第156話 ウェルズリー伯爵の突撃
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「ほれ、もっと気合をいれんか!」
ヴィクター老人は怒鳴っていたが、クローマー伯爵家の兵ですらそろそろ顔に疲労の色を濃くしていた。
まして、直接の寄親寄子関係にすらない南部貴族たちは、疲労の色濃い顔を怒りに歪めているかもしれない。
それでもヴィクター老人は怒鳴ることをやめなかった。
右翼を受け持つ自分の兵の、延翼運動が遅れればローランド王国軍がノーザンブリア王国軍の側面を突破、手薄になっているウェルズリー伯爵の本営の側背を衝くだろう。
そうなれば敗軍は必至――そうヴィクター老人はわかっているからこそ、怒鳴っていた。
だが、戦況は芳しくはなかった。
何度か、ローランド王国軍の騎兵が突撃してきて、こちらの延翼運動を妨害しようとする。
数に劣り、わずか六千しかいないといえども、ヴィクター老人はそれを無視することは出来ず、その都度予備選力を出して撃退しては延翼運動を再開する、を繰り返していたが、徐々に後れを取り始めていた。
妨害されていることに加えて運動しながらの戦闘を余儀なくされているから、疲労が溜まってきているのだ。
特に騎兵主体であったことから延翼運動の中心となっているナフィールド子爵領軍は疲労の色が一番濃かった。
しかし、ナフィールド子爵もまた王立士官学校を出た後、中隊長になるまで奉職し、三十を過ぎた頃に隠居した先代ナフィールド子爵の跡を継いで軍を除隊した人物であり、軍の先輩でもあるヴィクター老人の叱咤を受けて必死になって延翼運動の中心を担っていた。
ヴィクター老人もまた遅れる度に兵を叱咤し、必死になって包囲されないように部隊を動かす。
そのヴィクター老人の気迫が乗り移ってか、どうにか延翼運動についていっていたが、それも限界が近かった。
ローランド王国軍は数的優勢であり、それであるからこちらを妨害したり、他の箇所を攻める余裕があるのだが、ノーザンブリア王国軍にはそんな余裕はないのだ。
そして、何度目かのヴィクター老人の叱咤がとうとう効かなくなり、最右翼を行くナフィールド子爵領軍が敵の騎兵の妨害を受けている間にローランド王国軍左翼の兵に頭を抑えられてしまった。
「クローマー伯爵領軍騎兵大隊を出せ!」
ヴィクター老人は怒鳴った。
クローマー伯爵領軍騎兵大隊、と見栄を張ってみても実態は二個中隊の騎兵――欠編成の大隊を通り越して増強中隊程度に過ぎない。
クローマー伯爵領は決して豊かではない上、先代、先々代と早世したこともあって大きく国力が低下しており、その結果が本来伯爵ならば一個大隊揃えられて然るべきな騎兵が、その定数の半分以下にまで割り込んでいたのだ。
しかも、恐らく消耗してしまえば向こう十年、クローマー伯爵家では補充できないだろう。
そんな貴重な騎兵であり、さらに言えばこれがヴィクター老人の手元にある最後の予備戦力でもあった。
これをつぎ込んでしまえばもうヴィクター老人に残された戦力はなくなる。
だが、迷っている暇はなかった。
ヴィクター老人の命を受けたクローマー伯爵領軍騎兵大隊は勇敢だった。
恐らくナフィールド子爵領軍の頭を抑えている兵だけで一個大隊を超え、更にその背後、今ウェルズリー伯爵の本営を狙っている兵は見えるだけで二個大隊はいるだろう。
わずか四百騎に過ぎないクローマー伯爵領軍騎兵大隊は、圧倒的な優勢を持つ敵軍を恐れる気配もなく突撃に移った。
戦い、というものにおいて最も重要な役割を果たすのは数である。
いかな精兵と言えども百人で一万人を破ることは不可能に近いし、それどころか一千人いてもだいたいの場合は敗北を喫する。
それだけ数には練度や士気を超越する絶対性があり、それを唯一覆せるとするならば、それは兵が死を覚悟していた場合における白兵戦だけだろう。
即ち、敵味方の混淆した白兵戦においてはどうしても気迫覚悟といった精神力の比重が大きくなるわけであり、指揮官は突撃に移ろうという時、兵たちに自身の白兵の優越を確信することを求めるのだ。
この時のクローマー伯爵領軍騎兵大隊の大隊長もまさにそれを命じていた。
常歩から速歩、そして襲歩と速度を上げていく馬上で、あとに従う四百騎に叫んでいた。
「目標! 眼前の敵騎兵団! 躍進距離八百! 王国の命運は我らにあり! 我が白兵の優越を確信し、敵を撃滅せよ!」
おう、と蛮声をもって兵たちが応えて速度を上げ、そして質量と質量が衝突した。
「不味いですね」
ウェルズリー伯爵は本営でそう呟いた。
「予備戦力を右翼に回しますか?」
