第163話 アドリアンの告白
ともかく、アドリアンもあっさり納得してくれてよかった、とユートが胸をなで下ろしたところで、エリアが大きな欠伸を一つした。
既に夜も大分更けてきており、そろそろ寝ようか、という雰囲気となる。
「明日からは撤退の準備?」
「そうなるな。補給廠に伝令出して撤収に備えさせないといけないし」
「いつ頃に撤退になるかにもよりますな」
軍の実務面で一番頼りになるアーノルドがじっと腕を組む。
最近ユートは軍の運用について大分勉強したこともあり、アーノルドに頼り切りというわけではなくなっているし、エリアも副官として実地で経験を積んでいるのでアーノルドの仕事は幾分軽減されているが、それでもやはり三十年に渡って経験値を積み重ねてきたアーノルドとは比較にならない。
今回の撤収にしてもやるとなればアーノルドの仕事量が増えることは明らかだった。
「まあ近衛や東部貴族なんかが来てからって話なんで……」
「なるほど。そういえば南部貴族は誰が指揮を執ることになるのですかな?」
アーノルドが気になっていたことを聞いてくる。
本来ならば南部貴族のうち、南東部の貴族はクリフォード侯爵家が統率するはずだったが、クリフォード侯爵は謹慎に戻っているし、ロドニーは正直軍人としては今ひとつ頼りがいがない。
クリフォード侯爵家に次いで爵位の高いビーコンズフィールド伯爵もまた軍人向きとはいえないし、クローマー伯爵は若年で陣代としてヴィクター老人を派遣している状況だ。
今までは第三軍の一部としてユートが面倒を見る形になっていたが、優れた資質を持つナフィールド子爵も失っているので指揮官不在となりかねなかった。
「まあそこら辺はウェルズリー伯爵が上手くやるんじゃないですかね?」
ウェルズリー伯爵に丸投げにするユートの言葉にアーノルドは苦笑した。
そんなことを言い合いながら、エリアを筆頭にみなユートの執務室から出て行こうとする中、アドリアンだけが何か言いたげに残っていた。
「アドリアン、あんたは部屋に帰らないの?」
「――ああ、ちょっとユートと二人で話したいことがあってな」
アドリアンは短くそう呟くように言うと、その雰囲気にエリアも何かあるのだろう、とそれ以上は追及せず、じゃあね、おやすみ、とだけ言って執務室から出て行った。
「どうしたんですか、アドリアンさん?」
「……お前には話しておかないとならんと思ってな」
アドリアンが深刻そうな顔をしているのに、ユートも姿勢を正してアドリアンの次の言葉を待つ。
「怪我した件なんだがな……どうもかなりの深手らしい」
そう言いながら、アドリアンは左膝に目をやる。
「え、深手って、どういうことですか? そんな元気なのに致命傷ってことはないでしょう?」
「ああ、もちろん死にはしないが、死んだも同然と言えるかもしれんな」
禅問答のようなアドリアンの言葉にユートは何を言いたいのか、と困惑する。
「あの戦いで怪我してからしばらくは膝を動かせなかったんだが、動かせるようになっても力を入れると膝が抜けるような感覚があるんだ。それでよ、こないだ野戦救護所で法兵に見せた時に、痛みは魔法で消えるだろうが、それ以上よくなることはない、って言われたんだ」
「つまり、ずっとその膝が抜ける感覚があるってことですか?」
「ああ、そういうこった。戻ってきてエリアに抱きつかれた時もそんな感じだったしよ……」
ようやくユートにもアドリアンが言いたいことがわかってきた。
女性としては平均的な体格しかないエリアを抱き留めたくらいで痛むのなら、それ以上に負担のかかることは出来ない、ということだろう。
「それって、槍を使ったりは……」
「振り回すくらいは出来んこともないがな……まだ試しちゃいねぇが、戦うのはちょっと厳しいな。あと、走るのも、な」
アドリアンはそう言いながら悲しげな表情になる。
この豪放磊落にして楽天的な男が、そんな表情を見せたことがあっただろうか、とユートは思い、そしてアドリアンになんて声をかけていいのか、と戸惑う。
