシャルヘン大聖堂へ行きたいのです」
九日の朝、アナがそんなことを言ってきた。
「大聖堂?」
「父様のお墓参りを済ませておきたいのです。明日は行く時間もないと思うのです」
アナの言葉にユートも頷く。
「わかった。俺も行っていいのか?」
ユートの言葉にアナはにぱっと笑って頷く。
「もちろんなのです」
「私も、行ってよい……?」
不意にジークリンデも口を開いた。
「構わないのです。でもジークリンデは石神様の教えに従っているのではないのですか?」
「石神様は、そんな神様ではありません……」
ジークリンデの言葉にアナは頷く。
「それならばいいのです。ジークリンデも一緒に行きましょう」
すぐに馬車が仕立てられる。
もちろんアナが持ち込んだ、エーデルシュタイン伯爵家で一番いい馬車であり、アナの紋章旗が掲げられ、レオナが護衛に付く。
「レオナ、すまんな」
「別にこれもあちきら傭兵団の仕事ニャ。それにジークリンデ様が出られるのにあちきらがふらふらしてても体裁が悪いニャ」
そう言いながら、レオナは万が一にも伏兵がないように、何人かの妖虎族を先回りさせて、隠れられそうなところを徹底的に洗っているようだった。
こういう仕事をさせたらレオナの右に出る者はいないし、軍務省情報部内国課長という、防諜の専門家であるマンスフィールド内国課長よりも上ではないかとすら思ってしまう。
そんなレオナの護衛を受けて、ユートたちはシャルヘン大聖堂に着く。
アナが行くことは先触れの使者が出ていたこともあり、大聖堂では恐らく高位であろう神官が出迎えてくれて、地下墓地へと案内してくれる。
地下墓地は二年と少し前に、トーマス王の国葬で入って以来だったが、そこに佇む墓石は、まだ真新しく、あの時のままのようだった。
アナは、その墓石の前で立ち止まると、祈りを捧げ始める。
ユートもまた、瞑目してアナの祈りが終わるのを待ち、そして続いて自分も祈る。
果たして自分はトーマス王の頼み――アナに家族の温かさを教えてやれているのだろうか、と自問自答しながら。
ユートが目を開けた時、アナが隣の墓標に祈っているのが目に入った。
「アナ、それは?」
「母様のお墓なのです」
思わず声を掛けてしまったが、アナはすぐにそう答え、そしてまた祈りに戻った。
アナが祈り終わるのを待って、ユートも祈る。
沈黙だけが流れ、そしてその沈黙が雄弁だった。
「アナスタシア様、ニコラシカ様はこちらに来られてから、どのような日々をお過ごしでしたか……?」
二つの墓への祈りを終えると、地下墓地から出る道すがら、ジークリンデがそう訊ねていた。
「母様は……そうですね。いつも寂しげでした。笑っているときもどこか寂しげな瞳をされていて、わたしは声を掛けられない時もありました」
「やはり、そうですか……」
「もしかして、ジークリンデは母様を知っているのですか?」
「ええ……ニコラシカ様はイリヤ神祇官のご親戚ですし……小さい頃は元気はつらつとした、明るく可愛らしい少女でした……」
ジークリンデは遥か過去を見るように、淡青色とワインレッドの瞳で中空を見る。
「そして、イリヤ神祇官の思し召しでノーザンブリア王家に嫁がれる時は、すごく不安そうな顔をされていたのを覚えております……」
「そうですか……」
アナは何か言いたげにジークリンデの方を見たが、それ以上は何も言わなかった。
地下墓地から出ると、案内してくれた高位神官たちがどこかへ案内してくれる。
アナは慣れた様子でそれに着いていき、ユートとジークリンデも続く。
「姫様、ご無沙汰致しております」
高位神官たちに案内された先には、初老の男がいた。
その男をユートも覚えている。
トーマス王の国葬の時に取り仕切っていた男――首席枢機卿聖ピーター伯爵だ。
「ピーター、お久しぶりなのです」
アナはそう言うと、すぐにソファに腰を下ろす。
「ジークリンデ殿下、エーデルシュタイン伯爵もどうぞ」
「これは痛み入ります」
ユートはそう言いながらアナの横に座る。
「姫様、随分と大きくなられたようで嬉しく思います」
「ピーター卿もお元気そうで何よりなのです。でもわたしはもうレディーなのです」
