第154話 出撃
翌朝、エリアは腫れぼったい目で起きてきた。
恐らくユートも同じだろう。
別に寝不足というわけではない。
クリフォード侯爵家は司令官でもあり、またエーデルシュタイン伯爵でもあるユートを粗略には扱えない、と一番いい客間を用意してくれたし、エリアも正騎士や副官の立場以上のエーデルシュタイン伯爵の側室、という立場を重んじてか、ユートの部屋とは続きの一部屋を用意してくれた。
その部屋は戦時下――というよりも戦場にある城とは思えないほど豪奢なものであり、エーデルシュタイン伯爵家の屋敷と比べても遜色のないものだった。
そのあたり、流石国境守護の侯爵家であるクリフォード侯爵家だ、と思ったものだ。
つまり、寝付けなかった理由、目を腫らしている理由はたった一つ――アドリアンのことだった。
「アドリアンは生きてるわ。そう信じましょう」
エリアは起きてくるなり、そう言ったが、それが強がっているのはユートにはすぐわかった。
エリアにとって、アドリアンとはどんな存在か、と問われれば、この五年以上の付き合いの中で、恐らく兄と妹なのだろうと思っている。
アドリアンはエリアの父デヴィットの弟子であり、同時に孤児だったアドリアンの父親がわりの存在だったのだろう。
そして、アドリアンがデヴィットに弟子入りした頃、恐らくまだ幼かったエリアにとってはよく遊んでくれた兄のような存在だったのではないか、とユートは思っている。
ユートにとっても、もう三十を超えているのに稚気のあり、そうでありながら数多くのベテラン冒険者からも信頼の篤いアドリアンという男は、得難い友、得難い仲間だった。
そのアドリアンが、敵中で奮戦し続けたのを最後に、今に至るまで誰も見ていない、という。
もうアドリアンが行方不明になってから一月が経過しており、食糧だってないのに、生きているわけがない、と思うところだってある。
いや、死んでいると考えるのが正しいのだろう。
しかし、ユートはあのアドリアンが死ぬとは思えなかったし、ひょっこり戻ってくるのではないか、と思えてしまう。
そんなことを考えているうちにいつの間にか寝入って、悪夢で目が覚めて、というのを一晩繰り返していたのだ。
「ユート、アドリアンは生きている。そう信じて、今やるべきことをやりましょう」
エリアの言葉にユートは黙って頷くしかなかった。
ジェイ・ジェイことジャスパー・ジェファーソンと会ったのは起きてすぐのことだった。
昨夜寝ていたことを詫びるジェファーソンは、四十がらみで筋骨隆々とした、いかにも軍人然とした人物だった。
「ロドニー様には仰りたいことが色々あると思いますがが、この度はどうか穏便に……」
会って挨拶をするなりそう詫びられて、ユートは困ったような表情を浮かべるしかなかった。
少なくとも単なる猪突猛進する軍人ではない、ということがわかっただけよしとしようか、とプラス思考に考えて、程よいところでジェファーソンとの会話を打ち切り、食事を摂った。
食事を終えると、西方戦列歩兵第一大隊のセオドア・リーヴィス大隊長と久々の再会をして、彼の案内で城内の視察を行う。
「アドリアン殿のこと、残念でした」
リーヴィス大隊長は何度か言おうか言うまいな悩んだ末にぽつりとそう言ったが、エリアにじろりと睨みつけられ、ユートも手で制したのでそれ以上は何も言わず、城内の案内だけに専念していた。
リーヴィス大隊長の案内で城内を見て回ると、予想以上に城内の様子は厳しいようだった。
クリフォード侯爵領の首府ともいうべき都市を丸ごと城壁で囲んでいるのはエレルなどの他の都市と同じであり、そうした多数の領民たちが飢餓に苦しまないように食糧の備蓄もちゃんとあるようだった。
また、数も多く領民も王国守護の気概に溢れていて、食糧と士気、という籠城戦で最も重要な要素についてユートは心配せずともいい、とは思えた。
しかし、クリフォード侯爵が主力を連れていってしまったこともあってか、アダムス支隊を加えても数が足りないらしく、疲労が溜まっているのは兵たちの顔を見れば明らかだった。
「市民の義勇兵もおるのですが、いくら尚武の気風があるとはいえ、そうそう戦えたものではなく……」
当然、とユートも思う。
市民の義勇兵や臨時徴募兵が正規兵並みに戦えるならば何のために高い維持費を払ってまで常備軍を維持しているかわからない。
もちろん冒険者のような例外はあるにしろ、ほとんどの徴募兵や義勇兵はせいぜい矢を運んだり食糧を運んだり、そうした後方任務に就かせるしかなかった。
それでも正規兵の疲労を軽減してくれているのだろうが、残念ながらその程度だった。
「それで、明日の朝までに疲労は取れないよね?」