そして、同時にアドリアンが二度と武器を扱えなくなったのは、冒険者ギルドのためと言いながらこうしてエーデルシュタイン伯爵領軍を編成してはるばる南部くんだりまで出征したせいだ、と後悔の念がわき上がる。
「ああ、気にしなくて構わねぇよ。冒険者やってりゃ怪我することなんかよくあることだしな。俺が間抜けだっただけだ」
「でも……」
「それによ、お前がいなくても今回みたいな国の危機なら誰でもギルドを挙げて戦おうとしたはずだ。だからお前の責任じゃねぇよ」
なぜか怪我をしたアドリアンにユートが慰められている形になって、ユートは少しばかり恥ずかしさを覚えた。
「いえ、でもアドリアンさんの怪我は自分の責任です」
「そうかい。まあお前がそう言うなら俺はこれ以上は何も言わねぇけど、俺がお前を責める気が無いってことだけはわかっといてくれ」
「はい……」
ユートが頷いたのを見てアドリアンもまた頷く。
「で、だ。申し訳ないんだが、俺は冒険者を引退する。伝書をやる傭人くらいならやって出来ないことはないかもしれんが、どうしても魔物には遅れをとりそうだしな。俺がそうだったからこそ、デヴィットを父無し子にはしたくねぇ」
アドリアンの言葉にユートは頷きながらも聞き返す。
「冒険者ギルドからも脱退するってことですか?」
「まあ冒険者じゃない奴が冒険者ギルドに加入しているのもおかしな話だろ?」
「でも、それなら幹部は……」
ユートが気になったのは冒険者ギルドの幹部というアドリアンの立場だ。
特に規定がないとはいえ、冒険者ギルドの幹部を冒険者ギルドの非加入者がやる、というのはどうなのだろうか、と思案する。
ユートとしてもアドリアンが幹部にいてくれれば心強いが、それ以上に冒険者を引退するアドリアンのこれからの生活のことを考えても、幹部に残すべきと思っていた。
王国軍に従って出た貴族領軍の死傷者については王国軍と同じ規定で国庫から弔慰金や一時金が出るが、まだ三十代のアドリアン、到底その金だけで一生食べていくことなど不可能だろう。
「幹部はユートの一存のはずだから、別に脱退しても幹部でいいんじゃないのか? まあ他の怪我して引退した奴にゃなんか言われそうだが……」
アドリアンは苦々しそうにそう言う。
自分の指揮下で何人もの冒険者を負傷させておいて冒険者引退に追い込みながら、自分は引退してもユートとの縁で冒険者ギルドの幹部を続けるとなれば風当たりは厳しくなるだろう。
それでもエーデルシュタイン伯爵家のこと、冒険者ギルドのこと、自分の収入のことを考えても冒険者ギルドの幹部を降りたくはない、と思っているので苦々しい表情になったのだ。
一方でユートはアドリアンの言葉にはっとする。
「そうか、今回のでアドリアンさんみたいに怪我して引退って冒険者もいるんですよね」
「そりゃいるだろうな。戦える三百人は大丈夫だが、怪我して戦えないのが別に百人ほどいるからな」
ユートはそれを聞いてまた暗澹たる気持ちになる。
「怪我した冒険者の行き先を考えているのか?」
「ええ、まあ……」
「俺はそれよりもギルドから冒険者が五百人もごっそりいなくなった方が問題と感じるがな」
確かにそれもそうだ。
アドリアンの率いてきていた冒険者たちはいずれも護衛や狩人をやっている冒険者――つまり、冒険者ギルドでも上位に位置する冒険者たちだ。
それが大量に死傷してしまった、ということは冒険者ギルドにおける冒険者の質を大きく引き下げる要因になりかねない。
「……それもそうですね」
アドリアンの言葉にユートは暗い表情で頷いた。
「それも含めて、ちょっと考えないといけないことが多いな。帰ってからセリルも交えて、だが……」
「……そうですね。アドリアンさんの処遇も含めて、で」
「おう、俺は別にギルド幹部を外れるのでも構わんぞ。まあエーデルシュタイン伯爵家の家臣を首にされたら困るが……」
アドリアンの立場で言えばエーデルシュタイン伯爵家の家臣として従騎士の身分もあるのだから、ちゃんと冒険者ギルドが回るならばエーデルシュタイン伯爵家の家臣としての立場だけでも構わないと思っているようだった。