カニンガム副官もウェルズリー伯爵の言葉の意味するところはわかっている。
ヴィクター老人の指揮する右翼がとうとう破られ、ローランド騎兵がウェルズリー伯爵の本営の右翼を衝こうと迂回している。
少数のクローマー伯爵領軍騎兵大隊――恐らくヴィクター老人が最後まで残しておいた予備戦力――がそれを阻もうとしているが、数的劣勢は明らかだ。
その騎兵大隊が破られてしまえば、ウェルズリー伯爵の本営までは阻む物は何もないのだから、カニンガム副官の言う通り、今のうちに逆襲するのが定石と言える。
「そうですね。騎兵を使いましょうか」
ウェルズリー伯爵の手元には西方驃騎兵第二大隊、中央驃騎兵第五大隊の二個大隊がある。
いずれも精鋭、特に西方驃騎兵第二大隊は王位継承戦争以来、常にウェルズリー伯爵の麾下で戦功を挙げた部隊であり、信頼できる。
これを投じて穴を塞ごう、というのもまた定石であり、戦理だった。
「わかりました。では二個大隊を……」
カニンガム副官がそう言うのを不意にウェルズリー伯爵が手で制した。
「やめ、です」
「え?」
「やめ、です。右翼が崩れました」
カニンガム副官はウェルズリー伯爵が見ている方を見る。
すると、右翼の半ばからが崩れているのが見えた。
歩兵たちがてんでばらばらに逃げ惑っており、紋章を掲げた旌旗が逃げようとしている――つまりは貴族も逃げようとしているのが見える。
カニンガム副官は唇を噛んだ。
恐らくこのまま右翼は総崩れになるだろうし、右翼が崩れればもう持ちこたえられない、というのがわかったからだ。
ウェルズリー伯爵の本営にある騎兵二個大隊は広い戦線全面を補えるほどの数ではないし、機動防御は基本的に前線がしっかりと維持されていることが前提だ。
もっとも敵の追撃は見えないのは不思議に思えた。
カニンガム副官の常識からすれば敵が崩れればそれを追撃する、というのは戦術上の常識である。
もちろんその後ろに敵に待ち構えていることを恐れて追撃を早々に打ち切る、というのはありえる話だが、この戦場でそれをやるならば敵将はただの臆病、無能だろう。
「カニンガム副官、あれは裏崩れですよ」
カニンガム副官の疑問を読み取ったのか、ウェルズリー伯爵がそう説明した。
「裏崩れ?」
「まだ前線では勇敢な兵が戦っているのでしょう。だから敵は追撃できない。しかし、前線ではなくその後ろにいる兵が、恐怖心に耐えきれなくなった」
「なっ!?」
カニンガム副官は絶句した。
それは前線で勇敢に戦っている味方を見捨てた、ということに他ならないではないか。
「兵に恐怖心がついてしまっては戦えません。まあ右翼はクローマー伯爵家の代理とはいえ、正騎士に過ぎないヴィクター老人に他の貴族を統率させるのには無理がありましたね。これは適任者が他にいない、と安易に任せてしまった私の責任です」
ウェルズリー伯爵は淡々とそう言ったあと、カニンガム副官の方を向き直った。
「カニンガム副官、紋章はわかりますか? わからなければ紋章官を呼んで、あの兵たちと一緒に逃げている貴族どもを把握しておいてください」
「え?」
「兵が恐怖心に煽られたとはいえ、味方を見捨てて勝手に逃げた者を許しませんよ。兵だけが逃げるならば、それはしょうがない。しかし、一緒になって貴族までが逃げることだけは許しません。高貴なるが故の義務はどこにいったのでしょうか。我々は王命に従って陛下の馬前で斃れることを誇りとしていたのではないでしょうか」
ウェルズリー伯爵の言葉にカニンガム副官も頷き、そして帳面に書き付けていく。
「それと、騎兵を集結させます」
「どうするのですか?」
書き付ける手を休めずに、カニンガム副官がそう訊ねた。
まだ前線が崩れていないとはいえ、裏崩れを起こした以上、もう多少騎兵を投入しても立て直せない可能性が高いし、混乱に巻き込まれれば貴重な予備戦力すら無為に失ってしまうのはわかる。
しかし、今さら騎兵を集結させて何が出来るのか。
「これより私が騎兵を率い、突撃します。右翼が破られ、本営が敵の突撃に晒されれば負けです。そのまま左翼も崩壊するでしょうし、後は追撃の中逃げるしかありません。それを防ぐには――」
ウェルズリー伯爵はそこで短く言葉を切った。
そして、唇を噛みしめるようにして、語気強く言い切る。
「それを防ぐには――その前に、中央から押し出して敵の本営を衝くしかありません」
「それは……」
正面突破――もちろんそれが出来るならば最高の勝ち方と言えるだろう。
だが、それは数的優勢であっても困難なものであり、だからこそ包囲だ延翼だ、と世の中の将軍たちは苦労するのだ。