アナは笑いながら、少し怒ったような表情を作って見せる。
「これは失礼。どうも姫様といえば五歳の頃の、ウシャンカを被ってよく故ニコラシカ王妃陛下の墳墓へ参拝されていた記憶が強うて……いけませんな。年寄りになれば思い出に生きてしまう」
「あの頃から、ピーターには世話になったのです」
アナもまた懐かしそうにそんなことを言う。
まだ十二歳だが、その過去を懐かしむ表情は十二歳のそれではない。
「ユート、ピーターは母様が儚くなった後、わたしの唯一の友人だったのです」
「ははは、姫様に友人と言って頂けるとは嬉しいことですな」
聖ピーター伯爵は剃り上げた頭をつるりと撫でて笑う。
その姿はどちらかといえば孫娘との会話を楽しむ祖父のようだった。
「ところで私にも姫様の婚約者を紹介して頂きたいのですが」
「もう、そう言われると恥ずかしいのです……こちらはエーデルシュタイン伯爵ユート。私の生涯の伴侶になる男なのです」
「ははは、姫様らしからぬ照れ方ですな。エーデルシュタイン伯爵、先王トーマス陛下より首席枢機卿を仰せつかりました、ピーターと申します。今後ともよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願いします。こちらは自分の婚約者である大森林エーデルシュタイン氏族ジークリンデです」
「ジークリンデと申します……」
ジークリンデが頭を下げたので聖ピーター伯爵もまた慌てたように頭を下げる。
「これはご丁寧に。それにしてもエーデルシュタイン伯爵、姫様とは仲がよろしいようでこの爺としては大変嬉しいことです。これからも姫様のことをよろしくお頼み申し上げますぞ」
「いえ、アナには色々とよくしてもらっています」
「それは重畳」
聖ピーター伯爵はそう言うと再び笑った。
教会の高位神官でありながら、そうした地位を感じさせずよく笑う温厚な長者、といった雰囲気の男であり、どことなく温かく、聖職者らしい男だった。
「ところでエーデルシュタイン伯爵、アリス様より恩賜の称号を賜ったとか」
「ええ、先日のパーティーで恩賜ノーザンブリア冒険者ギルドの名を頂きました」
「拙僧は出家の身ゆえ、パーティーには参加しておりませんでしたが、めでたきことですな」
「ありがとうございます」
「恩賜称号は先王陛下の御代には一度も下されることはありませんでしたから、何十年ぶりの下賜になるのやら……名誉ではあれどもエーデルシュタイン伯爵も大変ですな」
聖ピーター伯爵はそう言うと、心底同情したようにユートを見る。
「身は軽やかであればあるほど、心も軽やかになります。エーデルシュタイン伯爵はお強いお方ゆえ、つい何もかも背負い込まれることのなきよう」
「身に染みます。しかし、自分にはアナやジークリンデ、それにエリアや多くの仲間がいますから」
「それは素晴らしきこと。そういえばエーデルシュタイン伯爵の配下には大森林の方も多いのですな」
聖ピーター伯爵はそう言いながらちらりとジークリンデを見る。
「ええ、ジークリンデが大森林の出ですし、それに兄弟のような付き合いをさせてもらっている仲間も多いです」
「そうですか。故ニコラシカ王妃陛下から聞いたことがありますが、大森林とは幽玄なるところらしいですな」
「一度行ったことがありますけど、すごかったです。なんというか、森の木々の間に道があり、見上げても空が見えないほど木が生い茂っていて……それを抜ければ大きな澄んだ湖のある森都です」
「ほう、それは一度は行ってみたい」
ユートが語る大森林の情景に、聖ピーター伯爵はいちいち声を上げては感心し、そして心底行きたそうにしていた。
「そういえば大森林では独特の教えもあるとか」
「ええ、石神という神を信仰していますね」
「いわゆる石神教、というものでしたか。拙僧はとんと疎いのですが、どのような教えなのでしょうか」
「うーん……」
ユートは口ごもった。
ユート自身も石神の教えというものをよく知らないし、何よりも聖ピーター伯爵はノーザンブリア教会の首席枢機卿である。