もちろん長年冒険者としてやってきて冒険者ギルドの設立にも関わったのに、仲間の中で唯一冒険者ギルドを離れるのに一抹の寂しさはあるのだろうが、それでもそれはアドリアン個人の感傷に過ぎないと割り切っているのだろう。
「まあ、今はそこら辺は話し合わなくてもいいだろう? とりあえず俺がエレルに戻ったら冒険者を引退するってのだけは覚えといてくれ――ああ、それまでは猟兵大隊を指揮しなきゃならんから、内緒な」
「わかりました」
「じゃあ、そろそろ寝てくるわ。お前も無理すんなよ」
アドリアンはそう言って執務室を出ようとする。
「アドリアンさん!」
ユートはその後ろ姿を呼び止める。
「あの……お疲れ様でした」
そのお疲れ様が何の意味かユートは語らなかったし、アドリアンも聞かなかったが、意味は通じたらしい。
アドリアンは照れくさげに片手を挙げて応じると、そのまま黙って執務室を出て行った。
翌日から撤収に備えながら、敵にも備える、という厄介な任務をユートはやることになった。
上層部の動きで兵たちまでが里心がついてしまって、どうも哨戒任務などに身が入らなくなっているのだ。
唯一の例外はエーデルシュタイン伯爵領軍突撃大隊と捜索大隊であった。
「オレらはもともと西方すら故郷ちゃうからな」
ゲルハルトはそう笑っていたが、確かに故郷が北方大森林であるのだから、西方に戻ると言われても里心などつくわけがない。
また、当然ながらクリフォード侯爵領軍も故郷にいるのだから里心がつく余地もなかった。
「とりあえず浮き足立ってて奇襲倉ったら洒落にならんからオレらでどないかするしかあらへんやろ」
ゲルハルトはそう笑っていたが、彼らにかかる負担はそれなり以上に大きくなりつつあった。
ウェルズリー伯爵も気を遣ってウェルズリー伯爵領軍を派遣したりしてくれてはいたが、残念ながらウェルズリー伯爵領軍には騎兵はいないので余り負担の減少にはなっていない。
ただ、ローランド王国軍もクリフォード城の会戦で大敗を喫したことが致命的となったらしく、ノーザンブリア王国から奪ったアストゥリアス地峡の南方城塞まで下がっている。
この意図を探るべくクリフォード侯爵家の家臣ジェファーソンがクリフォード侯爵領軍騎兵大隊を率いて行った威力偵察では、南方城塞を北側――つまりノーザンブリア王国側に対する防衛線とするべく工事をしていることも判明しており、どうやら当面南方城塞を防衛線とするつもりのようだ、とウェルズリー伯爵は結論付けている。
実際、あの戦いで死者と捕虜を合わせて二万近く失ったわけなので、ローランド王国軍としても致命的な損害に近いのだろうということは想像がついていた。
とはいえ、それでも兵力でいえば五分であり、近衛から増援やらが届いても第三軍が離脱するので数的優勢を確保するにはしばらくかかりそうだった。
「ユート、各地の宿泊地の設定は終わったわ。輜重段列がいないからシルボーまでは自力でやらないといけないけど、シルボー以後は輜重段列がどうにかしてくれるし、疲労はそこまで溜まらないんじゃないかしら」
エリアが書類を持ってくる。
「ああ、よろしくな」
「ユート様、補給物品についても処理はこの通りでよろしいでしょうか?」
今度はアーノルド――こちらも撤収にあたって持ち帰る物品、引き継ぐ物品、処分する物品をリストアップしたものを持ってきてユートの決済を求める。
軍が動くというのはそれだけ大勢の物資が動くということでもあり、書類仕事が半端なく増えるのだ。
「ホント、これだけは馴染めないわな」
「あら、あんたは案外書類仕事得意じゃない」
エリアは意外そうに言う。
確かにパーティメンバーにアーノルドまで加えた七人の中ではユートとセリルが書類仕事を一番苦にせず、次いでアーノルド、ゲルハルト、レオナ、一番苦手なのがアドリアンとエリアになる。
だが、苦にしないのと好きかどうかというのはまた別問題だ。
特に軍司令官というユートの立場の場合、空き時間は常に書類を読んでいるような状態にすらなってしまうのだから。
「まあ書類片付けたら久々に一杯やりましょう」
エリアがそう言いながら笑う。
ユートたちの撤収はそこまで迫っていた。