ましてウェルズリー伯爵のような戦術家として名を馳せている経験豊富な軍人がそれでどうにかなると思っているとはカニンガム副官には思えなかった。
「……時間稼ぎ、ですか?」
カニンガム副官の言葉にウェルズリー伯爵がぱちぱち、と拍手する。
「ええ、その通りです。あとどのくらいかかるのかわかりませんが、ユート君が後方に回り込んでくれるのを期待するしかありません」
それまでの間、時間稼ぎをやろう、というのがウェルズリー伯爵の意図なのだろう。
「しかし、たった二個大隊では……」
「わかっています。でも、やらねばならないのです。私は貴族であり、そしてここに王国の命運があるのですから」
高貴なるが故の義務を体現しようというウェルズリー伯爵の言葉に、カニンガム副官はそれ以上何も言えなかった。
「カニンガム副官、君は下がりなさい。部隊を纏めねばなりません」
「いえ、私も行きます。私もカニンガム伯爵家の嫡男です。逃げるわけにはいきません」
ウェルズリー伯爵はその言葉を聞いて、複雑そうな表情となる。
「あなたには軍をまとめてもらいたかったのですが……万が一、ユート君が間に合わなかった時、軍をまとめて撤退する人物が必要です」
「お言葉ですが総軍司令官閣下、それは逆ではないかと思われます。総軍司令官がいなければ、軍務省も総軍司令部も大混乱でしょう。ならば本来ここで騎兵を率いて突撃するのは、私かリーガン大隊長、イーデン大隊長のいずれかであるべきです」
「それはなりません。私が突撃することに意味があるのです。カニンガム副官やリーガン君、イーデン君ではただの突撃に終わります」
ウェルズリー伯爵の言葉にカニンガム副官もやはりか、という思いだ。
量が最も重要で、次に質が重要、士気は一番優先度が低い、という戦理の唯一の例外――死兵による白兵戦によって、ユートたちが駆けつけるまでの時間を絞り出そうというのだ。
「それならば、私も、そして司令部要員も、そしてその他志願者全ても含めて突撃しましょう」
カニンガム副官の言葉に、ウェルズリー伯爵は、一瞬だけ嬉しそうな顔をして、そして厳しい顔をして頷いた。
「傾注! 総軍司令官のお言葉である!」
本営前に整列した二個の騎兵大隊を前に、カニンガム副官が声を張り上げる。
既に右翼は戦線があちこちでほころびながら、ヴィクター老人が自ら戦ってどうにか大規模な突破や総崩れだけは防いでいるような状況であり、ウェルズリー伯爵が本営警護に呼び戻したウェルズリー伯爵領軍軽歩兵第一大隊が本営近くで抜けてきた敵軍と激戦を展開していた。
戦場の喧騒の中、静まりかえった騎兵大隊を前に、ウェルズリー伯爵が立つ――
「今、エーデルシュタイン伯爵がエーデルシュタイン伯爵領軍主力を率いて向かっている」
もちろんウェルズリー伯爵の想像だが、ウェルズリー伯爵はそれを信じている。
「しかし、両翼すでに崩れ立ち、既に我が軍は敗軍の危機にある。これよりは命をなげうってでも敵軍に突入し、エーデルシュタイン伯爵到着までの時間を稼がねばならない。騎兵大隊は突撃せよ!」
ざわめきが一瞬だけ起こる。
それはまさに玉砕命令であり、死んでこいと言われているのと同義だったからだ。
「もちろん、陣頭には私が立つ! 忠良なる王国の藩屏どもよ、この臣レイモンドと命運をともにせよ!」
ウェルズリー伯爵の言葉に、ざわめきは歓声に変わった。
王国の精兵たるもの、死ぬことを恐れはしない。
しかし、安全な場所から命令を下す指揮官に対して反発しないわけでもない。
だからこそ、総軍司令官自らが陣頭に立つ、と告げたことで士気が上がったのだ。
「リーガン大隊長、イーデン大隊長、用意はいいな?」
「もちろんであります! 総軍司令官閣下!」
リーガン大隊長が凶暴な笑みを浮かべて笑いかける。
「総員、乗馬せよ! 悌団を組め!」
リオ・イーデン大隊長が部下たちに命じる。
全員、きびきびとした動きで馬に飛び乗る。
その姿には、かけらも怯えが見えなかった。
天晴れ王国の精兵よ、とウェルズリー伯爵は褒めてやりたいのをこらえ、自分も愛馬に跨がった。
決して乗馬は得意ではないが、それでも騎兵大隊の突撃にはついていかねばならない。
大丈夫か、と自問自答しながら周囲を見回すと、騎乗の専門家にはウェルズリー伯爵が乗馬になれていないことがすぐにわかったらしく、リーガン大隊長がにやにやと笑っている。
「何を笑っているのですか、リーガン大隊長。早く突撃の命令を出してください」
そのウェルズリー伯爵の強がりに近い言葉に、リーガン大隊長は笑いを隠すことなく胴間声を響かせる。
「目標なんざ示さなくてもわかっているな! 野郎ども! 進め! 臆病者は流れ矢に当たるぞ!」
騎兵が、動き出した。