彼からすれば石神教というのは異教であり、その異教についてあれやこれや言われるのではないかと警戒していたのだ。
「石神様の教えとは、ただ一つです」
だが、いつになく真剣な口調で聖ピーター伯爵に言う声があった――ジークリンデだ。
「決して助けず、ただ、見守り道しるべとなるのみ」
凜としたジークリンデの声が響き、あたりが静まりかえったような錯覚に陥る。
「道しるべとは何か?」
「――例えば旦那様はかつて死の山において石神様の導きによりゲルハルトと引き合わされたと聞き及んでおります。人が、真に必要とするものを指し示すが石神様です」
「なるほど。それが石神の教えですか。いやはや我らがノーザンブリア教会とは随分と違うようだ」
聖ピーター伯爵はそう言いながら、柔和な笑顔を見せる。
しかし、ノーザンブリア教会の首席枢機卿が見せるその笑顔は、果たして単なる興味本位なのか、それとも何か政治的あるいは宗教的な意図があってのものなのかはユートには読み切れない。
「ノーザンブリア教会の神とは何なのですか?」
「神とは、万物の創造主にして裁定者である」
「聖ピーター伯爵も創造されたのですか?」
「いかにも」
「神は何をするのですか?」
「何もせず、ただ見守るのみ。神はどこにいるというものではなく、我らが心の中にありて生涯見守り続け、そして死後裁定を下すのである」
ジークリンデの言葉に聖ピーター伯爵は高僧としての威厳を以て応える。
「確かに石神様の教えとは違いますね」
ジークリンデはそれだけ言うと、再びいつもの寡黙なジークリンデに戻った。
「なるほどなるほど、石神の教えというものは面白いもののようだ――ところでエーデルシュタイン伯爵、卿の麾下には数多くの大森林諸部族がいるようですが、その者たちもやはり石神の教えを信ずるのでしょうか?」
「ええ、そうだと思います。少なくともゲルハルトやレオナはそれを信じています」
ふむ、と聖ピーター伯爵は一瞬だけ考え込む。
「徒人も多いのですかな?」
「ええ、普通の人も多いです。彼らはノーザンブリア教会の信徒である者も多いでしょう」
「なるほど。それならば大森林の諸部族と、彼ら神の赤子たちは異教徒同士、ということになりますがそうした中で争いは起きないのですかな?」
「そういう話は聞いたことがありません。何を信じていようと仲間は仲間ですから」
「なるほど」
ユートの言葉に、聖ピーター伯爵はそれ以上の問答は続けなかった。
「そういえばエーデルシュタイン伯爵も姫様も、そろそろ西方に戻られるとか?」
「ええ、明日には王都を起つつもりです」
「そうですか。旅の安全をお祈り致します」
聖ピーター伯爵はそう言いながら、じっと祈る。
そして、もう一度口を開いた。
「――それとエーデルシュタイン伯爵、今度西方に行かせて頂いた折、ギルドに案内して頂いてもよろしいですかな?」
「ギルドにですか?」
「ええ、前から少し気になる話を聞いておったのですが、今のお話ですと寄せて頂いても大丈夫かと思いまして」
ユートの頭が必死になって動く。
ノーザンブリア教会の首席枢機卿が辺境と言われることもあるわざわざ西方くんだりまでやってきてギルドを見学したいと言っている。
しかも、その直前に話していたのは石神教の話であったりする。
危険ではないか、という気持ちがむくむくとユートの心の中に芽生える。
聖ピーター伯爵の方を向き直ると、聖ピーター伯爵は曇りのない真っ直ぐな瞳を見ていた。
それはユートを騙したりしようとしている瞳ではない――だが、彼が宗教的使命に燃えているならば自分がユートを騙しているとも間違っていることをしているとも思っていないだろう。
ユートはちらりとアナの方を見やる。
結局、ユートはこの聖ピーター伯爵とは今日初めて話したに過ぎない。
アナは幼い頃からの付き合いのようだし、アナの意見を聞くしかないだろう。
アナはユートの視線に、こくりと頷いて応じる。
「わかりました。来られた際にはご案内しましょう」
「その折にはお世話になりますぞ」
聖ピーター伯爵はまた柔和な笑顔を浮かべた。
ユートは不安ではあったが、同じように笑うしかなかった。