「それはさすがに……ただ、エーデルシュタイン伯爵領軍が援軍に来てから、少し余裕が出たので交代で休みは取れています」
リーヴィス大隊長の言葉にユートも頷くしかない。
「ねえ、リーヴィス大隊長、騎兵はどのくらいいるの?」
「騎兵ですか……クリフォード侯爵領軍の騎兵はほぼ壊滅して今手元にあるのは二個中隊足らず、南方城塞の騎兵もせいぜい増強一個中隊、といったところですな」
「つまり、合計して欠編成の一個大隊あるかないか、といったところですかね?」
「数の上では。しかし、指揮権もばらばらなので、実際の戦力としては欠編成の一個大隊どころか、二個中隊かそこらでしょう」
「アーノルドさん」
「わかりました。私の指揮下で再編しましょう。ロドニー君やジェファーソンも文句は言わないでしょう」
アーノルドは軽く請け負ってくれた。
本来ならば貴族領軍を取り上げられるのは貴族からものすごく不満が出ることであるし、ユートも不安だったが、旧知で騎兵指揮官として知られているアーノルドならばどうにかしてくれるだろう。
ユートの指揮下に入っている南方城塞騎兵については否応があるわけもなく、これでともかく最低限の騎兵は確保できる、とユートはほっとしていた。
今回の作戦は、ある意味ウェルズリー伯爵率いる本隊が囮であり、ウェルズリー伯爵が敵の主力を引きつけている間にユートが敵の背後からぐさりと一刺ししなければいけない――つまり、相手が態勢を整える前に敵陣へ迫る機動力が必要であり、そのためには騎兵は必要不可欠だと思っていたのだ。
クリフォード城から出撃する他の部隊も基本的には機動力に富む編成として、エーデルシュタイン伯爵領軍の二個大隊以外には軽歩兵を中心に編成するつもりであり、久々に再会したリーヴィス大隊長は率いる戦列歩兵ともどもクリフォード城の防衛指揮官として留守番させるつもりだった。
「そして、あちらが攻城兵器となります」
城壁の上からリーヴィス大隊長が指差す先を見て、ユートは破城槌に投石機、そしてはしごや井楼が立ち並んでいるのが見える。
「あの攻城兵器群には随分苦しめられましたが、幸い南方城塞の法兵中隊がそっくり無事でしたので」
「ラッキーだったわね。あんなもの、剣や槍でどうにかなるもんじゃないわ」
「焼き払う、くらいですかね?」
「そうですな。焼き払うしか手はないでしょう。まあ移動しづらいものですから、打って出るときには全く問題はありません」
そんなこんなで、貴重な一日は暮れていった。
「いよいよ明日、ね」
エリアがそう呟いた。
ユートの部屋にはいつもの四人、ゲルハルトとレオナとエリアとユートが揃っている。
アーノルドも呼ぼうとしたのだが、明日に向けての臨編騎兵大隊の打ち合わせがあるらしく、忙しく飛び回っていた。
再編そのものは順調であり、クリフォード侯爵領軍から軽歩兵二個大隊、旧南方城塞軽歩兵一個大隊と二個中隊、法兵一個中隊、そしてあちこちの南方植民地からの雑多な寄せ集めが軽歩兵――というほど装備が統制の取れたものとはなっていないが――一個大隊と少し、そしてエーデルシュタイン伯爵領軍の二個大隊に、アーノルドの臨編騎兵大隊、リーヴィス大隊長の西方戦列歩兵第一大隊となっていた。
西方戦列歩兵第一大隊も消耗が激しいので、南方植民地の雑多な寄せ集めを含めてクリフォード城の防備部隊として、打って出るのはそれ以外の軽歩兵四個大隊強、猟兵二個大隊、法兵一個中隊、騎兵一個大隊の予定となっていた。
「勝てるかな?」
「まあクリフォード城の抑えになっとる部隊だけやったら勝てるやろ。いくらあの猛獣がおってもオレらならどないでも抑え込めるしな」
「攻城兵器は一応あちきらが焼き払うつもりニャ。あれがなくなればクリフォード城を包囲し続けるしかなくなるから万が一ウェルズリー伯爵が負けても近衛が来るまで持ちこたえられるはずニャ」
ゲルハルトとレオナの対照的な意見にユートは思わず笑ってしまう。
「ゲルハルト、明日は頼んだ」
「任しとき、“兄弟”。オレがどないかしたるわ」
ユートの言葉にゲルハルトが力強い言葉を返す。
――決戦は、いよいよ迫っていた。
王国暦六〇五年八月二日――
この日はノーザンブリア王国と、ローランド王国の歴史に残る日になるだろうとユートは感じていた。
もし負ければ、ノーザンブリア王国が南部を失い、その滅亡への一里塚となった日として。
もし勝てれば、ノーザンブリア王国が窮地に追い込まれながら逆転してみせた日として。
そう歴史に残る日になることは確実だった。
そうした歴史の一ページになる、という事実にユートは武者震いしながら、日の出と同時にクリフォード城の城壁に上った。
朝靄がユートの視界を妨げており、やぐらや井楼、あるいは投石機といった背の高いものは見えるものの、それ以外の兵の動きは見えなかった。
「不味いな」
ユートの言葉に、緊張の面持ちで隣に立つエリアもまたその言葉に頷く。
果たしてウェルズリー伯爵の本隊が対峙しているのか、それともまだなのか、まだならば敵は何をしているのか、もう退治しているならばどれくらいの監視部隊がいるのか、知りたいことはたくさんあるのに、朝靄で全く見えなかった。
「霧、じゃないわよね?」
「多分、だけど……」
霧というほど視界が妨げられているわけではないが、それでも邪魔なのは間違いない。
苛立ち、焦れる気持ちを必死に落ち着けて、敵のわずかな動きも見逃すまいとじっと靄の向こう側の様子を探ろうとする。
既に打って出る部隊――エーデルシュタイン兵団と名付けられたそれ――は城門の前の広場に待機している。
ユートが今と判断して命令すれば彼らは城門を出て、敵陣で躍進する――そして、それにはノーザンブリア王国の未来がかかっていた。
じわり、とユートの額に脂汗が浮かぶ。
それは暑い夏の朝の、西内海から吹き付ける蒸し暑い風のせいではなかった。
「あちきがひとっ走り行ってこようかニャ?」
敵陣を偵察に出る危険な任務を、まるでちょっとおつかいに行くような感覚で言うレオナの言葉に少し笑おうとして、引きつった笑顔になる。
「ユート、もっと笑うニャ」
レオナがそう言うが、そうそう笑えるものではない。
「しかめっ面してたら見えるものまで見えなくなるニャ。見えないものはしょうがないニャ。今、手元のあるものだけでどうにかするのが冒険者ニャ」
レオナの言葉にユートは頷く――それでも緊張が完全にほぐれるわけはないが、少なくとも朝靄に腹を立ててはしょうがない、と自分に言い聞かし、そして少しだけ笑顔を作る。
「そうだよな。冷静さを失ったら勝てる戦いも勝てなくなるよな」
「その通りだニャ。どうせ戦いになったら多少見間違っていてもゲルハルトがどうにかするニャ」
「そうそう、オレが……ってオレかい!?」
「え、今さら何を言ってるニャ?」
隣でレオナとユートのやりとりを見ていたゲルハルトが、不意に矛先が自分の方に向いたのに、必要以上におどけてみせ、それにレオナが突っ込みを入れる。
それにようやくユートは笑えた気がした。
「風向きが少し変わった?」
エリアが空を見上げてそう言う。
「靄が流れてくれるといいんだけど……」
「そう簡単にはいかないさ」
ユートはそう言いながら、焦るなと自分に言い聞かせて靄の方を見やる。
ユートより視力のいいゲルハルトやレオナも、じっと靄の先を見ようとするが、何も見えない。
その時、ゲルハルトがぴくり、と反応した。
「ユート、敵が動いとるぞ!」
「どこだ?」
「あそこら辺や。どっちに動いとるかまではわからんかったが、慌ただしそうな動きやった」
ゲルハルトの言葉を聞いて、ユートは敵の方をじっと見る。
ゲルハルトが指した、一千メートルほど先のあたりに敵兵の動きは見えなかったが、投石機やはしご、井楼が相変わらず佇立しているのは見える。
「よし、ゲルハルト、出撃準備」
「ええんか? こっちに攻めてくるのかもしれんで?」
「攻めてくるなら、攻城兵器を動かすと思う」
「……わかった。その通りや」
ゲルハルトはそう言うが早いか、城壁からすぐに降りていった。
「あとは、決定打になる敵の動きを……」
「ユート、靄が晴れるわ!」
風向きが変わり、強い風が靄を吹き飛ばしていく。
さっきまで見たいと切望していた敵陣が、ようやく露わになる。
その靄が晴れた先――ユートが見たのは、昨日とは打って変わった、数の減った敵陣だった。
「いけるぞ! ウェルズリー伯爵が敵を引きつけてくれた!」
思わず叫んでいたが、ユートの叫び声に城壁の下からも歓声が上がる。
「兵団長閣下、お言葉を!」
アーノルドがユートにそう声を掛ける。
出撃命令を出す前に、兵を鼓舞する為に一席ぶて、ということらしい。
一瞬戸惑ったが、リーヴィス大隊長が、アダムス支隊長が、ジェファーソンが、ロドニーが、みなが城壁に立つユートのことを見ているのがわかる。
「諸君!」
そう切り出した。
あとは野となれ山となれ。
「祖国は今、危機に直面しており、このクリフォード城はまさに陥落の危機にある! この中で、祖国を救えるのは諸君らしかいない。血と涙と、そして汗を提供する諸君しかいない! 勝利なくして生き残ることはない。 諸君らの双肩に、ノーザンブリア王国の未来がかかっている! 一意奮闘せよ!」
ユートの言葉に、歓声が上がる。
ユートは、思い切り格好を付けて、さっと手を振り、敵陣を指差した。
「エーデルシュタイン兵団、抜剣! 目標、敵監視部隊、躍進距離、一千! 門を開けろ! 駈歩! 突撃に進め!」
そのユートの命令とともに城門が開け放たれた――




